第22話 ホワイト・スロウノウ

 子供のとき、家族に連れて行ってもらった旅館の温泉に私以外誰もいなくて、そこで思い切り泳いだことがある。


 誰もいない水面をかき分けるように手足を伸ばすのはすごく気持ちが良くて、それを誰かにとがめられることもない自由さに心酔しながら泳ぎ続けた。


 けど、人がいなかったのはおそらく、早朝だったからなんだろう。


 時間が経つにつれて当然、人は徐々に増える。人が増えれば自由に泳ぐこともできなくなり、座っていられる場所も少なくなる。自分以外の存在を避けながら、自分自身の存在が誰かの邪魔にならないよう、目を配りながら端っこに座る。シャワー空いたかなって、確認すること自体、おかしな話だった。だってさっきまで、思い切り泳いでいたのに。


 人が増えれば水は溢れ、汚れる。自動的に水は追加されるが、すべての循環が間に合っているわけじゃない。淀み、濁り、供給が止まった瞬間。それこそが終わりの時だ。


 まるで、人生の縮図を見ているようで、小さいながらもその迫力に怖気が走ったのを今でも覚えている。


 校舎の外に出ると校門前の広場に設営された屋台が目に入る。特にやることもないので焼きそばを一つ買った。味は、まあ美味しかった。


 大人が作ろうが高校生が作ろうが、その出来映えに大きな差は生まれないのだろう。箸でつつくたびに、安っぽいプラスチック容器が軋むのだけが気がかりだったけど。


 でも、すぐにお腹がいっぱいになって食べられなくなった。当たり前だ。お母さんが作ってくれたお弁当を残したばかりなのに、こんな小麦粉の塊が胃に収まるわけがない。


 捨てようと思いゴミ箱を探す。けど、普段配置されている場所にゴミ箱がなくて困った。文化祭だからもっと人の多い場所に移動されたのだろうか。


 捨てるのすら、難しいなんて。昔はもっと簡単に捨てられた。こんな焼きそばなんて、そこの茂みにでも投げてしまえばいい。蟻だって喜ぶし、どうせ誰かが気付いて捨ててくれる。


 けど、ここには人しかいない。自分以外の存在で溢れかえっている。まるで、あの日の浴槽の中を見ている気分だった。


 私は校舎裏に移動して、焼きそばを啜った。


 もうお腹いっぱい、苦しい。要らないよ。じゃあ、なんで買ったんだろう。紛らわすためだ。何を? 空腹を。飢えを。欠損を。誤魔化そうとした。


 遠くのほうから笑い声が聞こえる。二人組の生徒が、楽しそうに笑いながら、たこ焼きを食べさせ合ってる。祭り囃子のようなものも聞こえる。グラウンドでイベントかなにかが開かれている。花火があがる。それに釣られて、たこ焼きを食べていた子たちも「行ってみようよ!」と手を繋いで走って行く。


 人がどんどん、移動するその中で、私だけが一人で、乾いた焼きそばを啜っている。


 ああ、そっか。別に私はあのとき、人がごった返していたことに辟易してたんじゃない。私だけが一人だったことに、傷ついていたんだ。


 なにがいけなかったんだろう。どこで間違えたんだろう。


 それとも、こんなことはよくあるから、それを踏まえて人生というのは歩んでいかなければならないという神様からの教えなのだろうか。


「知らないよ、そんなの」


 自然と、涙が溢れてきた。


 縋るものがなくて、抑えることができなかった。私の大好きなものばかりが、私のもとを離れていく。それは誰も悪くない、それが人の命というもので人生というもので、道というもので、逆らうこともできず、他人が口出しできるものでもない。


 理不尽でも不条理でもなんでもない、ごく普通の、この優しさに溢れた世界がもたらした摂理に過ぎないのに。


 それに適応できない私は、そもそも生き物として欠陥品なんだろうか。


 自分の存在すら、否定したくなってくる。こんな、私、嫌いだ。


「あ、湊」

「えっ?」


 いきなり後ろから声がした。でも、後ろには茂みしかない。


 声の主が、茂みの中から飛び出した。


「どうも」

「え、近江?」


 あろうことか、目の前には王子衣装を着たままの近江が立っていた。めちゃくちゃ葉っぱ付いてるし、それに。え? なんで?


 ハッと、目の下を擦って向き直る。


「なにしてるの」

「それはこっちの台詞でしょ。もしかしてぼっち飯か?」


 返す言葉がなかった。


「いらないの? 焼きそば」

「思ったより多かった」

「貰っていい? まだ昼食べれてなくて」

「いいけど」


 言うと、乃絵は私の隣に来て焼きそばをぶんどった。私の使った箸をそのまま持って、乾ききった焼きそばを啜る。王子様のような衣装を着ているくせに、仕草は居間にいるお父さんみたいだった。


「あんまり美味しくないなこれ」

「買った最初の一口がピーク」

「祭りとかと一緒だ。しかも、高い。カップ焼きそば買いますよって感じだけどね」

「手間暇を買ってる」

「おー、日本人」


 ふわふわとした会話が続く。


 久しぶりに、乃絵と喋った。想像していたよりも自然に、会話に入ることはできた。言いたいことはたくさんあって、思うことも山ほどあったのに、過ごした年月がそれを押し潰す。


