第23話 ミー・マイ・マイ

「窓から入ったほうがいい?」


 私の家を前にして、乃絵がようやく足を止める。


 いまだ整わない息を吸いながら、なんでこんなに走らされたんだろうと考えるけど、さっぱり理由は見当たらなかった。ブクブクと、沸き上がるものがある。


「親いないから、玄関からでいい」

「そっか」


 乃絵はどこか嬉しそうにしていた。窓から入るのは、そこそこにエネルギーが必要なのかもしれない。その衣装じゃ、なおさらだろう。


 軍服にも似た衣装をひらひらと靡かせながら、乃絵が私がカギを取り出すのを待っている。戸を開け、乃絵を招き入れる。乃絵が玄関を通って家にくるのは休日のときくらいだ。 


 静まりかえった家が、少し不気味だった。一人ならいいのだけど、後ろには乃絵がいる。


 というか、本当に文化祭を抜けてきていいのだろうか。乃絵のスマホなんてさっきから震えっぱなしみたいだし。・・・・・・あ、切った。


 妙な不安と緊張を覚えながら、自分の部屋に入る。放り投げるカバンは、持っていない。さっきまで乃絵と繋がっていた右手だけが、やけに存在感を主張してくる。


 乃絵は背中に垂れたマントを邪魔そうに手で持って部屋の真ん中で立っていた。


「なんかさ、めっちゃお菓子出たよね」

「お菓子?」

「お盆の日」

「ああ」

「甘いのばっかり。私はポテチが食べたかったのに」

「年齢層を考えたら当然」


 急になにかと思ったら、なんだ、お盆のときの話か。


「座っていい?」

「え」


 ふと、乃絵がそんなことを言ったからビックリした。いつもなら勝手に置いてあるぬいぐるみを掴んでクッション代わりにするのに。


 乃絵からは、どこから覇気のようなものが消えていて、図々しさとか、そういうものがなくなり誰かの動向を気にする気遣いのような優しさが垣間見え、不気味という印象すら受けた。


