第28話 河豚は食いたしゲームもしたし

 のし掛かったものをすべて捨てると、周りの人たちは信じられないという目で私を見た。それはもはや才能とか実力とかじゃなくて、私という人間に対しての失望だった。


 あれだけの仕事を、あれだけの期待を、どうして裏切れるの? 説き伏せるように言ったのかもしれないが、私にとってそれは民を弾圧する王政の傲慢な駆け引きにしか見えなかった。


 私も、言い方を選べばよかったか。いきなりやめたらびっくりしちゃうのかもな。


「好きじゃないので」


 気を遣った台詞のつもりだったのだけど、それが逆に私を取り巻く空気を刺激してしまったのかもしれない。


 そりゃ、私がいきなり全部を辞めて断って逃げて諦めてと一方に逃げてしまったから、多くの人に迷惑がかかったのかもしれない。でも、だからって好きじゃないと一喝した私にたいして「ロボットみたい」なんて言わなくてもいいじゃないか。


 たしかにロボットに趣味なんてないだろうし誰かを好きになることなんてないのかもしれない。でも、嫌いになることだってないのに。


 好きを忌避しているわけじゃないし、好きであることの素晴らしさを否定したつもりなんてない。私はただ、何かを好きになるという人間に必要な部品を産まれたときに落としてきただけなのだ。だからロボットなんて呼ばれる筋合いはない。


 私のように、人を好きになったことのない、なれない存在をロボットと同じように横文字で呼ぶ風潮もあるらしいけれど、私は物も好きになったことがないので少し違うのかもしれないし、オプション付きで今が大変お得になっているだけかもしれない。


 次第に私を見る世間の目は変わっていった。ぽっこりと、腫れ物になった気分だった。


 世間が私を見放し、見捨て、忘れたあと、価値のないものに群がろうとしていた自分に気付いて我に返ったハエたちが、自らの巣に戻るというしっかりとした手順を踏んで、私を尊敬する人や憧れる人は消えた。


 誰も目を合わせてはくれないし、話しかければ返事はしてくれるけど、面倒ごとを避けるように私を横目に見るのが日常だ。


「あ、豊ちゃん」


 放課後、掃除を終えて湊を探している途中、見知った顔を見つけて話しかける。


 一生懸命水飲み場にクレンザーを巻いていた豊ちゃんは驚いたように背筋を伸ばしておそるおそる振り返った。一瞬だけ渋い顔をしたが、すぐに友好的な笑顔になる。それは特別珍しいことじゃない、少し前から私の視界に増えた、気遣いの表情だ。


 人を真正面から忌み嫌うのは、なかなか難しいことなのかもしれない。


「まだ掃除してたんだ」

「あ、えっと。うん! けっこう水垢が残ってるから、思い切って大掃除しちゃおうかなって」

「他のみんなもう帰ってるのに? 偉いね」

「そ、そうかな」


 豊ちゃんは手を止めて、濡れたタワシを胸の前で握りしめている。水滴がポタポタと垂れて床を塗らす。雨のようで、涙のようでもあった。


「そうだ、この前借りた小説明日持ってくるよ。長い間借りててごめん」

「ううん、気にしないで! 読んでくれただけでも嬉しいよ」

「あ、いや。読んでないんだ実は」

「そっか」

「ほんとはあんまり好きじゃないんだ」


 悲しげな表情、震える唇。そこからこぼれ落ちるのは、他の人たちと同じ、不満や失望だろうか。


「ごめんね、押しつけるみたいにしちゃって」


 人工的に作った胡散臭い太陽みたいな、眩しい笑顔を浮かべる豊ちゃんに、私は返す言葉がなかった。


 無理に笑う豊ちゃんを見て胸の痛まない私はきっと、人の期待に応えられるだけの器なんて最初から持ち合わせていなかったのだ。


「そうだ、湊見なかった? 一緒に帰ろうと思ったんだけど見当たらなくて」

「湊ちゃん・・・・・・?」


 まるでその名前を口にするだけで体の一部が傷つくかのような歪んだ表情を豊ちゃんは浮かべた。


 そして少し考えるような素振りを見せて、


「かえっ」

「え?」


 かえっ、てなんだ。言葉が短すぎて、けっ、に聞こえた。そんなゲスい声を出す子だったか? 


「あ、帰った?」


 神経衰弱のように答えを探す。豊ちゃんは勢いよく首を横に振った。タワシからピチャピチャ、水滴が飛ぶ。


「音楽室!」

「え、音楽室? なんで? あそこの掃除は水曜日だけでしょ」

「そうだけど、さっき渡り廊下の向こうで湊ちゃんが階段を上がっていくのが見えたの。あっちには音楽室しかないし」

「うーん? 湊が音楽室に用事なんてあるかな」

「用事というか、今日は吹奏楽が大会でいないからじゃないかな。ほら、暗くて静かだから、湊ちゃん、そういうところ好きかなって。だから音楽室にいるよ、きっと」


 私はほんの少し、関心してしまった。


「豊ちゃん、湊のことよくわかってるね」

「う、うん。それなりに」


 遠慮がちに謙遜する豊ちゃんの視界に、あのもそもそと動く小さな影がきちんと入っていたようで、少しホッとする。私の幼なじみがいつのまにか幽霊になっていなくてよかった。


