第26話 インメルマンターン
乃絵は明らかに動揺している。手に吸い付かなくなったボールが、持ち主を嫌うように反発し宙に投げ出される。その一瞬の隙すら見逃すわけにはいかない。
近江乃絵という人間と戦うときに、同じ時間の中を生きていると思ったらダメなのだ。
「叶恵さんのいない世界で頑張ろうなんて、思えるわけないでしょ」
「ごもっともで」
乃絵は明らかに焦った表情を見せるが、声色はいつも通り飄々としている。けど、私が乃絵の表情を歪ませることに成功したという事実が、なおさら私を高揚させる。
乃絵がボールに触れようと手を伸ばす。でも、それじゃ届かない。バスケを四年続けて培った勘と、予測が私の味方をしてくれる。
乃絵、そういうときはボールに手を伸ばすんじゃなくて、体を返して背中でディフェンスを妨害するんだよ。私だけが知っているバスケットボールの基礎を、甘い果実のように脳内で咀嚼する。その甘みと酸味に、つい涎が出そうだった。
「これで私の――」
その瞬間、私の目の前からボールが消えた。
バカだ。
バスケの基礎? 四年間で培ったもの?
忘れてた。そんなの、この人間にはなんの関係もないんだった。
乃絵はキャッチできないと悟るやいなや〝中指〟だけで、引っかけるようそのボールを手繰り寄せた。
私の手は空を切り、ボールを再び手にした乃絵は左足を軸に回った。私が体勢を立て直したころにはすでに、乃絵はドリブルを再開し私を抜く準備を済ませていた。
「バスケットボールって意外と手にくっつくね」
「本当、そういうとこ」
意外と、じゃない。普通そんなふうにボールは手にくっつかない。それは乃絵が持つ運動神経と動体視力と空間把握能力、そして並外れた指先に連なる神経の並びが成した技にすぎない。
奥歯が軋む。才能というものにへし折られた、バスケを諦めざるを得なかったあの日を思い出す。
「たいして練習もしてないくせになんでできるの」
「や、今のはたまたまだって。もっかいやってって言われてもできないよ」
「やめて、そうやって謙遜するの。らしくない」
「あ、そ。湊のためを思ったのに」
そう言うと、乃絵は人差し指でボールを拾い上げると、指先でくるくると回転させる。ムカついて手を伸ばすも、指先に乗せたまま、まるでけん玉のようにボールを操り私の猛攻を避けて見せた。
「バスケって簡単じゃん」
「近江のそういうところ、本当に嫌いだった」
「だったってことは、今は嫌いじゃないの?」
「もう諦めた」
「諦める才能の持ち主じゃん。アイデンティティがあっていいと思う」
「煽ってる?」
「なんか楽しくなっちゃって」
私、今。たぶんすごい顔してる。汗で前髪が張り付いて気持ち悪いし、スカートもずり落ちてきそうだ。それなのに、乃絵は涼しい顔を保っている。あんなに動きづらそうな衣装を着てるくせに。
「近江だって、私のこと嫌いだったでしょ」
「・・・・・・なんでそう思うの?」
「なんとなく。子供のころは、そんな目で見られてた気がした。だから私も、近江が嫌いだったんだと思う。見下された感じがして。嫉妬して」
「あー、ね」
乃絵にも心当たりがあったのか、懐かしむような顔で、口元を歪めた。
「才能ないのにもがいて苦しんで、そういう私を、近江はいっつも遠くから見てた。叶恵さんに慰めてもらう私が、おかしくて仕方なかったでしょ。天才からしたら」
乃絵は私に見せつけるようにボールを右肩に乗せて、それから手を使わずに左肩へと移動させ、地面に落とし、ドリブルを続ける。私や、私の先輩たちですらやっていなかったボールさばきを、乃絵はこの短時間で取得してしまったようだ。
絶対、取ってやる。
乃絵が油断している隙をついて走り出す。届かない。もう一度手を伸ばす。あと少しのところで、躱される。
「私は湊のこと」
前屈みのまま体勢を崩す私を、乃絵が見下ろす。見下される。バカにされる。それが本当に、この世の不条理を一心に受けているみたいで・・・・・・。
「かっこいいって思ってたよ」
コンクリートと砂利で出来た地面に、私たちの表情は映らない。だから顔を上げて、この目で見なくてはいけない。
「才能とかそういうのに囚われないで、自分の好きなことのために頑張る湊のこと、ずっとかっこいいって思ってた。私もあんな風になりたいって、思ってた」
・・・・・・意味が、わからない。