「近江はなにしてるの」

「なにって、食事」

「そうじゃなくて」

「近江ちゃーん?」


 向こうの方から声がして、それは紛れもない豊ちゃんの声だと気付いた。まるで忌み嫌うように、耳が甲高い声に敏感になっている。


 校舎を一度通り過ぎてから、裏でもそもそと焼きそばを食べている乃絵に気付いた豊ちゃんが引き返してくる。


 その手には二つのりんご飴が握られていた。


「もう、こんなところにいたの?」

「焼きそばの香りがしたから」

「犬みたいなこと言って。あ、湊ちゃん。ってもしかして、その焼きそば湊ちゃんのじゃないの!?」

「そうとも言う」

「そうとしか言わないよ! 返しなよ!」


 豊ちゃんとも、久しぶりに話した。いや、話したわけじゃない。私と乃絵を繋ぐ中継地点に利用された。それだけのことだった。


「ごめんね湊ちゃん。ほら近江ちゃん、みんなも待ってるから行くよ」

「えー、まだ食べてないのに」

「せっかく他校の先生が会いに来てるのに。乃絵ちゃんの踊り、是非とも見たいって楽しみにしてたよ?」


 豊ちゃんが乃絵の手を引っ張る。


 きっとその先には乃絵を必要としている人で溢れている。友達とか、仲間とか、そういうんじゃない。もはや乃絵は、誰かの希望や夢、憧れとしてそこに立つ必要がある。私には決してできない、行くことのできない場所に、乃絵がいる。


 乃絵の隣に、私はふさわしくない。


 乃絵と会えたことが嬉しかったくせに、豊ちゃんが現れた途端一気に冷めてしまった。自分を諦めることばかりが、得意になってしまう。


 顔を上げると、乃絵が私を見ていた。不意に目が合ってしまう。


 メイクの乗ったその顔は、贔屓目なしに、呆れるほど綺麗だった。


 豊ちゃんに引っ張られながら、もう片方の手の中で潰れている焼きそばが可哀想だった。さっきまで捨てようしていたことは棚に上げる。


「近江、焼きそば。私食べるから」


 乃絵から焼きそばを預かろうと手を伸ばした。


 そのときだった。


 バシっと勢いよく音が鳴ったかと思うと、思い切り手を振り払われたのだ。


「えっ」


 驚いたのは私だけではなかった。


 豊ちゃんも目を丸くして、振り払われた自分の手を見つめている。


「湊に用事があるからさ」

「近江、ちゃん? でも」

「行こ、湊」

「は、え?」


 いきなり手を掴まれたかと思うと、近江は私を連れて走り出した。


「近江ちゃん!? どこ行くの!?」


 後ろから豊ちゃんの声が聞こえる。けど、振り返る余裕はなかった。私の方が乃絵よりも足が遅い。私は引っ張られるがまま、全力で乃絵の速度に追いつくしかなかった。


 校舎裏を抜け、校門を抜け、交差点を抜け。って、待って待って、どこまで行くの?


 さっぱり理解が追いつかないまま、体力も限界を迎える。


「近江!」


 その手を思い切り引っ張って、乃絵の前進を食い止めた。私は息を切らしているのに、乃絵はため息一つ吐いていなかった。


「な、なに!? 急に!」

「なにって、なに」

「意味わかんない。どこまで行く気?」

「なんで怒ってるのさ」

「それは・・・・・・」


 自分でもわからなかった。


 頭を冷やそうと、深く息を吸う。


 周りを歩く通行人が、奇抜な衣装を着ている乃絵をジロジロと見て、その後、私を舐めるように見ていく。


「文化祭、戻らなくていいの」

「私たちの仕事終わったしね。午後はビデオ公開だけだし」

「でも、豊ちゃんが呼んでた」

「あー、ね」

「なにその返事」

「ギャルっぽいでしょ」

「わかんないけど」


 一年生の頃、いきなり乃絵が髪を染めてギャルメイクで登校してきたときのことを思い出す。あれは結局、なんだったんだろう。今の状況と同じくらい、理解が難しい。


「なんか湊と話すの久しぶりだな。元気してた?」


 空いた距離感については、お互い足を踏み入れてはいけない領域じゃなかったのか。避けていたのが私だけで、バカみたいだ。


「元気ではないけど」

「わかる。元気ってなんだっけ、ってたまに思うよね。なんも考えずに走り回ってた頃のことなんて忘れちゃったし」

「今だってそうでしょ」

「そう思う?」


 乃絵が顔を近づけてくる。つい、俯いて視線を逸らしてしまった。


「文化祭抜け出そうよ」

「怒られるよ」

「去年もそうだったじゃん」

「あれは、暇だったから空き教室で漫画読んでただけでしょ」

「同じことでしょ」

「同じ、ではないと思う」


 一応去年は、校舎内にいたことはいたんだから。


「湊の家、行ってもいい?」


 乃絵が私の手を掴んだまま、こちらを見てくる。真っ直ぐで、大きな、可憐な瞳。


 私が頷いた瞬間、いつでも時が動き出しそうな予感をさせる、頼もしく、心強い手。


「いい、けど」


 瞬間、乃絵は私を引っ張り再び走り出した。


 街路樹を抜け、駅前を抜け、いつも通った通学路を駆け抜ける。景色は昔からずっと変わらない。


 変わったのは、乃絵だけだ。乃絵は変わった。歩き出した。もう乃絵は私の幼なじみというだけじゃない。みんなに必要とされる特別な存在。


 そんな乃絵が、私を掴んで、離してくれない。

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