「ありがとう豊ちゃん、行ってみるよ」

「う、うん」


 別れはあっさりと、惜しむものもなかった。背中に視線を感じながらも、私は音楽室へと足を向ける。


 はたして音楽室になんて、本当にいるのだろうか。


 世間から見た今の私の評価を鑑みるに、嫌がらせをされても不思議ではなかった。


 そんなことを考えながら音楽室の重い扉を開けると、埃っぽい空気が一気に肺に潜り込んでくる。


 室内は暗く、歴代音楽家のみなさまの写真が飾ってなくてよかったと胸を撫で下ろす。


 グランドピアノの裏に小さい明かりが見えたのでそこへ向かうと、ゲームの液晶から目を離した湊が警戒するように顔をあげていた。


「なんだ、近江か」

「なんだ、湊か」


 草むらから飛び出したダンゴムシを見るような目で私を見上げるなこら。


 すぐにゲームの液晶へと視線を戻す湊に肩を竦めて、私も隣に座らせてもらう。


 誰もいない真っ暗な音楽室の端っこでグランドピアノに隠れるように座るのはたしかに、居心地がよかった。外界からの刺激に身構える必要がない。


「なんでメッセージみないのさ、どこって送ったのに」

「見てなかった。ボス戦前」

「そうですか」

「近江、よくこの場所がわかった」

「豊ちゃんに聞いたんだよ。湊どこ? って聞いたら音楽室にいるかもって」

「・・・・・・・・・・・・・・そう」

「なに今の間」


 湊が急にゲームの電源を切って壁に寄りかかった。


「やっぱり私、悪役なんだ」

「なにそれ」

「世界を救うより、燃やし尽くしたい」

「ダークヒーローって言葉もあるし、いいんじゃない?」

「一理ある」


 納得したのか、また電源をつけてゲームを再開した。単純なやつ。


「この前の水族館、また行きたいね。イルカショー見損ねたし」

「私は、やっぱり外出たくない」

「なんでえ、湊が一番オシャレしてきたくせに。あれ新しく買った服でしょ」


 湊の耳がピクッと動いて赤くなっていく。


 やることもないので湊がゲームをプレイしているところをボーっと眺める。湊のしているゲームが気になるのか、それともゲームをしている湊が気になるのか。私としては前者であるとは思うのだけど。


 湊がゲームをしているところなんて昔からすっと見てきたわけだし、今更新鮮味なんて感じない。そういう、新鮮なものをそぎ落として落ち着きを得たのが幼なじみというものだ。私にとって新鮮とは、新たな刺激でもあるので、平坦なほうがいい。


 それにしても、幼なじみか。


 母の股から顔を出しておぎゃあと一泣きしたときにはすでに私は妹であり、才能を授かっていた。決して拒むことのできなかった代物を、私はつい最近捨てたばかりだ。


 姉を追って誰かを救えるような生き方を選ぶことはなかったし、才能に準じて課せられたものも無責任に放棄した。


 これで私に残された消えることのない焼き印は、幼なじみだけとなった。


 幼なじみというのは厄介だ。小さい頃から遊んでました。家が近くて。そんなような共通点だけで仲良くなっただけなのに、その事実があるだけで、ただの友達には永遠になれない。


 親友や、恋人ならまだ簡単に捨てられた。だってその場で、ハッキリと辞めてくれと断ればいいだけだ。今と今を繋げる関係は、部屋に溜まったゴミのように捨てることができる。


 けど幼なじみは、そうもいかない。


「カタツムリって性別がないんだって」

「へえ」

「誰でもいいってさ、なんかいいよね」

「それは、そうかも」


 湊もカタツムリに憧れを持ったのか、ほんの少し頬が緩んだように見えた。


 そんな湊の肩に頭を預けて、寄りかかってみる。


「最近寒くなってきたね」


 ブレザー越しに伝わってくるカーディガンの柔らかい感触。湊はこの時季になると、毛をもさもさにしたスズメみたいになる。


「ね」


 返事がないので催促すると、湊は小さく「ん」と呟いて私に体を寄せてきた。


 おおう、なんだこの。


 なんだ。


 湊がゲームを仕舞い、床に手を置いた。


 その手に、私の手を重ねて、握ってみる。


 湊も同じように、私の手を握り返してきた。


 仲睦まじい、幼なじみ。


 互いを必要として、拠り所としている幼なじみ。


 それを辞めるには、捨てるには、どうしたらいいのだろう。


 互いに思っていることはたくさん言い合った。抱えているものや、過去に抱えていたもの。そういうものを吐き出し合った私たちに、もう秘めたものはない。


 と、思っていたのだけど。


 やべ。


 一つだけ。私だけが一方的に知っている秘密があることを思い出してしまった。


「今日さ、行ってもいい?」

「うん」

「窓からね」

「そうして」

「たぶん十時頃」

「わかった」


 追い越してしまえばいいのかもしれない。


 過去から未来へ、その不可逆な幼なじみという関係を捨てるには。もっと未来へ。もっと先へ、進んでしまえば逆に。


 もう二度と、幼なじみには戻れなくなる。

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