第17話 プロキシス

 乃絵は小さい頃からいろいろな習い事をして、たくさんのスキルを磨き、潜在した才能を発掘され続けてきた。


 ピアノ教室に入って三ヶ月目ではすでに音楽館で行われたコンサートに参加していたみたいだし、水泳ではまだ小学校に入りたてながら高学年の人に交ざって練習して、習字では最初の一年目に行われた競書大会で賞を穫っていた。


 それはまだ私と出会う前の話で、私と出会ってからは、参加したバレエの大会で乃絵を見た審査員に直接声をかけられバレエ学校への無償留学に誘われたり、所属していた地元のテニス教室を団体戦ではじめての県大会へと導き、中学のときに入ったダンス教室では志望者の少ない舞踏部門で各流派の代表として大会に参加した。


 乃絵には多彩な才能があり、そのどれもが一級品で、他者からの評価や絶賛が必ず付いて回った。誰もが乃絵を神童と呼び、その将来を期待されていた。


 やりすぎだって思った。


 そんなのまるで、物語の主人公じゃないか。正直、妬ましかった。


 だけど、乃絵には重大な欠陥が隠れていた。


 乃絵には、好きなものがなかった。


 習い事はすべて一年未満の期間で辞め、誰かに引き留められると拗ねて一週間近く誰とも口をきかなくなるような子供だった。


 だから乃絵はどれだけ才能があろうと、その生まれ持ったものを活かし、道を進むことはなかった。


 最初はそれが原因で母親とかなり喧嘩をしたらしい。好きじゃなくてもいいから、続けてみなさいという声が、乃絵の家の前を通るとよく聞こえた。ガラスの割れる音がしたときは、さすがに私もビックリした。


 けど、私からすれば乃絵は習い事をはじめたばかりの頃は楽しそうに練習していたように見えるし、雨の日でも公園で踊ったりしていたのは、あれは好きでもないとできないことだと思う。


 ただ、好きという感情が長続きしないだけなんだ。


 乃絵は前にアイドルだったか女優だったか、動画配信者だったか忘れたけど、そういう画面の先にいる人をすごく好きになって応援していた時期があった。推し、という言葉も出ていたような気がする。乃絵の口からそんな言葉が聞けたことが驚きだった。


 けど、それも一ヶ月くらいだったと思う。熱の冷めたようにその人の話はしなくなり、またいつもの、つまらなそうな顔に戻ってしまっていた。だから習い事なども、同じことなんだと思う。


 そんな乃絵を、叶恵さんもひどく心配していた。叶恵さんは乃絵とはむしろ真逆のタイプで、才能はないけど好きなもののために一生懸命頑張るような人だった。普通そんな正反対の世界に生きている人間に共感を求めるのなんて無理な話なのに、叶恵さんはまるで自分のことのように痛ましい顔をして乃絵を見ていた。


 好きなものを好きになる。そんなの人の勝手だと思うこともできたけど、それを貫いた結果、幸せの中で長い眠りに就いた叶恵さんを見てからは、本当にそれこそが、自分の人生を彩らせる唯一の方法なのだと知った。


 乃絵も、叶恵さんが死んでからほんの少しだけ口数が多くなり、表情も明るくなった。乃絵なりに、叶恵さんの死は考えるものがあって、自分なりに整理したのかもしれない。


 でも、やはりまだ乃絵は、自分の好きを見つけられていないようだった。


『那兎ちゃんがはじめてなの。こんなに乃絵が一緒にいたがる友達』


 乃絵は友達すら長続きしなかったという。乃絵の周りにはその才能に憧れた者や嫉妬していた者もいた。けど、やはりそれは友達ではなかったのだろう。そういう関係もあっていいのかもしれないけど、乃絵自身が受け入れようとしない限り、その絆は朽ちた鎖のように脆い。


 じゃあなんで私とは友達でいてくれるのかなんて、本人には聞いたことはない。でも、乃絵が私を選んでくれていることは確かで、だからこそ、叶恵さんも私に託したのだ。


 叶恵さんはイジワルだ。


 私が叶恵さんのことが好きだって知っていながら、そんなこと頼むなんて。



「なんかジメジメする。湊、ちょっと顔貸して」

「は」


 朝の登校時間。私の家の前で待っていた乃絵と会うと、開口一番そんなことを言って私の顔に触れてくる。


 顔ばかりに触れて、当然のように、私の髪型には触れてこない。


「湊の体、ひんやりしてて気持ちいい」


 乃絵が崩したような表情で笑うと、私の顔に微かな吐息が触れる。目の前で見えるそのあどけない笑い方は、叶恵さんそっくりで、過去の悲しい出来事や嬉しい出来事や、ドキドキした出来事が混ざり合ったまま私の心の中に溶け込んでくる。


「雪みたい」


 その顔で、私の近くに現れないで欲しい。


 だって私たち、ただの幼なじみなんだから。仲の良い友達なんだから。


 叶恵さんにお願いされたんだから。


「乃絵は、太陽みたい」

「太陽みたいな存在ってこと? 嬉しいこと言ってくれるじゃん」

「熱いってこと」

「体温高いのが取り柄でして。湊は、お腹冷たいよね」


 乃絵の温かい手のひらが、私のお腹に触れる。気温が高くなってきてからブレザーは脱ぎ去り、薄地二枚だけで隔てられた素肌に、乃絵の熱が伝わる。


「お腹冷やすとよくないらしいよ。肩こりとか、頭痛にも影響するんだって」

「そうなの」

「そうじゃない?」

「そうじゃないって、ソースは」

「昨日見た夢のテレビ番組に出てきたゾンビのにんじんが言ってた」

「意味不明。夢らしいけど」


 大勢の嫉妬や期待を背負ってきた、天才の手のひらが私のお腹に触れている。天才の口から、なんの意味も持たないふわふわとした会話が生み出されている。それらは全て、私を向いている。


