第29話 蛇の足も煎ずれば美味

 真っ直ぐに、循環するように、もしくは輪廻のように。それが必要な周期であるかのように私は湊の家を目指す。


 私を何年も支えてくれたのは愛する家族でも絆の深い親友でもなく、湊の部屋の前に設置された室外機だった。支えてくれてありがとう。そう言って踏み台にすると、ベコッという音が返ってくる。ごめんって。


 窓を指で軽く叩くと障子戸が開く。風呂あがりなのか、髪に艶がある湊が私に目配せをして、また自分の定位置に戻る。よっこらしょと足をかける。ここに来るとき、スカートは穿けない。もっとも、ここに来るのにスカートを穿く理由もない。本当にないか? 寝るとき楽だからジャージで来るように、スカートのほうが楽な場面あるかもしれない。考えると、夜風に触れた肌に再び熱が宿るようだった。


「ムカデに噛まれなかった?」


 この部屋に来たときに第一声を放つのはいつだって湊のほうだった。まるで用意していたかのような滞ったもののない流れに関心しつつ私も曖昧に返事をする。


「え、いるのこの季節。いないでしょ」

「いないことを証明はできない」

「いないことは証明できないけど、いることも証明できなくない?」

「いることを証明できたとき、それはムカデに噛まれたとき。つまり、もう遅い」

「と、半年前ムカデに噛まれた奴が供述しております」

「犯人みたいな言い方しないで」

「あれ、化粧水変えた?」


 椅子に座るとつい湊を見て、その奥にある机に視線を移動させてしまう。特に意味はない。この部屋に来たときの、一種のルーティンのようになっていた。


「変えてない。あれは乳液」

「えー、使ってるんだ。乳液なんて使ってるのうちのお母さんだけだと思ってた」

「え、そうなの」

「え、違うの?」

「え、わかんない」

「え、わかんないで買ったの」

「え、つけるのは多い方がいいんじゃない?」

「えー?」

「えー・・・・・・」


 衝動買いでもしたんだろうか。買った本人も困っていた。


「今日もつけたの?」

「つ、けたけど」


 なんでどもった。


「へー、効果のほどは?」

「・・・・・・よくわからない」

「ちょっと触らせてよ」

「いいけど」


 私が指を向けると、湊は頬を差し出すようにこちらへ晒す。なんかキス待ちされてるみたいだ。


「うわ、でも柔らかいよ」

「ほんとに?」

「ほんとほんと、おー、すごい。なんか、あれ触ってるみたい」

「あれ?」

「鶏肉」

「もう付けない」

「ごめん言い方悪かった。胸肉ね、胸肉。あ、生だよ?」

「そこで引っかかってるわけじゃないから」

「怒らないでってば。いいじゃん、もちもちしてて。かわいいよ」


 唇を尖らせていた湊だったが、かわいいと言ったら機嫌を直したのか唇の輪郭を波打たせて突き出していたものを引っ込めた。


「あれ、湊こんなゲーム持ってたっけ」

「持ってた」

「やってるところ初めて見た」

「近江が忙しいときに買ったから」

「ああ」


 忙しいときね。


「湊が寂しがってたときか」

「誰が」

「どうどう、落ち着いて湊。かわいいよ湊」


 ずい、と抗議するように詰め寄ってきた湊をなんとか宥める。もっちりとした頬が、照明の光を反射していた。


「たらしみたいだからやめたほうがいい」

「どれが」

「かわいいって、すぐ言うの」

「そっか、じゃあやめるわ」


 まだまだ自分のことで精一杯なのに女をたらしこめている暇なんてない。


「近江もやる?」


 湊が私を見ないまま、コントローラーを差し出してくる。


「うーん」


 少し考えて、天井を見た。


「寝る」

「は?」

「寝よう、湊」

「ええ、もう?」

「早く寝て、早く起きて遊ぶ。たまにはそういうことをしないと」

「朝遊ぶって、明日は学校」

「サボっちゃおう」


 湊の顔をじーっと睨む。ヘイヘイ、とにこやかに笑ってみせれば私の幼なじみは脆い。


「近江といると、堕落していく」

「選んだのは湊のくせに」


 それが図星だったのかどうかはわからないけど、湊はゲームの電源を消すと観念したように布団に入り込んだ。定位置に着いた途端、辺りを警戒しながらうつ伏せになる様はまさに猫だった。


