第24話 ダウト・シャウト

 なにが私のことをわかってくれるのは湊だけ、だ。現在進行形で、私は乃絵のことが理解できていない。カタツムリになった気分って、ついに寄生虫でも飼い始めたのか。 


「じめっとしてるから」

「うちはそういうもの」

「あ、いやそうじゃなくて。湿気が多いから、湊って」

「私?」

「カラッとはしてないでしょ」


 遠い過去に置いてきたものだ。今更小突かれても、図星にもならなかった。


「近江はカタツムリになりたかったんだ。初耳」

「カタツムリはいいよ。急がずのんびりと過ごせる」

「でも、飛べない」

「飛べなくていいよ」

「鳴けない」

「鳴けなくていいよ」

「鳥にでも食べられるよ、すぐ」

「失うものがない」

「食べられてるんだから、失ってるでしょ」

「それもそうか」


 乃絵の問答が、たしかに雨に打たれるよう重くなる。ズルズルと引きずっていく会話は、繋がれば繋がるほど私の踵を掴んで離さない。乃絵が欲しているのは、まさかこれだとでもいうのだろうか。カタツムリみたいに地べたを這いずって、生きることを。


「近江、そろそろ離れてくれない?」

「なぜに?」

「重い」

「最近痩せたんだけどな。痩せたよね?」

「ちょっとだけ、頬が」


 でも、それは痩せてるんじゃなくて、やつれてる、って、言わないか。


 乃絵は私に馬乗りになったまま、動いてくれない。私もずっと目を合わせているのは気まずいから、頭を横に向けて押さえつけられた自分の腕をボーッと眺めていた。


「来週、東京に行くんだ」


 脈略のない会話の切り口に、相槌を打つこともできなかった。


「出版社に行って、それから芸能事務所に行って、昔習ってたダンス教室の先生にも会ってくる」


 あの噂は、本当だったんだ。どっちでも、いいけど。


「その先生次第だけど、もしかしたら、海外に行くかもしれない」


 中学のときにもバレエの先生から外国への無償留学を提案されていたくらいだ。今更海外なんて単語が出てきても驚きはしなかった。バレリーナにでも作家にでも芸能人にでもタレントにでもアイドルにでも勝手になればいい。乃絵には、その才能があるんだから。


 乃絵は私が返事をしないことが面白くないのか、むすっと頬を膨らませて睨んできた。


「なんか言ってよ」

「なんかって、乃絵は、すごい」

「すごいって、なにが?」

「誰かに、いろんな人に、必要とされて、それに応える実力を持ってる。だから、すごい」

「私がただの、ネジだったとしても?」


 鉄製のそれと遜色ない、冷たい声だった。


「生まれたときから進むことが運命づけられてるんだよ。進む方向が一方にしかなくて、戻りたいって体を捻っても穴はグズグズで、私自身とっくに先がすり切れて形を変えてる。そうやって何回も何かを繋ぐために取り付けられてさ、それで、誰かが救われるって。いい加減にしてよ」

「乃絵・・・・・・」

「好きになればいいって言えばみんな言うけどさ。そういうの、生まれたときにどっか落としてきちゃったんだよ。ねえ、湊、私、欠けちゃってるんだ」


 ガラスの、割れる音。そのあとに聞こえる乃絵のお母さんの怒鳴り声と、どこまでも自分を卑下した、行き場のない悲痛な叫び。


 乃絵は、あの日と同じように、私を見下ろして痛々しく吐露した。


「湊、好きって、なに?」


 まるですべてを諦めたように、作り笑いを浮かべる。


「私、今度こそ頑張ろうって思ったよ。あんなにみんながあれが好きこれが好きって言うんだから、私自身のことも好きって言うんだから、信じたんだよ。最初は辛かった。思ってもないお世辞を言ってしたくもない気遣いをして、でも誰かが頑張れって言うから頑張って誰かが応援してくれるから苦痛でも続けた。私はまだ気付けていないだけで、続ければいつかはって」


 学校の、世間の、誰が想像できるだろうか。こんな乃絵の顔を。


「でも私、やっぱりダメだった。コンクールの作文だって嘘を連ねるだけの作業に思えて億劫だったし、演劇だって誰かが私を推薦してくれたからってだけで引き受けたけど人のために他人のフリをして何やってんだって感じだった」


