第五章

第27話 枯れ木はよく燃える


 規則やルールというものを盲信するばかりでどうしてそのような決まりがあるのかということを考えたことなんてなかったし、それを考えた人の精神状態や感情なんてまったく別の場所にあるものだと思っていた。


 みなとの家を出る際、いつのまにか帰っていたらしい湊おばあちゃんの背中が見えた。出すのはまだ早いこたつに寝そべって相撲中継を見て、せんべいをボリボリ、背中をポリポリ。一体全体、そのどこに規則やルールなんてものがあるんだか。


 結局、目の前でせんべいを食べられたらこっちが不快だからという理由で、人は「ここでせんべいを食べてはいけない」というルールを積み上げていくのだろう。


 そう考えると、何かに従うこと自体、バカらしくなっていく。湊おばあちゃんが私に気付いて「もうけえるんけ」と鼻のかかった声で言う。


「けえります」


 戸の曇りガラスから顔を出してお辞儀をする。あちらに見えていたかどうかはわからない。靴を履き替えて玄関をくぐると、湊がのそのそと遅れてやってくる。


 スカートから伸びた枝みたいに細い足にはガーゼが乱雑にぺたしぺたしと貼ってある。ちなみに私が貼った。


 湊と学校へと向かう。なんとか閉会式の点呼には間に合った。体育館の入り口でゼエハアと息を切らす私たちを全校生徒が訝しげに見てくる。そんな視線にも、積み上げられたなにかがあるのだろうか。


 自分たちのクラスを見つけて、担任のお叱りを受けながらへらへらと笑い列に加わる。斜め前にいたとよちゃんと目が合う。豊ちゃんは他の生徒と変わらないような怪訝な視線を、私から、私の後ろで肩で息をする湊に移す。


 閉会式はあっという間に終わって、そそくさと帰宅する。その際にいろいろな人から話しかけられた。


 どこ行ってたの? 心配したよ。このあとどうする? 打ち上げ? 電話番号交換しよう。奔流にも近い交友の嵐が心臓の形をハートからダイヤモンドに変えていく。


「湊と帰るから」


 湊って誰? というようなざわめきが帰ってくる。こっちこそ、あんたら一体誰なんだ。クラスメイトはわかるけど、他校の制服を着た人や、後方からこちらを窺うスーツ姿の大人たち。あんたらこそ誰なんだ。


 するとその人たちは湊にも興味を持ち始める。湊さんってお友だち? 恋人? どんな関係? どんな人? 


「そういうの、いいから」


 小石を蹴るように吐き捨てた。


 もっと、言い方のようなものがあったはずだった。相手を気遣い、自分を守り、そういう輪を作るのが人と人同士、生きていく上での規則だ。その規則を作った人は、きっと一人になるのが怖かったんだろう。自分以外の場所で誰かが繋がっているのを見るのが耐えられなかったのだろう。


 規則というものがある以上、規則というものは作られたものであり、作られたという以上作った人がいて、人であるならば必ず感情が交錯する。


 おっかなびっくり私に群がる人たちを横目で見ていた湊の手を引っ張って学校を後にする。


 家に帰るとまた、両親が私を迎えてくれた。


 今日文化祭だったんでしょ? どうだった? そうだ、さっきテレビ局から電話がかかってきてね、お母さん取材されたのよ。どういう教育を心がけてきたんですかって、ふふっ、ちょっと恥ずかしかったけど乃絵の小さい頃の話全部しちゃった。それからオファーも来ていて、ダンスの先生からも。


「行かないから」


 私がそう言うと、母の動きが固まって、新聞を読んでいた父も顔をあげて私を見た。


「東京には行かないことにしたから」

「ど、どうして? 体調でも悪い? それとも他に用事でもあるの? スケジュール管理が必要ならお母さんに言ってちょうだい? お母さん乃絵のえに協力できることならなんだってするから」

「来週は、湊と水族館に行くから。だから東京には行けない」

「す、水族館って。そんなのいつでも行けるでしょう?」


 そういうことを言えば、母がどういう反応をするか予測はついていた。だからあまり、目は合わせられなかった。私たちが規則やルール、それから人の期待や夢憧れを盲信するように、この人もまた、私を信じてやまないのだ。