私は乃絵を妬んでた。あれほどの才能を持っていながらそれを活かそうとはしない。逆に才能はないくせにそれを活かそうとする私を、乃絵はバカにしているって思ってた。だから私もあのときは、乃絵が本当に嫌いだった。
喧嘩したこともあった。私が一方的に罵声を浴びせたこともあった。私と乃絵は叶恵さんという共通点しかない、不完全で不安定な関係だった。
それは互いに抱き合った、嫌悪感からくるものだと思っていた。
なのに。
「ゲームしてる湊を見て、なんでそんなにゲームばっかりできるんだろうって思ってた。ゲームなんてなんの役にも立てないし、誰かのためにもならない。それなのに湊はゲームが好きだからって叶恵が死んだあともゲームだけはやめなかった。好きなものをずっと好きでいられる、そんな湊を、私は尊敬してた」
「なに、言って。だって子供のとき喧嘩した。叶恵さんが止めてくれなかったら、私と近江はたぶんあそこで」
「うん、だからあのとき、すごく悲しかったよ。ああ、私は、湊からそんな風に見えてるんだ。やっぱり、好きなものを好きなままでいられる人って強いなって、あれ以降は一人でよく考え込んじゃったな」
乃絵はいったい、何を言ってるんだ。それじゃあまるで、私ばかりが一方的に乃絵に嫉妬してただけじゃないか。
「すごいよ、湊は」
乃絵はその大きな瞳を真っ直ぐ、私に向けていた。
「その手には引っかからない」
忘れるな。今は勝負だ。私は勝ちたいから、乃絵を負かそうとしている。だからどんな手を使っても勝ちたい。言葉で乃絵を揺さぶったっていい。長年胸に秘めていた想いを吐き出してでも、勝ちたい。
「どうせ嘘だって言うんでしょ」
乃絵だって同じはずだ。だまされるな。さっきから嘘の立て続け、そうやって揺さぶられるのはもうごめんだ。
目の前のボールに、手を伸ばす。
「嘘じゃないよ」
乃絵はボールを動かさない。
巧みにボールを操る指。私じゃ決して至ることのできない場所にあるそのボールばかりを見ていた。でも乃絵は、ボールではなく、ずっと私を見ている。
「本当だよ。湊」
その無防備なボールに触れることができない。乃絵はとってくれと言わんばかりんにボールには触れようとしない。
ボールが無造作にバウンドする。
それが、一瞬の迷いだった。
私の体の右に逸れてバウンドしたボールは、そのまま私の背後に飛んでいく。
そして乃絵は、私の左を走り抜ける。
「だから、勝ちたいって思うんだよ!」
ぐらついた体が、まるでへたりこむように地面を目指す。完全に体勢を崩された私は地面に手を着いてボールを追う。
そういう抜き方は、バスケの世界にも技術として存在する。でもそれは、ボールのバウンド具合とか、強弱とかの関係もあって完璧に扱うのは非常に難しいテクニックだ。でも乃絵はそれを一発で成功させた。それどころか。
半径一メートルの範囲を保って・・・・・・!
もうすでに乃絵とボールは繋がりを作っていた。私が何年かけても手に入れられなかったものを、この数分で会得してしまう。
その技術。その才能。
それが本当に、憎い。
才能なんて消えてしまえ。
そんなものこの世にはいらない。邪魔なだけだ。
才能なんてものがあるから、乃絵が苦しんでいるんじゃないか。
「・・・・・・ッ!」
才能というものに立ち向かおうとすると、いつも私は転ぶ。逆上がりのときだってそうだ。できないことをしようとすると、気付けばいつも地面に突っ伏している。それでも意気揚々と完璧にこなしている人間と自分を比べてしまい、辛くなる。
叶恵さんはそんな私を救ってくれた。
誰も私を責めたりなんかしない。だから嫌いにならないで。
好きなものを好きでい続ける。それはとっても素敵なこと。
だから主人公になんかならなくていい。特別なんかにならなくていい。焦燥感に駆られるように、何者かになろうとしなくたっていい。
ありがとうございます、叶恵さん。
叶恵さんのおかげで、私は今日も、私らしく生きてられます。
でも、近江乃絵という人間だけは、諦めたくないんです。
だから今だけは、叶恵さんからもらった言葉を捨てます。
どこかで、叶恵さんの声がした気がする。それは私を鼓舞する声か、私を許す声か。
違う。
はじめて叶恵さんと会ったときに聞いた、あの声だ。叶恵さんが鉄棒を握って空を飛んだときの「とりゃ」という間の抜けた声だ。
私も、そうやって間を抜けて、飛んでみたい。
執念じゃない。根性でもない。