 なんの優越感だ。わからない。でも、お腹に触れるその温もりが、心地よくて、変なことばかり思い出してしまう。


『ここに触るんだよ。あ、優しくね。そう、うん。那兎ちゃん、上手だよ』


 照れたような表情を終始浮かべていた叶恵さんだったけど、私のお願いを受け入れてくれてからはしっかりと最初から最後まで教えてくれた。


 教え、なんて言うからそれも義務的なものだと思っていて、最初は私もなかなか体に熱が集まらず、行く場所にも行けなかったけれど。


『恥ずかしがってる那兎ちゃん、かわいい』


 そんなことを言われたら、私自身を求められている気がして、叶恵さんも私を同じような目で見ているのかもって期待して、私はいつも、そこで水面に落ちるように脱力していた。


 乃絵が私のお腹を、すりすりと触る。シャツ越しだけど伝わる、確かな感触。叶恵さんも最初はお腹や、足の付け根などを触ってくれた。私がその感覚に慣れてくると、徐々に中心へと近づいていって・・・・・・。 


「あ、近江さんも湊さんもおはよー。今日も相変わらず仲いいね。それなにしてるの?」


 私の家の前でいつまでも立ち止まっていたら、同じ通学路のクラスメイト三人がこちらに気付いて声をかけてきた。


「湊の腸運動を感じてるんだ。腸占いって言うんだけど」

「あはは、なにそれー! 聞いたことないよー!」

「本当はイチャイチャしてたんだろー! 知ってるぞー!」


 クラスメイトの一人が、面白がって茶化してくる。


「実は愛を誓い合ってた。湊とは今月籍を入れるつもりで。そうだよな、お前」


 いきなり近江の声が低くなる。なんだそれって思いながらも、多分そういうノリなんだなと理解する。クラスメイトも、いつものが始まったなと「えー!」などとわざとらしくリアクションをとっている。


「そうなの、あなた」


 私はその場のノリに合わせて、乃絵の腰に手を回して抱きついた。軽く触れ合うような体勢のまま固まる。乃絵は特にリアクションも取らず、視線もクラスメイトの方を向いたままだ。クラスメイトもはやし立てながら互いの顔を見やったりして笑っている。


 乃絵に抱きついている。


 私から乃絵に抱きついている。


 その顔が、近くにある。すぐ触れられる場所にある。埋もれるように乃絵の腕の中にいる。あの日と同じように、私は近江という人間に、取り憑かれている。


 本気じゃないからと、言い訳をするように、だけど、今しかないと前のめりになりながら、体を密着させるよう抱きしめる。


「ここにいるとなおさら暑いから先行ってるわー。お幸せにー」


 クラスメイト三人が、笑いながら去って行く。


 私は乃絵に抱きついたまま、その背中を見送った。


 名残惜しいけど、いつまでも抱きついているわけにもいかない。・・・・・・名残惜しいってなに? 私は乃絵に抱きつきたいとか、なんか、そういう、つもりはなくって、でも、隙あらばという感じで、なに?


 堂々巡りの中で迷子になっても仕方がない。さっさと離れよう。


「湊」


 ところが、乃絵はなぜか私を離そうとはせずに、私を抱きしめ返してくる。もうクラスメイトはいないのに。その、包むような抱擁に、私の心拍数がどんどんあがっていく。


「近江・・・・・・?」

「あ、いや。もういいか」


 近江は自分自身に疑問を持ったような素振りで首を傾げてから、私から身を離した。けれど、私の顔をジッと見つめたまま硬直してしまっている。私も落ち着かず、何故か口元を手で隠しながら視線を外した。


「恥ずかしがってる湊、かわいい」


 ・・・・・・は? 


「なん、それ」

「籍を入れるからさ」

「もういいから」

「あはは」


 私をからかいたかったのか、それともノリ自体を楽しんでいたのか、乃絵はいつもと変わらぬのほほんとした佇まいで笑ってみせた。


 なんなんだ、今日に限って。


 なんでそういうことをするんだ。


 体全体に残る乃絵の熱。お腹に残る、指先の感触。


 でも、近づいたのは私だ。チャンスだって思ったのは私だ。


 普通の人って、葛藤を乗り越えるとき、自分自身の心に整理をつけて、きちんと順序立てて向き合うのだろうか。私には、そんなことできない。


 私が知っているのは、叶恵さんに教えてもらった、あの方法だけだ。


 そして、今朝、私が味わった感触匂い景色声その全てが、私の葛藤を消し去るのに十分すぎるほどで。


 今にも、心と体が寂しがっている。


 私のお腹と、その下には、なにが宿っているのだろうか。


『いつまでも、乃絵の友達でいてね』


 ・・・・・・これが、友達へ向ける感情なのか?


 私の、バカ。


 これじゃあまるで、乃絵を、叶恵さんの代わりにしているだけじゃないか。

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