走る凶気が私を殺りにくる

三浦晴海

第1話



【■月■日 ■時■分 ■■■■■】


 鬱蒼うっそうと広がる山林に、一筋の車道が通っている。


 アスファルトで舗装ほそうされた対向二車線の細い道路は、黒い蛇がうように山間やまあいを抜けてはるか先の森まで続いていた。


 国道にしては整備不足の目立つ悪路だが、付近一帯には他に主要な道はなく、近隣で生活する人々にとっては貴重な生活道路となっていた。


 激しい雨の降りしきる夏の夜。


 山裾やますその村からも遠く離れたその車道の途中に、一台の車が停車していた。


 ゆるやかなカーブから次のカーブまでを繋ぐ、やや上り坂の中間地点。迫り出した木々がひさしを作るその下で、雨を嫌う獣のように車が身を潜めていた。ヘッドライトもブレーキランプも点灯しておらず、エンジンも停止している。民家はおろか街灯も存在しないこの道路では危険な障害物となるが、後続車や対向車が通りがかる気配はなかった。


 停車する車の左側はなだらかな山の斜面となっている。林業従事者のための小さな作業道か、森の奥にむ野生動物の通り道か。泥濘ぬかるみとなったその地面には、靴底による人工的な波形模様なみがたもようが残されていた。足跡は斜面に逆らって木立こだちの奥へ続いている。柔らかな土にかなり深く刻みつけられているが、雨水が流れ続けているのでいずれき消されて自然に戻るはずだった。


 斜面を少し登った先にある、やや平坦な林の片隅に、うっすらと光がともっている。手を伸ばせば届くほどの太い枝に、赤暗い光を放つ電灯が吊り下げられていた。持ち手の付いた赤い胴部の先に、電球が入った黒い輪状の照明部が付いた、防災用品にも使われる電池式の電灯だ。その持ち手部分を枝に通して、下向きに光を落としていた。


 電灯の下には、黒いレインコートが立っていた。


 木々をすり抜けたわずかな雨が、ぽたぽたとフードに落ちている。レインコートはそれに気をめることもなく、黙々と地面を掘り続けていた。軍手を着けた両手で腰ほどの長さのあるショベルを持ち、金属部分の底に片足を掛けて土にし込み、えぐるように土を持ち上げて脇に捨てる。暗闇の山中で一人、ざくりざくりと音を響かせていた。


 レインコートの足下には、大きな黒いゴミ袋が三つ落ちている。口部は固く縛られているので中身は見えないが、かなりの重量があるらしく底が泥に沈んでいた。水切りが不十分な生ゴミが大量に入った状態に似ている。雨に濡れそぼったそのかたまりは、まるで巨大なヒルのように粘った光沢を帯びていた。


 蒸し暑い熱帯夜だったが、雨が降っているせいか鳥や虫の声はなく、穴を掘る音以外には葉を打つ雨音しか聞こえなかった。疲れを見せることなくショベルを動かす姿には無駄がなく、作業にも慣れた様子がうかがえる。深くフードをかぶった顔は電灯の陰に紛れて表情も定かではない。固い地面は大きく削られ、さらに深く傷口を広げていった。


 やがて充分な穴ができあがると、代わりに積み上げられた近くの盛り土にショベルを突き立てる。そして空いた手で足下のゴミ袋を一つ引き寄せると、縛った口部を解いて持ち上げて、中身を穴の中に落としていった。どぼどぼと、嘔吐おうとするような音とともに黒い液体と固形物が注がれてゆく。最後に袋を裏返して水気を切ると、元に戻して小さく折りたたみポケットにしまった。残り二つのゴミ袋も同じように口部を解いた。


 三つのゴミ袋の中身を全て捨て終わると、再びショベルを取って今度は盛り土を穴へと戻し始める。これも掘っていた時と同じく黙々と、慣れた手つきで作業を進めていった。雨を吸った土は重く固まり、半分ほど液体に満たされた穴の底へ沈んでいく。濃い土の匂いと、森の匂いと、強烈な腐敗臭が辺りに立ち込めていた。


 その時、ふとレインコートの手が止まる。


 穴からやや外れたところに、見慣れない物体が落ちているのに気がついた。


 ショベルを残りの盛り土に突き立てると、右腕を上げて頭上に吊した電灯を引き寄せて枝から取り外す。この暗がりではほんの数歩先も光が届かず、物体の正体も判別できなかった。掘り返された木の根の残骸ざんがいにも見えるが、つい先ほどまでそんな物は落ちていなかった。腕を下ろして電灯の光を当てると、ようやくはっきりと存在を表した。


 それは切断された、人間の右手だった。


 手首から指先までのてのひらが泥にまみれて落ちている。血を失って骨を浮き上がらせたそれは枯木のように茶色く変色して固まっていた。もはや男か女か、若者か老人かも区別が付かない。分かることは、ゴミ袋の中身を開いた際にこぼれ落ちたことだけだった。


 レインコートは腰を屈めると、左腕を伸ばしてその手を摘まみ上げる。まるで無造作むぞうさに地面の石を拾うように、ためらう様子は一切なかった。そのままゆっくりと腰を上げつつ顔の前まで持ち上げる。さらに右手に持った電灯の光を向けて明かりに照らした。


 そのまま数秒間、微動だにしなかった。


 ひとしきりの観察を終えると、その右手を穴の中にぼとりと落とす。電灯を再び頭上の木の枝に吊すと、ショベルを取って残りの盛り土で穴を埋めた。掘った時よりも地面は盛り上がったが、いずれは周囲と変わらない高さまで下がって見分けが付かなくなる。たとえ不自然さがわずかに残ったとしても、この広い森では誰の目にまることもなかった。


 全ての作業を終えると周辺に明かりを巡らせて、他に見落としはないか確認する。何も問題ないと分かるとショベルを持ってその場を離れて、斜面を下って停車していた車へと向かった。後部のハッチを開けると新品の黒いゴミ袋を広げて、着ていた黒いレインコートと、履き替えた長靴と、中身を捨てたゴミ袋を収める。ショベルは雑巾ぞうきんで泥と雨水をぬぐってから車内に入れ、最後に軍手を外して黒いゴミ袋に捨て口を閉じた。


 ハッチを閉めて運転席へ回って車に乗り込むと、息を付く間もなくエンジンをかける。眠るようにまっていた車は身震いを始め、うなるような声を辺りに響かせた。二つのヘッドライトが煌々こうこうと光を放つと、車はゆっくりと発進する。背後の景色は通り過ぎるなり深い闇にまれていった。


 山深い森林に再び雨の音だけが響く静寂が訪れる。


 この日、この時間、ここで起きたことを知る者は誰もいなかった。



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