第25話 クラッチ・コンバージョン

「なに、その顔」


 乃絵が振り返って、私を見る。


「必死に止めちゃってさ。さっきまで私が東京行くことに賛成してたくせに」

「それは、叶恵さんのことを思って」

「じゃあ今は、叶恵のことは思ってないって?」

「思ってないわけじゃない。でも、近江が、苦しむ方へ進む必要はないって、思っただけ」

「湊の意見って、こと?」


 私は首を横に振った。


「意見とか、そういうのじゃない」

「なにそれ」


 乃絵が白い歯を見せて笑う。その笑顔に、人は焦がれ、群がった。跳ね返る光があまりにも眩しいから、昼間であることも忘れて、蜜を求める虫のように、乃絵を求めた。そんな光景を、いつも私は遠くから眺めていた。


 あのとき、私は本当に、乃絵以外の人間のことを虫にしか思っていなかった。だって誰一人、乃絵の本当の気持ちなんて理解してない。乃絵が無理して笑っているのを知りもしないくせに、私を差し置いて乃絵を理解したような口ぶりで褒め称えた。


 そういう脊髄で動いているような連中をバカみたいって思って、私ならって妄想して、でもそれは盲目的であった決して豊かな想像ではなかったから、現実に成ることはなく、寂しいという気持ちを余裕ぶった態度で一蹴して、大人ぶってきた。


 でも、それが私にとって、最も辛い時間でもあったから。


「私の、願いだよ」


 どこにも行かないで欲しかった。


 私のそばに居て欲しい。私だけを見ていて欲しい。


 それが、私がずっと抱えてきた、泥水みたいな願いだ。


 乃絵は虚を突かれたように目を丸くして、そのあと気まずそうに目をそらした。


「じゃあさ、勝負しよう」

「勝負?」

「そう。私が勝ったら、私は東京に行く。湊が勝ったら、私はどこにも行かない」

「乃絵だって行きたくないんでしょ。なら、勝負なんてする必要ない」

「違うよ湊。これは、決意の問題だ」


 大きくて綺麗な手が私へと差し出される。


「結局こういうのは、正解も間違いもないんだから。ふっきれたもん勝ちだよ」


 乃絵はおそらく、どっちの道を歩んでも大成するだろう。でもそれは結果だけを見た話だ。継続や、乃絵の体と心にかかる負担を考えたら、どちらを選ぶべきかは明白だ。


 才能があってなんでもできて、顔も綺麗で、スタイルもよくて、性格も明るくてユーモアもあって、いろんな人たちから一目置かれるそんな乃絵が、周りの環境に形を変えられていく姿なんて、もう見たくない。


 愛想笑い。お世辞。綺麗事。そういう剥がれることのない模様を、乃絵の体に刻みつけられていくのは、耐えがたいことだ。


「わかった」


 私は乃絵の提案を受けることにした。


「一回やってみたかったんだ、こういうの」


 なんでそんな楽しそうにしてられるのか疑問でしかたがない。私にとって、これは人生を左右するくらい重大なことなのに。


 そうか、私。とっくに乃絵に人生を狂わされているのか。


 叶恵さんから始まり、乃絵に繋がる。私の人生は、近江という人間に果てもなく取り憑かれ、酔狂してしまっていたのだ。


「じゃあ、まあゲームでいっか。どっちもやったことあるやつって言ったら」

「バスケがいい」


 私の提案が意外だったのか、乃絵はゲームのスイッチを押そうとした体勢のまま固まっていた。


「本気? 湊バスケなんて・・・・・・ああ、やってたね。ミニバスだっけ? でも四年生くらいで辞めてなかったっけ」

「辞めた」

「大丈夫? 怪我しないでよ」

「馬鹿にしないで」

「いいけどさ。私も体育でバスケくらいやったことあるし」

「玄関にボールがある」

「やる気じゃん」

「私にも、ふっきりたいものがある」


 私は乃絵を追い越して玄関へ走った。ずっと使っていなかった、そこそこに磨り減ったバスケットボールを手に取って、外に出る。


 庭の前にある広い駐車場で、乃絵を待ち構えた。乃絵はいつもと変わらないのらりくらりとした足取りで靴を履き替える。


「近江、バスケの授業真面目にやってなかった」

「だって楽しくないし。それに私、バスケはそこそこに下手だよ?」

「私のこと、抜いたくせに」

「え、いつ」


 歯が軋むのがわかった。私の記憶に巣くっているあの出来事を、乃絵はさっぱり覚えていないことに対する苛立ちと、一方的な感情に対する悔しさのようなものが込み上がってくる。


 私の心を折ったのは乃絵だ。乃絵が才能という刃で、長年培った努力というものをズタズタに切り裂いた。バスケットボールを持った乃絵を止めることのできなかったあの日に、私はバスケというものを辞めたのだ。


 乃絵にボールを手渡す。


「近江がドリブルして、ボールを持ったままあの白線を出たら近江の勝ち。乃絵の手元からボールが離れたら、私の勝ち」

「ボールなら離れ放題なんだけど」


 ドリブルしながら、乃絵が言う。


「屁理屈。じゃあ、近江の半径一メートルからボールが離れたら」

「湊は私からボールを完全に奪うか、弾くしかないわけだけど、いいの?」

「これでも、四年間ずっとバスケを頑張ってた」

「ゲーミング少女の口から出る言葉とは思えないね」

「ゲーミング少女ってなに」

「虹色に輝く少女、湊」

「勝手に光らせないで」

「アマゾン奥地にいるよきっと」

「虫と一緒にしないで」

「そういえばムカデに噛まれたって言ってなかったっけ、大丈夫?」

「よく覚えてたね。おじいちゃんに毒抜きしてもらったから平気」

「そう」

「うん」


 乃絵がボールを地面にバウンドさせる。弾んで、跳ね返る。そういう自然な力のいらない会話が、私は好きだ。乃絵と過ごす、この時間が好きだ。だからこれを手放したくない。


 乃絵をこのまま東京まで送り届ければ、今にも、そして将来的にも乃絵に救われる人はたくさんいるだろう。乃絵のおかげで、生きる元気や勇気を貰える人が、これから始まる輝かしい乃絵の未来に待ち構えている。