 それはまるで、雨に穿たれた岩のように、元は強固だったものが脆くなったようだった。


「いいけど」

「まあ、そうだよね。うん」


 乃絵はクッションを握り、お尻の下に敷いた。


「焼きそばの容器どこに捨てればいい?」

「食べたんだ。どこでもいい。分別なんてしてないし」


 そのくらい知ってるでしょ。お菓子の袋なんて、いつも構わずその辺に捨てていくくせに。


「湊さあ」

「なに?」

「うーん」

「なにそれ」

「んあー」

「うめき声」

「最近あくびが出る。なんでだろう」

「酸素が足りない」

「木を植えよう」


 昔そんな歌があったな。植えて、誰が育てるんだろう。


 乃絵は椅子に座って、ボーッと天井を見上げていた。


 私はまだ、自分の居着く場所が見つかっていないせいで部屋の真ん中に立ったままだ。自分の部屋なのに・・・・・・


「湊さあ」


 さっきと同じ始まり方だった。どうせ、さっきと似たような会話になるんだろうなと、特に身構えることはなかった。


「私に救われたことってある?」


 ギギ、と錆びたように体の動きが止まった。なに、その質問。


「ない」

「ないのかよ!」

「声でか・・・・・・」

「ごめん」


 謝る必要は、ないんだけど。


「私の作品がさ、誰かを救うんだって」

「ソースは?」

「先生とか、友達とか、その他諸々の数々」

「ふうん」


 私はしょうがなく、ベッドに腰掛けることにした。椅子に座った乃絵が、自分の手を、ジッと見つめていた。


「私の書いた作品を読んで、誰かが救われる。私には、そんな力があるんだって」

「うん」


 知ってる。


 そばで見てきた、私が誰よりも知っている。


「湊ー、おめでとうはー?」

「えぇ」

「コンクールおめでとうって言ってよー」

「充分言われたでしょ」

「湊からはまだ聞いてない」


 乃絵の瞳が、私を捉えて離さない。おめでとう、すごいね。そう言われることに快感でも覚えてしまったのだろうか。


 強固な岩ですら、雨程度の小さな力で形を変えてしまう。私はそういうのが嫌だったから、屋根の外に出るのを拒み続けた。雨に打たれるのは痛いから。


「おめでとう」

「これでもっといろんな人を救えるぜ」

「そうだね」

「うん」


 乃絵は人当たりの良さそうな笑みを浮かべて答えた。そんな顔、どこで覚えてきたの。訝しげに、乃絵を睨んだ。


「じゃあ、私を救ってくれるのは誰?」


 椅子に座っていたはずの乃絵が、私の目の前に立ち塞がっていた。私は見上げるばかりで、その存在感に圧倒されてしまっていた。


「私の書いた作品で誰かが救われるのはいいよ。じゃあ、私は?」

「そんなの、見てくれた人からの、言葉とか。応援とか」

「なるほど」


 乃絵は納得したように拳を叩いた。


「そういうので救われるようにならなきゃってことか」


 寂しそうな笑みが、最期に笑った叶恵さんと重なって、心臓が不快な跳ね方をした。


 今日の乃絵は、どこかおかしい。


「ねえ乃絵、なんか今日――」


 言い終わる前に、私の視界は反転した。


 気付けば私はベッドに押し倒されていて、目の前には乃絵の顔があった。


「私だって、いろんなものを磨り減らしながらなのに」

「乃絵、どうしたの?」


 私の問いに、乃絵は答えない。もしかしたら、答えられないのかもしれない。


 乃絵自身、乃絵の身に起きている異変に気付いていない。だからって、こんな状況、意味不明だけど。


「湊、髪伸びたね」

「伸びたけど、前髪が邪魔」

「パッツンって長いと逆に目にかかってたしかに邪魔そう」


 私を押し倒した理由をさっぱり教えてくれないまま会話が続いていく。


「ねえ、近江」

「なんだい」

「もしかして、疲れてる?」


 乃絵の瞼が、ピクッと動いた。


「疲れてんのか私」

「いや、知らないけど」

「寝ていい?」

「は? ちょっ、わぷ」


 私を敷き布団だと勘違いしているのか、乃絵がのし掛かってくる。新調した衣装のゴムにも似た人工臭が鼻につく。乃絵の髪からは、いろんな香水が混ざったような香りがして、気持ち悪い。あれ、乃絵ってこんな匂いだっけな。もっと、イチゴみたいな匂いだった気がするけど。


 そのまま乃絵は本気で寝ようとしているのか、深い呼吸を続けた。お腹の膨らみが、直で私の肌に伝わってくる。


 私も、このまま寝てもいいかなと思ってしまう。誰も居ない、私と乃絵だけの世界で、この狭い布団にだけ隔たれてゆっくりと瞼を下ろしてしまえたらきっと幸せだろう。妬みも、恨みも、嘘の優しさも、気遣いも生まれない。それは、いいな。


 久しぶりに乃絵と話したら私はどうなるんだろうと危惧していたけど、何も無かった。ただ、昔棲み着いた日常というものがふわりと煙のように広がっていくだけで、姿形を求めることもない。でも、その煙の匂いが今日は違うから、気にかけていたものが引っかかって飛んでいってくれない。


「豊ちゃんと、付き合ってるの?」

「え、なんで」

「クラスの子に聞かれた」


 なんか前も、こんなことがあったな。


 乃絵は少し間を開けてから、答えた。


「うん」


 心臓がギュッと潰れたようだった。心臓を潰したら、なにが出てくるだろうか。血とか、これまで蓄えた喜びとか、悲しみとかが、トマトを踏むみたいに弾け出るだろうか。


「キス、したの?」

「演劇?」

「うん」

「したよ」

「そう」

「演劇以外でもしたけど」


 夜空に見た流れ星がそのまま私の頭上に落ちてきたような気分だった。願えば願うほど遠のき、祈れば祈るほど、辛い。


 そっか、付き合ってるんだ。ふーん。へえ。別にそれは乃絵の勝手だ。私にはなんの関係もない。どうして教えてくれなかったのって思いはあるけど、喋る機会自体、なかったわけだし。


「豊ちゃん、良い子だもんね」


 それは本心だ。本心に決まってるだろ。って、自分に言い聞かせる。


「戻ったほうがいいんじゃない」

「湊は戻って欲しいの?」

「言ってる意味がわからない」


 乃絵の指が、私の目にかかった前髪を取り払う。馬乗りのような形で私の上にいる乃絵が、私の顔をジッと覗き込んでくる。


「さっき、泣いてたでしょ」


 さっきっていつのことだと整理する前に、目の下に風が当たる。海から上がったときのように、パサパサと乾燥していた。


「泣いてたよね」

「泣いてない」


 泣いた笑った。幸せだった不幸だった。そんな話、乃絵としたことなんてない。それなのに、今日だけでいくつ、乃絵は私たちの近郊を破りに掛かるのだろうか。


「泣いてたって」

「ねえ、近江。痛い」


 私の腕を押さえつけるように乃絵が体重を乗せる。乃絵も力を入れているからか、時々唇を噛むような仕草を見せていた。乃絵がそんなふうに必死になる様子を、私は初めて見た。いつだって自分の目の前にあることから目を逸らして、すごいねって褒められたときだけ顔をあげて愛想笑いを浮かべるようなそんな人間だったから。その人間が、いったい何を今更欲しがっているのだろうか。


「嘘だって」

「なにが」

「豊ちゃんとは付き合ってないしキスもしてない」


 私の落ちていく胸の底を、乃絵は決して見逃してくれない。


「今、安心したでしょ。ねえ、なんで安心したの?」

「してない。それとも、ついに心の中でも読めるようになった?」

「読めるよ、湊限定だけど。湊だって、私の心くらい読めるでしょ」


 読むのと見るのは違う。羅列されたものを追って、揺れ動くものを透写する。難しいのはどちらか。固い殻で閉ざされていればなおさら。


「私のことわかってくれるのは、湊だけでしょ」


 感情と表情が繋がっていない。それが乃絵という人間だ。


 小さい頃から嫉妬や賞賛、期待や憧れを全身に受けて生きていくと、愛想笑いや時折見せる無表情が当たり前になっていくんだろう。


 だから周りは乃絵をただのすごい人だと星を見るように焦がれてきた。けど、乃絵の家から聞こえてきた怒鳴り声やガラスの割れる音を聞いたら、そういう人たちはいったいどう思うだろうか。


 乃絵の消え入るような声を聞いたら、誰もが失望するだろうか。


「この部屋にいるとさ、カタツムリになった気分になれるんだ」

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