 特に断りはいれないまま電気を消して、私も空いたスペースに潜り込む。


 私に追いやられるように、湊が奥へとズレていく。布団を半分だけ分けてもらうけど、これが均等になったことは今まで一度もない。


「二人で学校休んだらなんか言われるかな」

「言われるに決まってる。サボり確定だし」

「それもそうか」


 それなのに、罪悪感というものは微塵も私の中に存在しない。


 右に行けば正解で、左に行けば間違いなのだとしたら、私はきっと正面に突っ込むだろう。どうせそこは整備もされていない湿地帯。枯れ葉や朽ちたコンクリートが広がるだけで、泥に足跡を作る者すらいない。


 そういうジメジメとした場所で、潤っていけたら、もっとドロドロと体を、存在を溶かせるだろうか。誰もいない岩の裏側で、影に塗れて湿っていく。そういう、存在に。


 母も待ち望んでいるだろう。叶恵も私の躍進を願っていただろう。先生や、学校、世間も私に期待をしていただろう。


 それらを全て置いてきて、私はこうして湊の隣にいる。明かりの消えたこの部屋は、岩の裏側のように暗く、渇きのない場所だ。


「今頃大変だろうね」

「なにが?」

「私を、信じてた人たちは」

「そうかも」

「悪役だ、私も」

「それは」


 湊が否定しかける。でも、最後までは言わなかった。


 互いに寝息を立て始めると、時計の秒針の音が意識につられるように遠くなっていく。


 正確な時間はわからないけど、夢に片足を突っ込むような半覚醒状態がかなり続いた。気温が寒くなってきたこともあり体がなかなか寝付こうとしないのかもしれないし、もう一つ、私は明日の遠足を待ち望むように、浮き足立っていた。


 遠足とはいっても、てるてる坊主は作らない。私は、雨を望んでいたからだ。


 隣から、ぴちゃ、ぴちゃ、と水音が聞こえた。


 この部屋に雨が降るタイミングを、私は最近になって理解した。ただ泊まるだけじゃ雨は降らない。私が湊に触れたり、近づいたり、そういうイベントが発生した夜にだけ、この雨は降るのだ。


 もう一度、と願うように。その先も、と祈るように。


 哀切な音は鳴り続ける。


「湊」


 私がハッキリとそいつの名前を呼ぶと、不自然な勢いで雲は去り、雨は止む。しかし太陽は出ない。どうなってるんだろうこの天気は。


 灰色のまま、雲も太陽もない空が広大にどこまでも続いている。


 私が振り返ると、湊もこちらを向いていた。しかし目は閉じていて、わざとらしく寝息を立てている。そんな、走ったあとみたいな寝息があるか。


「湊」


 もう一度呼ぶ。湊は狸寝入りを決め込んだのか返事をしない。瞼が時々ピクッと動いているから、起きているに決まっているのだけど。


 寝ていたら寝ていたで、それは問題だ。湊の寝癖を一度治してやらないと、修学旅行とか、私以外と泊まったときに大変じゃないか。


 指をゆっくりと湊の鼻先に当てる。前に私がされた。湊の真似だ。


「寝てるのか」


 さっぱりそんなこと思ってないけど、そう呟いている。湊が頷いた、ように見えた。寝てます寝てます! って?


 そのまま指を下に移動させて唇に当てる。


 化粧水だか乳液だか知らないけど、湊の唇はそんなものを使ったなによりも柔らかかった。コメディ映画かと思ったらエッチなシーンがありました、みたいな、衝撃にも似た甘美な刺激を受ける。


 指で唇をつつく。


 跳ね返ってくる。


 柔和なその間に、指を潜り込ませる。


 湊の眉が、僅かに動く。悪夢にでもうなされているような表情をしていた。


 抜くことはせず、どんどん、どんどん奥を目指す。


「舐めて、湊」


 湊はまだ目を開けない。


 私の指先に、ざらりとしたものが触れる。


 猫がミルクを舐めるように、小さな舌が、私の指先をチロチロと舐める。


 この行為に意味などない。未来のために役立つことは一つもない。


 ただ消費的にゲームをして、それを横から眺める。それとなんら変わらない、無価値で無意味な時間。誰もが未来のために走って行くなか、私と湊だけが、手を繋いで、逆戻りしていく。


 頭が、ジーンとする。


 それと同時に、湊の息が荒くなっていくのを感じた。湊は寝たフリを忘れて、一心不乱に私の指を舐めている。まるで取り憑かれたように、子供に戻ったように。


「こういうことが、したかったんでしょ」


 湊と目が合った。湊が切なそうに目を半分開けて、私を見ている。


「私にこういうことされるの想像してたんでしょ」


 もう雨宿りのフリをする必要もない。


 私は手に持った傘を放り投げて、雨の降る外へと飛び出した。

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