これはただ、何度も見てきた乃絵の背中がそこにあったから。その寂しげな背中を助けてあげたいから。
「ちょっ、湊!?」
受け身を取ることすらできなかった。地面に落下した私は、轢かれたカエルみたいに突っ伏した。膝に広がるジンジンとした痛みが、滲むよう足全体に広がっていく。
「大丈夫?」
「い、いだい」
口の中に砂利が混ざっている。喋るとジャリジャリ。吐き出そうとしても口の中に引っかかってなかなか出て行ってくれない。
「すごい音したけど・・・・・・」
乃絵のつま先が、私の頭の横にある。
「まさか、追いつかれるとは思わなかった。よくあの体勢からジャンプできたね。バスケの技?」
興味深そうに乃絵が聞いてくる。
「今のは、インメルマンターン」
「それが、例の」
「強敵と相まみえたときだけ、使える技」
「それにしてはボロボロみたいだけど。ボールを優先して受け身を取らないなんて。まだまだ未完成なんじゃない? インメルマンターン」
「うぅ」
正直、本気で痛かった。膝はもちろん、顎も打ったみたいで頭がクラクラする。脳しんとうってやつ? けど、このまま気は失いたくない。私の指先に、ボールの感触を感じるまでは。
「ボール・・・・・・」
あった。
私の両手には、しっかりとボールが握られている。ずっと追いかけてきた、ゴムの感触が、指先に触れている。
突っ伏したまま、私はボールを投げ飛ばした。・・・・・・つもりだったんだけど、力がうまく入らず、ボールはゆっくりと転がっていくだけだった。
けど、乃絵はそれを取ることはしなかった。
「私の、勝ち・・・・・・」
「半径一メートル、出ちゃったね」
乃絵がその場にしゃがみこんだのがわかった。
「そこまでするか? 普通」
「だって、勝ちたかったから」
「私に?」
「近江に」
「そっか」
負けたというのに、乃絵は悔しそうな声色を一切聞かせてはくれなかった。無様に転んだ私を見て、嘲笑っているのだろうか。
ううん、乃絵はそうじゃない。だって乃絵は私のことを。
「湊」
「ばに」
突っ伏したままだったから、変な声になってしまった。それを聞いて、乃絵が笑う。
「ありがと」
乃絵に頭を撫でられると、変な気持ちになってしまう。叶恵さんに撫でてもらうような、優しく、落ち着くような心地でもない。けど、友達がふざけて撫でてくるような安っぽさもなく、乃絵だけが持つ、このいろいろな感情の入り乱れた乱雑な撫で方が、好きだった。
「これで東京に行けなくなった」
負けを認めた乃絵が、こぼすように呟く。
「たった一度で、姉と才能を捨てることができた」
その言葉の意味が、わたしにはよくわからなかった。
「カタツムリまで、もうすこし」
もっと意味がわからない。カタツムリって、なんなんだ。
「本当に、ありがとね。湊」
その噛み締めるような感謝の言葉に、適当に言ってるわけではないのだなと思った。乃絵にとってカタツムリとは、とても重要な事柄なんだろう。いや、でもやっぱり、なんでカタツムリなのかはさっぱりわからないけど。
けど、私も私で、吹っ切れたものがあるのは事実だ。
一つは、世の中才能ばかりじゃないということ。そりゃ、最終的なゴール地点では比べようのないほど差がついてしまっているかもしれないけど、苦しんでいる誰かを救ってあげられるくらいの力は、誰だって持てる。上を見ると辛いから、そういうときは横を見ることにしよう。そこにはたぶん、才能とか実力とか出世とか評価とか、そういうものから外れた存在が、もそっと立っているはずだから。
そしてもう一つ。
引きずられると、痛いこと。
勇猛果敢にダイビングキャッチを決めた私だけど、今はやめておけばよかったと後悔してる。だって、痛いもん。
ズルズル、と永遠に続いていくような痛みは、刹那的な、それこそ死んでしまうほどの衝撃よりもずっと辛い。
だから、叶恵さんのことは引きずるんじゃなくて、背負ってあげよう。そう思った。
「近江・・・・・・」
「なに?」
「きゅ、救急車・・・・・・」
「はいはい」
体がふわっと持ち上げられる。
目の前には乃絵の顔がある。
なんで、お姫様抱っこ・・・・・・?
困惑する私を抱いたまま、乃絵は楽しそうに家の中へと運んでくれた。
そのあと傷口に付けた消毒液は、泣いてしまうほど痛かった。
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