第15話 フェイクアップ

 目を覚ますと私の隣にぽっかりと穴が空いていた。


 最後まで閉まりきっていない障子戸の隙間から朝の日差しが遠慮がちに顔を覗かせている。おはようと言わんばかりの眩しさに、なんとか抗いながら布団の奥に体を潜り込ませる。そのまま頭まで被ると、薄暗くも温かい不思議な感覚に体が包まれる。世界には自分しかいないんだと感じることのできるこの時間が好きだ。


 とはいっても、今日は私以外の気配と隣合わせだ。だから邪魔者が一人、って言っておく。


 どうやら乃絵は私が目を覚ます前にとっくに起きて出て行ったらしい。外からじゃ閉まりきらない障子戸と、膨らんだままの布団がその証拠だ。


 匂いというか、温もりというか。そんなの、もうとっくに消えてるはずなのに、乃絵がいたという事実を抱くようにして目を瞑っていると、また深い眠りにつきそうになる。ただ、それと同時に昨日の夜のことを思い出してしまい、一度全部着替えてしまおうと布団から出た。


 下着を履き替えてシャツに袖を通す。ワイシャツまではいいのだけど、このブレザーというものがなかなか厄介。肩口の狭いそれを羽織ってしまったらノートとペンを持つことが義務になったかのように感じてしまって、単刀直入単純明快に、嫌だった。


 私はまだゲームを触っていたい。子供のままでいたいとか大人になりたいとかそういうんじゃなくって、ただ、自分の好きなことをしていたかった。


 朝ご飯を食べてから、瞼を重そうにしたまま歯を磨く自分の顔を見ていると、真逆であっただろう昨晩の自分の顔を想像してしまう。


 最初からするつもりなんてなかったし、私はなんとなく、昼間乃絵と喋れなかった分を家で取り返せたらなと思っただけだった。


 だけど、眠気は互いに確かにあって、そのせいで早めに布団に入ったことに、どこか不満を持っていたのだ。気付けば私は乃絵の隣で、性懲りもなく自分を慰めた。


 しょうがない。私は昔からこの方法でしか自分のもやもやを解消する手段を知らないのだ。


 それに、私がはじめて、叶恵さんに相談したことでもある。あのときの緊張具合は、今でも忘れることはない。


 怪我の手当を受けるために私は叶恵さんに近江宅まで連れて行かれて、そこではじめて私は乃絵と出会ったのだけど、最初のほうは同い年という以外特に似通った箇所はなく、そこまで仲は良くなかったように思う。


 だから私が近江宅を訪れる理由は、乃絵ではなく叶恵さんにあった。


 乃絵がダンス教室に行ったのを見計らって家を訪ねると、乃絵のお母さん経由で叶恵さんと対面できる。叶恵さんは私を見ると嬉しそうに笑って部屋へと招いてくれる。


 やっぱり鉄棒ができなくて泣いてしまったときも、所属していたミニバスでのけ者扱いされたときも、叶恵さんに相談した。


 乃絵とはあまり、そういった込み入った話をする中でもなかったし、なんとなく、茶化されそうで嫌だった。


 叶恵さんの前で、確か私は、なんて言ったんだっけ。


 クラスの人が話しているのを盗み聞きして、自分で試しにやってみたら、くすぐったくて、むずむずして、でもちょっと痛くて、その感覚であってるのかわからなくて、ほにゃらら、もにょもにょと、最後の方は言葉にすらなっていなかったんだっけ。


 そのときに、私は初めて、真っ赤な顔をした叶恵さんの顔を見たのだ。いつもは上品で、キレイな笑みを浮かべている叶恵さんが、あんな子供みたいな顔するなんて思わなかった。一瞬慌てたが、それを誤魔化すように繕う叶恵さんを見ていたら、なおさらドキドキが止まらなくなって、この人に教えてもらいたいと思った。


 結局その日は叶恵さんには教えてもらえず家に帰されたが、再度家を訪ねると、叶恵さんは決心したように承諾してくれた。叶恵さんなりに、一生懸命考えてくれたのかもしれない。


 叶恵さんのおかげで、どこへ行けばいいかわかった。床屋さんに行って、顔がかゆい状態を極限まで我慢したあと、隙を見て顔をかく。そのときの快感が一カ所に集まったかのような熱く鋭い感覚の名前を、教えてもらった。


