第19話 フォビアン・ドゥ

 玄関に行くと先に乃絵が待っていてくれた。教務室での用事は早めに終わったらしい。私を一瞥したあと、まるで気付いていないようなフリをしてスマホに視線を戻す乃絵に、私も声はかけずに黙って靴を履き替えた。


 外のどんよりとした空を見上げていると、乃絵が後ろで「あぢぃ」とぼやいた。


「あぢぃのに雨降りそうって、どう思う?」

「最悪」

「なんで気温と天気って仲良く同居できないのかね」

「お風呂を沸かすにも火がいるから」

「うちはオール電化なんだが?」

「私の家は違う」

「湊のは古き良きって感じだけどね。今度私にもあれやらせてよ、ふーって息吹くやつ」

「そこまで古くない。というか、まるで私もやってるみたいな言い方」

「やりたいよねぇ、ああいうの。最近は全部ボタン一つでお風呂に入れるから」

「近江って人生二回目? うちのおばあちゃんが喜びそう」

「おばあちゃんウケいいんだ私。めっちゃモテる」

「おばあちゃん以外にもモテるでしょ」

「お?」


 しまった、と思い口をつぐむ。


「湊ウケがいいから」

「勝手に分類しないで」

「だめ?」

「・・・・・・いいけど」


 ポツポツと、雨が降り始める。太陽も見えてるし、気温も高いのに、変な雨。まるで、私たちの会話みたいだ。


「でも意外、近江がそういうこと言うのは」

「そういうことって?」

「面倒事嫌いなくせに」

「ああ」


 隣を歩く近江は、唇を尖らせてうーんと考え込む。ふと、私は後ろを振り返った。


 生徒玄関から溢れるように出てくる人間の群れ。それを一人一人確認して、ホッと胸を撫で下ろしたあと、自分の教室の方を見上げる。きゅっと、胸が痛んだ。


 まだ間に合うかもしれない。でも、手放したくないという、意味不明の感情が邪魔をする。正常か、異常か。自分を俯瞰的に見ることのできない私じゃ、判断はつかなかった。


 校門を出て学校が見えなくなったあたりで、乃絵がぼそっと呟いた。


「面倒なほうがいいこともあるよねって話」

「どういうこと?」

「なんでもかんでもボタン一つで全部調整できちゃったらさ、なんていうか、ボタンの奥に眠る基板とか、機械とかあるわけでしょ? そういう細かい部品は、どうなるのかなって」


 二度聞いても、さっぱり意味がわからなかった。


「ネジは損だよね」

「・・・・・・ネジも、頑張ってるのにってこと?」

「そうじゃなくってさ、なんか、進むことを決められてるみたいで」


 乃絵は指先を空中でくるくると回すジェスチャーを見せて思わせぶりに笑った。


「ネジができあがったときにはもう、進む方にしか回れないようになってるんだもん。でも、ボタン一つで隔てられたら、そんなこと誰も気にも止めないままネジを使って、最期にはそのネジの存在すら忘れるでしょ? だから、損だなって」

「そんなこと、考えたこともない」

「私もない」

「近江が言ったのに」


 いつもの茶番だったか。そう思い肩を落としたとき、乃絵は私がこれまで見たことのないような苦い表情をして、口元だけを湾曲させた。


「考えたことなんてないけど、たまに思い知らされるときがある」

「ネジに?」

「ネジに」


 結局、なんの話だったんだろう。乃絵との会話はふわふわしていて、芯が通っていない。それで私たちは数年やってきたのだから今更気にはならないけど。どうしてもさっき見た乃絵の表情が気になってしまった。


 こういうとき、豊ちゃんなら気を遣って「なにか悩み事?」とでも聞くだろうか。いや、豊ちゃんじゃなくても聞くに越したことはないだろう。


 でも、私はそういう話を乃絵としたことがない。だって、悩み事があるに違いないって思うから、わざわざ聞く必要がない。それになんか、せっかく二人でいるのに、肩肘を張ってしまうような空気にしたくない。


 乃絵がそう言ったわけじゃなくて、これはただの私のわがままなんだけど。


「コンドルって、一メートルもあるのに一回も翼を動かさないで百五十キロメートルも飛行するんだって」

「え、なに急に。湊って鳥マニアだったっけ?」

「たまたまテレビでやってた」

「なんだテレビマニアか」

「テレビマニアってなに。誰でも見るでしょ」

「私は見ない」

「そうだった・・・・・」


 そういえば近江は、テレビを一切見ないんだった。まぁ、部屋にあるテレビがすでに点いていたら普通に見るは見るらしいけど。乃絵の部屋に遊びにいったとき、高そうな液晶テレビが埃まみれになっているのはビックリした。