 たまたま合わなかっただけだ。とは言えなかった。


 乃絵がこれまで賞を穫り、評価され、様々な分野で活躍しておきながらそのどれもが一年と続かなかったのを私は間近で見てきた。


 乃絵が好きじゃないと愚痴を吐いても周りの大人はいずれ好きになるから、やっていくうちに好きになればいいとその冷たいネジのような子供をなんとか説き伏せようとしたが、やはり、一つ足りとも届くことはなかった。


「叶恵と仲が良かった編集者さんがさ、私の作文を見てくれて、是非うちで本を出さないかって言ってくれた。もしかしたらって思ったよ。叶恵があれだけ好きだった小説だ。妹の私にだって好きになれるって。豊ちゃんも小説の楽しさとか、素晴らしさとか、いろいろ教えてくれた。私、もう一回だけ頑張ってみようかなって思ったんだ。でも」


 雨のように、その声が落ちてくる。


「もう、疲れた。私、東京とか行きたくないし、海外も嫌だ。ずっと、この部屋にいたい」


 私の腕を掴む乃絵の手が、ぷるぷると震えている。


 ああ、そうか。この手は私を逃さないためじゃない。


 乃絵がこの場所から逃げないように、掴んで離さないのだ。


「文化祭とか、ステージとか、努力とか夢とか、もういいよ。吐きそう。気持ち悪い。湊、吐いていい?」

「ダメに決まってる」


 これ以上私に降りかかるものが増えたら、どうすればいいんだ。


「もう充分、吐いたでしょ」

「たしかに」


 本当に吐いたあとのように、乃絵は自分の口元を苦しそうに手で拭った。その拍子に私の片手が解放される。再び掴まれるようなことはなかった。


「じゃあ近江は、東京には行かないの? 来週」

「正直迷ってるよ」

「あっちが近江を招待してくれたんでしょ。出版社とか、他の人も予定たてて。それって」

「湊も他の人みたいなこと言うんだ」


 睨まれた。凄みのある目に、反骨心など生まれない。


「ああ、違うか」


 乃絵が呆れるようにわざとらしく息を吐く。


「叶恵か」

「・・・・・・・・・・・・」


 今度ばかりは、図星だった。心臓が不快な跳ね方をして声が出ない。


「叶恵に何言われた?」


 そして乃絵は気付いている。私と叶恵さんが親密な関係にあったこと。そして、私が叶恵さんの死後、乃絵を過剰に気にかけるようになったこと。この部屋に、夜中誘うようになったこと。


 正直、乃絵が私の部屋にくるのはゲームが目的ではないことくらいわかっていた。乃絵は自分の家に居づらいと一度だけ、叶恵さんが亡くなった直後吐露していた。だから乃絵が、私の部屋に避難することで少しでも傷んだ心を癒やしてくれたらって思ってた。


 だからどんなときでも誘ったし、乃絵が来たいと言えば学校での疲れがあったとしても絶対に断らなかった。


 叶恵さんと最期に交わした約束を、果たすために。


「乃絵を、心配してた。叶恵さん」

「私を心配することなんてある?」

「乃絵には、何かを好きになってほしいって」

「ああ、叶恵も心配性だから」

「そうじゃなくて!」


 一際、大きな声が出る。


「それが叶恵さんの、唯一の心残りだったから」

「・・・・・・叶恵に心残りなんてあるわけないでしょ。あれだけ幸せそうに死んでったんだから」


 死んでった。その言葉を簡単に吐いてしまえる乃絵を見て、心臓が石になったかのように硬く、冷たく変化する。


 体を流れる血液が、ドロドロと私の記憶を蝕んでいく。


 強ばった表情を見せた乃絵だったが、私の顔を見て「わかったって」と不承不承に頷いた。


「湊は、叶恵大好きだもんね。悪く言ってごめん」


 でも、と乃絵が続ける。


「それが叶恵の心残りなら、湊は私に、どうして欲しいの?」

「・・・・・・叶恵さんと同じ道を、行くべきだって思う」

「東京に行けって?」


 私は頷く。頷いたんだと思う。首が折れそうなほどに、重かった。


「好きになれなかったとしても?」

「そういう、ことだと思う」

「なんだそれ、ふわふわしてるなぁ。好きになれくても、椅子に縛り付けられてでも小説を書けってこと?」

「それで、救われる人がいる」

「人を救ったってさ、私が救われたことにはならなくない? 誰かが私の作品を見てたとえば一日、元気に過ごしたとして、でも私はその数百倍の時間を費やしてその作品を作ってるんだよ。割に合ってないじゃん」