 だから、これは本当に私の我が儘だ。


 独占欲。嫉妬。自分で言語化するとあまりにも幼稚に見えるこの感情を盾にして、乃絵を私の近くに置いておきたいと抗議する。


「じゃあ、ルールの再確認ね。私がドリブルであの白線を超えたら東京行き。湊がボールを弾くなりして私の半径一メートルから遠ざけたら東京には行かない。それでいいんだよね?」

「いい」

「おし」


 乃絵は脱力していて、体の軸が右にずれている。けれど軸足には確かに体重が乗っていて、いつでも瞬時に動き出せるよう理想的な体勢を取っている。それが意図的なのか偶然なのかはわからない。


 動きづらそうな衣装を身に纏い、ボールを操る。ドリブル自体はぎこちないが、手首は柔軟に動きスナップもきいている。やり方も何もわからないのに、体が順応するように理にかなっているそのフォームに嫉妬する。そうやって、気怠そうな顔をして、誰かの努力を食い漁っていく。この乃絵という人間はどこまでも・・・・・・。


「・・・・・・ッ!」


 乃絵が地面を蹴った。


 ボールは一度跳ね返ると、吸い寄せられるように乃絵の手元に収まる。半身でボールを守るようなドリブル体勢を取られ、これではボールを弾き出すどころか触れることすらかなわない。


「って、ちょっと、近江!」

「うわ、なに」

「トラベリングだって、それ」

「ドラミング? ゴリラか?」

「違うって。ボール持ったまま三歩以上歩いちゃだめ」

「誰が決めたのそんなの」

「知らない。でもルールだから」

「あっそう」


 乃絵が私を挑発するように、二歩ごと歩いて見せる。


「ルールってのはいっつも、そんなもんか」

「とにかく、三歩以上はダメ。わかっ――」


 言い終わる前に、乃絵が加速を始める。駐車場の小石を擦る音が私の耳にまで届いてくる。どれだけ、激しいステップを・・・・・・!


 なまった体をなんとか動かして食らいつくも、ボールに触ることはできなかった。


「ちょっと、今私の体に触ったでしょ。ファールだ」

「あれくらいファールにならない」

「あんな抱きつくみたいにしても?」

「だ、抱きつくみたいにしても」

「抱きつき放題だね」


 放題じゃない、という追撃を口に仕舞う。


 気を抜けば、乃絵は一瞬にして私を抜き去っていく。このドリブルだって、肩慣らしに過ぎない。乃絵はもっと早く、巧みに、まるで風のようになれる。


 才能のない私が才能しかない乃絵に勝つには、これまでの経験と、集中と、それと。


 それと、なんだろう。なにがあれば、その才能という理不尽なものを止められるのだろう。


「近江」

「・・・・・・なに?」


 突然口を開いた私に、乃絵は僅かに警戒したような声色で返事をした。


「私は、近江が嫌いだった」

「それは、初耳」

「私よりも才能があるくせに、私よりもつまらなそうに生きてるのが気に食わなくて、小さい頃はずっと近江が嫌いだった。ウザかった。ムカついた。ふざけんなって、思った」


 いつもそうだった。


 私が叶恵さんと遊んでる横で乃絵はピアノの練習をしたりして、難しいパートをいとも簡単にこなしてみせると乃絵のお母さんが大はしゃぎする。嬉しそうに笑うその姿を見て、乃絵は目を細めて不機嫌そうに鍵盤を睨むのだ。


 どうして、そんな風に冷め切ってられるのか不思議で仕方が無かった。


 逆上がりができなくて泣いてしまう私と乃絵の間にある溝があまりにも深すぎて、苛立ちを覚えていたのだ。


「なら離れたらよかったのに。私は止めないよ」

「でも、近江が誰よりも苦しんでることを知ったから、嫌いじゃなくなった。ああ、コイツも、私と同じなんだって。近江、私は近江のことを、たくさん知ってる」


 乃絵の動きが、やや散漫になる。


「正直、叶恵さんが亡くなって、私辛かった。もう生きてる理由なんてないって思ってた。学校行く元気もなくて、一週間くらい休んだし」

「あったね、そんなこと」

「でも、近江がいてくれたから、私は叶恵さんのいないこの世界でも頑張ろうって思えたんだよ」


 ドリブルを続けるその手に、迷いが生じている。ボールの反動が弱まり、跳ね返ってくる空気の振動が、まるで乃絵の感情であるかのように震え拒絶する。


「気付いてないかもしれないけど、私。近江に救われてた」


 乃絵の手からボールがこぼれる。その瞬間。


 私は私の幼なじみの歩むこれからの輝かしい未来に、手を掛けた。


「嘘だよ」


 それは初めて、私という存在が乃絵という完璧超人に影響をもたらした瞬間でもあった。


「今、安心したでしょ。ねえ、なんで安心したの? 近江」

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