「コンドルのさ、ダジャレあったよね。小学校のとき」

「あった。下品なの」

「そうそう、でも私、最初それ聞いたとき爆笑しちゃってさ。他の子誰も笑ってなかったから私ツボおかしいんじゃないかって思ったよ」

「近江は、うん。たしかにおかしい」

「だって、食いコンドルだよ?」


 どこに、とは言わなかった。高校生になって、少し上品に育ったのかもしれない。


「コンドルかぁ」


 乃絵が空を見上げた。


「なんでコンドル?」


 そんなこと聞かれても、ふと頭に過ったのだから仕方がない。コントローラー、コンクリート、いろんなコンが引っかかってコンドルが出たのだ。


「コンクール」

「んあ?」


 乃絵が口を閉じたまま返事をする。


「コンクール、がんばって」


 どうしてそんなことを言ったのか自分でもよくわからなかった。コン、繋がりかもしれない。


「うん、まあねー」


 ふわふわとした、それこそコンドルが空を飛ぶような、広大で自由などこへでも行ける返事だった。


 心の中では、がんばってなんて一ミリも思っていなかった。ただ、コンクールがもう少しで始まるという事実の再確認と、本当に作品を出すの? という疑問がけにしかすぎない。


 コンクールという単語を出すことで私も仲間入りを果たしたかった、のか。たまに、自分の弱さと子供っぽさに嫌気が差す。


 今日は飄々と過ごそう。そう決めた。


 それから乃絵は小学校の話をしながらときどき思い出し笑いして、私も釣られて笑ったりした。思い出し笑いができるのは幼なじみの特権なのかもしれない。それほど過ごした時間が同じということだから、突発的な笑いよりは幾分、胸に染みるものがある。


 乃絵は終始笑っていて、私が一度だけ見た、あの表情はもうしなくなった。 


 たいした悩みでもなかったのかな。


 私も、昨日やっていたゲームの続きを帰ってしたいと思うと、だんだんと気にならなくなっていった。



 一度お風呂に入ると頭が明瞭になる。たとえば、マイナスな思考もちょっとはプラス方向へ傾いたり、さっきまで考えもしなかったことを悶々と考えたりする。私はお風呂に浸かっている間、なんでみかんはオレンジなんだろうとかどうでもいいことを考えながら長湯をした。


 入浴を済ませたら化粧水をぺたぺたとくっつけてボーっとする。肌の潤いとか、瑞々しさとか、叶恵さんがいなくなってからさっぱり興味もなくなっていた。でも、乃絵が一度私に肌キレイなんだから手入れしなよ、と言ってきたことがきっかけで再開したのだ。


 アルコールの入っているものは肌に合わないから、コンビニに売ってるノンアルコールのものを使っている。どこのメーカーかもわからないけど、安いし、大容量だし、これで不足はない。それでも夜更かしをすると赤みが増えて、結局、スキンケアなんてあんまり意味ないなと開き直ってサボる日もたまにあった。


 と、考え事をしていると化粧水と肌がくっついて、手のひらが吸い付くように離れなくなる。


 おでこまで染みこませると、前髪が張り付いて不快だったけど、髪を切ったばかりなので今回はくっつくことはなかった。でも、やっぱり、パッツンにしなくたっていいのに。長年連れ添った自分の不揃いな前髪を惜しむ。


 すぐにゲーミングチェアに座って体の火照りを冷ます。


 ゲームをとりあえずで起動させる。モーターの稼働音を聞いていると心が落ち着く。爪切りをとって、中指と薬指の爪を短く切る。この指はよく当たるから、伸びていると痛いのだ。


 どこにとか、いつなにに、とか、自分に言い聞かせるとなかなか火照りも取れそうにないので考えないようにする。


 乃絵、今なにしてるかな。


 もちろん、爪を切ったこととはさっぱり関係ない。ない。 


 テレビもなくて、ゲームは、たまにするみたいだけど。乃絵が家で何をしているかは、私もまだ知らない。豊ちゃんに借りた小説でも読んでいるのか。それとも、コンクールに向けた作品を見返したり、親に見せたりしているのだろうか。


 乃絵のご両親は本当に乃絵のことが好きみたいだから、当然ベタ褒めなのかもしれないけど、私はお母さんに褒められたことが一度もないからどんな風に褒められるのか、想像は難しい。もちろん私のお母さんが悪い人って意味じゃなくて、ゲームばっかりやっている私にも問題がある。


 けど、好きなんだから、ゲームをやめるつもりは一ミリもない。


 地面をしっかりと踏んで歩く乃絵と、宇宙をふわふわと歩く私。進む距離と、足の裏に感じるもの。


 ずっと一緒だったのに、それぞれがまた、別々の道を目指しているようで。


 疎外感というものが、頭から離れなかった。

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