「だから、好きじゃないと、やってられない」

「矛盾してるよ」

「矛盾、してる・・・・・・」


 自分の中の気持ちを整理できない。それはきっと、私の中で、私の中にしか存在しない、私だけに棲み着いた私だけの叶恵さんが苦しんでいるからだ。


 乃絵が私に続きを促す。でも、私の口からは納得できるような理路整然とした答えは出ない。悔しくて、それと同時、自分の抱えていたものがひどく不安定だったということに気付いて、目の奥がジュンと疼いた。


「泣きそうになってる」

「なってない」

「わかったから、怒らないでって」


 怒ってない、怒ってなんかない。


 私を宥めるように、乃絵が「どうどう」と頭を撫でてくる。その心地に、私も心を落ち着けようと努力する。


「言いたいことはわかるよ」


 乃絵が寂寥を含んだ声色で呟く。


「たくさんの人を自分の書いた作品で救う。叶恵ができなかったことを、私が代わりにやり遂げる。私のほうが文才はあるし、正直、いい作品が書ける自信もある」


 ふと、乃絵が私から離れていく。それは肉体的な距離だけでなく、温度や、そのほかの纏った空気までまるごと、離れていくかのようだった。


「わかったよ。湊の言うとおり、東京に行ってみる。そんで、書いてみて、なんとか好きになれるように頑張る。好きになれなくても、惰性でもいいから書き続けるよ。それが叶恵のためになるのなら。ね、叶恵大好きの湊さん」


 その言い方にむっとする。でも、それでいいはずだって私も頷く。


 乃絵は立ち上がって、踏んでいた自分のマントから足を離した。衣装にシワはついていない。


『乃絵を、よろしくね』


 私は幼なじみの未来を託された。


 私は幼なじみの幸せを託された。


 それが、叶恵さんの願いで。


 願い、で。


 願うことしかできない、自分が。


『だから、嫌いにならないで』


 逆上がりなんてできたことがないのに、まるで鉄棒を巻くように視界が回る。


 自由になった体をベッドから起こして、乾ききった喉をこじ開けた。


「近江!」


 今にも部屋を出て行こうとしていた乃絵の背中に叫ぶ。


 俯瞰的に見ることしかできない自分が嫌いだ。


 人の幸せを願うフリしかできない自分が嫌いだ。


 私は自分が嫌いだ。


 過去ばかりに縋って、そのくせ過去を無かったことにしようとする。私はこれまで、乃絵と一緒に過ごして何を思ってきた? 乃絵の幸せ? 乃絵が何かを好きになれるように? そうだ。だってそれは叶恵さんの願いで、叶恵さんとの約束で。


「で、でも!」


 乃絵を叶恵さんの代わりにして、私が、叶恵さんの代わりに乃絵を護ろうとした。


 じゃあ、私はいったい、今、どこにいる?


 あれほど自分という存在に価値を付加したがった私は、今どこで何をしているんだろう。


 そもそも、叶恵さんはなんで私に頼んだんだ。


 乃絵が何かを好きになれるように、叶恵さんはいくらでも協力できたはずだ。家族なんだから、姉妹なんだから、いつだって、乃絵の側にいられたはずだ。


 それとも、家族だから? 姉妹だから、できなかったことがあるのだとしたら。


『いつまでも、友達でいてね』


「つ、辛いなら・・・・・・い、行かなくていいと思う」


 私が叶恵さんの代わりになんてなれるはずがない。だって、きっと、姉が妹に向ける愛情は、想像もできないほどに大きなものだ。妹の幸せを願い、いつでも妹が笑顔で、健全に生きてくれたら、それだけで嬉しいって叶恵さんは思ってた。


 でも私は、姉でも妹でもない。ただの友達だ。ずっと一緒に過ごしてきただけの、ただの幼なじみだ。


 幸せを願う? 愛情? そんなもの、私は持っていない。健全に生きてくれなんてこれっぽっちも思っていない。私は乃絵の家族じゃない。


「行かなくて、いいよ。近江」


 友達だからこそ、乃絵を道連れに。


 堕落していきたい。

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