「それから、テレビとかそういうのも、もうやめて。出版社にも断りの電話いれておくし、ダンス教室の先生にも謝っておくから」

「乃絵、そんな簡単に決めなくてもいいんじゃない? 休むっていうのは、お母さんも賛成するわ。ここのところかなり忙しかったから。ちょっと休養して、万全な状態でまた臨めばいいでしょう? ここでそんな決断をすることはないわ」

「そう思う?」

「だって乃絵、今にも乃絵を必要としている人がたくさんいるのよ? 作品だってそう。乃絵の作品が世に出回ればそれを見て救われる人だって必ずいるわ。そういう力が乃絵にはあるのよ? みんなが乃絵に期待してる。みんなが乃絵を求めてる。だから――」

「あはは、お母さん」


 なんかもう、笑ってしまった。


「私、一度でも誰かを救いたいなんて言った?」


 もし言わずとも見えてしまう眼鏡でもあるのなら、是非使ってみたい。でも、そんなものはこの世には存在しないのだから、適当なことは、言わない方がいいよ。


 私は母が嫌いではなかった。むしろ、すごく感謝しているし、恩も感じている。でも、その優しさのせいで、頑張らなくちゃって思うときもあったから。豪華でおしゃれな衣装もまたいいけれど、装飾が多ければ多いほど、肩が重いのだ。


「で、でも、乃絵・・・・・・」

「ごめんね、お母さん」


 泣きそうになっている母に背を向けて、私は自室へと走った。


 賞状、トロフィー。それから、私が私になろうとした残骸。


 漫画もたくさん読んだ。これ面白い、好きだ。そう思っても、私の他にもその漫画を好きな人がいて、その人は私なんかよりよっぽどその漫画が好きだった。私がとっくにその漫画の存在を忘れかけているときでも、その人はずっと好きな漫画のことについて語っていた。好きなものを探そうと何かを好きになろうとした私とは、好きの質が違ったのだ。


 部屋にあるものを、全部ゴミ袋に詰めていく。過去の栄光。過去の賞賛。未来への道、未来への希望。それはたぶん、どれも燃えるだろう。


「乃絵」


 開け放していた扉の前に、父が立っていた。


「手伝うよ」

「ありがとう」

「全部捨てるのか?」

「うん」

「粗大ゴミになるものは隣の部屋に分けておきなさい。休みのうちにお父さんが捨てておくから」


 勝手に入ってくるなこんにゃろうと思ったけど、どうせ全部捨てるのだから私の部屋というか、物置みたいなものだから、物置に不法侵入もなにもないな。


「お父さん」

「なんだ」

「ごめん、お父さんが前くれたお小遣い、新幹線のキャンセル料だけで消えちゃった。高いんだね、キャンセル料って」

「どうして謝る」

「無駄遣いしちゃったから?」

「キャンセルするのは、無駄なのか?」


 逆に問い返されてしまった。


「無駄じゃないか」

「じゃあ謝らないでいい」

「うす」


 体育会系みたいなノリになってしまった。私も父も、どちらかといえばインドア派なのだけど。


「これで全部か?」


 父が手伝ってくれたおかげで、ゴミをまとめるのは予想以上に早く終わった。


 積み上げるのには時間がかかって、崩すのは簡単。砂のお城と人生は、同じようなものなのかもしれない。


「お母さんを責めないでやってくれるか」


 砂のお城を蹴ったり殴ったり踏んづけたりして、バラバラになったそれを片手でひょいと持ち上げた父がそんなことを言う。


「お母さんな、叶恵が死んだとき、もう立ち直れないってくらい落ち込んでて、この先、生きていけるかも不安だったんだ。一度だけ、一緒に死のうなんて誘われたときもあったよ。そのときはお母さんも気が変になっていたから、当然断った。だって、僕たちはまだ死ぬわけにはいかなかったからだ。なぜだかわかるか?」

「借金があったから?」

「やめてくれよ。お金だけは、困らせないようにしているつもりだ」

「だろうね」


 無駄に広いこの家を見れば、嫌でもわかる。


「乃絵を置いてどこかへ行くことなんてできなかったから、だから僕もお母さんも、いつまでも悲しんでるわけにはいかなかったんだ」

「そっか」


 たいした感動秘話でもない。特別な愛の物語でもない。親なら、そうやって子を思うのも自然なのかもしれない。だから感動して涙ぐむこともなかったけれど、父もまた、私に泣いてほしくてそういう話をしたわけじゃないようだった。


「もう充分だよ」


 ゴミ袋を二つほど持ち上げた、父が。私の過去を軽々と持ち上げた私の親が、疲れたような顔で言った。


「一回の人生、人一人救えたら、それでいいじゃないか」


 それじゃあ、と父が扉を閉めて下へと降りていく。それから少し経って、玄関から二人の声が聞こえてきた。父と母で、どこか出かけるのかもしれない。


 見計らったわけじゃないけど、私もリビングへと向かった。テーブルには今日の夕飯が、まだ温度を保ってかけられたサランラップに水滴を作っている。


 襖を開けて、仏壇の前に座る。


 線香を一つ差すと、灰の香りが鼻腔を突く。この香りを嗅ぐと葬式の日を思い出すが、これが人の死んだにおいだとは、私は思えなかった。


 小さく鐘を鳴らす。手を合わせる・・・・・・理由は昔からよくわからなかったので、手を合わせることはせずにへにゃへにゃと溶けたように笑う叶恵の遺影を見つめる。


 私には才能なんてものがあったらしいけど、それで自分の思い通りの生き方ができないのなら才能なんて要らないって思ってた。


 叶恵には才能なんてものが欠片もなかったけど、必要であるはずの才能を持たないまま、叶恵は自分の好きなように生きてみせた。


 姉妹であるはずなのに、こんなにも正反対だ。それなのに、叶恵はいろいろな人たちへしっかりと生きた証を刻んでいった。


 私が死んだら、同じように誰か泣いてくれるだろうか。


「そういえば今日、湊と話したよ」


 霊とか魂とか、そういう人間の創作物を、私は元々信じてはいなかった。だからどうして、叶恵の遺影なんかに話しかけたのかが自分でもわからない。


「本当、出会ったあの日のまんま。生きた化石みたいだ」


 死人に生きた化石の話をするのは、酷だろうか。


「みんな、叶恵みたいに生きてくれって願ってた。私も、叶恵みたいに生きれたらって思ってた。でも、それを今日、捨ててきたよ」


 叶恵みたいに作品を書いて誰かを救いたい。だって私には才能がある。才能があるなら、この力で誰かを。そうやって生きていると、私の愛想笑いや渋い顔は、この目の前の遺影みたく、動かなくなってしまう。それじゃあ死んでいるのと一緒だ。


「ごめん。私、思ったよりも、適当に生きるかも」


 謝っても、叶恵はふにゃふにゃ溶けたままだ。生きていても、きっと同じだろうけど。


 仏壇に置かれた本を手に取る。ちなみにお経の本ではない。


 これは叶恵の遺作だ。叶恵が死ぬその間際に書き記した物語だ。


 一ページ、なにとなしにめくる。


 この本を読んだのはたしか二年くらい前だったか。小説というもの自体、読むのが億劫だったから当時はマトモに読んでいなかったけど、最近は豊ちゃんから借りた小説なんかで多少は目も肥えたから、今なら読めるかもしれない。


 ・・・・・・という感じで読んでみたが、やはり、あまりしっくりとこなかった。いやたぶんこれは、叶恵の文章力の問題かもしれない。プロの書いた文章を読んでから叶恵の小説を読むとやはり稚拙な出来に見える。


 叶恵の小説は物語というよりも、自伝のような雰囲気があった。叶恵の抱えていたものがそこに記されている・・・・・・とはいっても、特に目新しい発見はあまりない。


 特にこの、主人公がどうにもぱっとしない。


 そもそもヒロインとの出会いが、逆上がりを練習しているところというのがあまり、こう、ロマンチックではない。


「変な主人公」 


 叶恵はどうしてこんな逆上がりもできないちんちくりんを主人公にしたのか。


 叶恵のなかで、この不器用で凡才な人間を主人公にしなければならない理由でもあったのか。


 本を閉じ、仏壇に返す。死人に口なし。


 ただ、生きていれば口が必ずあるとも限らない。

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