 それからは毎日のように近江宅に出向いた。


 あの頃はなんとなく、年上の人と自分から遊びに行くという行為がどこか恥ずかしく感じていたから、あくまで乃絵と遊ぶという名目をわざわざ立てていた。


 乃絵と遊ぶフリをして、乃絵がトイレに行ったりすると、その間に叶恵さんの部屋をノックした。今思えば、そんな短時間でどうこうなる行為ではなかったし、トイレから帰ってきたら私がいないのだから乃絵も疑問に思うはずだけど、周りに見向きもしないほど、そのときの私には活力というものが溢れていたのだろう。叶恵さんも、どこか困ったような顔で、私のお願いをやんわりと断っていた。


 それでも、時々乃絵が留守にしていて、じゃあ叶恵さんと遊ぶ、となるときがあった。そういうときは、叶恵さんも断ることはせず、優しく私の体を後ろから抱きしめてくれた。


 叶恵さんに触られると自分では決してたどり着くことのできない場所へ行くことができた。


 当時の私には、しっかりとした劣等感があった。きっかけもよくわからない、所属していたミニバスも四年ほど続けていたがさっぱり上手にはならず、背の低さも相まって下級生からもバカにされていた。極めつけは、初めてバスケットボールを触ったという乃絵のドリブルを一度も止められなかったときだ。


 そのとき、初めてこの世には才能というものがあるのだと思い知った。正直、私はあの頃、乃絵のことが嫌いだった。


 私よりなんでもできるくせに、私よりもつまらなそうに生きている。乃絵のお母さんが賞状とトロフィーを持たせて写真を撮ったときの、乃絵の引きつった顔は今でも忘れられない。


 当然、そういう自分の劣等感についても相談したことがあって、そのときに乃絵のことも話した。私の話を聞くと、自覚があったのか、叶恵さんも寂しげに「うん」と頷いた。


 叶恵さんは、乃絵とは違い頭もあまりよくないようで夏休みになると必ず補習に行かされていたし、運動神経も壊滅的で、私の前でやった逆上がりも含め、五十メートル走十五秒という呆れてしまうほどのタイムを持っていた。


 だから、もしかしたらそれは、本人にも刺さってしまったのかもしれない。


 申し訳ないことをしたと後悔もしているけど、そういう、叶恵さんのダメな部分を見ていたら、だんだんと焦るように生きている自分がバカらしく思えたのも事実だった。そのおかげで私は、今もこうしてのらりくらりと、好きなゲームだけをして過ごしてられる。


 ゲームなんて上手くなったところで意味ない。それは本当だ。特段、プロを目指しているわけでもないし、プレイ時間というものは時間の経過と共に溶けていく泡のように無意味なものでしかない。


 それでも、好きなものを好きで居続けられる大切さを叶恵さんが教えてくれた。私はミニバスを辞め、いつしか鉄棒なんて子供の遊具でしかないと思うようになった。


「行ってきます」


 玄関に置かれたバスケットボールを一瞥して、家を出る。


 忘れられないものはたくさんある。


 どうして、と後悔するものも数え切れないほどにある。


 叶恵さんに告白したとき、私はきっと成功すると信じて疑わなかった。


 だって、そういう行為を教えてもらって、そういう行為を手伝ってもらって。だから、もう、そういう関係なんだって思ってた。


 けど、叶恵さんは申し訳なさそうな顔で私の告白を断った。叶恵さんの余命を聞かされたのも、そのときだった。


 叶恵さんの人生は、すごく壮絶で、芯の通った、素晴らしいものだったと思う。入院して、病室のベッドを離れられなくなっても小説を書き続ける姿を見たら、そう思わざるを得ない。


 本当に小説を書くのが好きだったんだな、と私は思う。


 叶恵さんの残していったものは少なく、また、置いていったものもない。やりのこしたことのないほど、叶恵さんは自分の生を満喫していた。


 でも、私が叶恵さんを好きだという気持ちは、叶恵さんの肉体と魂をまとめて焼き払ったあとも尚、ここに色濃く残っている。


 失恋したあとも、私は叶恵さんのことが忘れられなかった。


 私を呼ぶ鈴のように透き通った声。私を見て笑う大人びた笑顔。私に触れる細くて長い指。そして、シルクのカーテンのように揺れる、長い髪。


 病気なんてやっつけて、手術が成功したらまた告白しようって思ってた。乃絵の家はお金持ちだから、いいお医者さんを見つけて、きっと治してくれると思ってた。


 だって、そうだ。叶恵さんが私の告白を断ったのは病気のせいだ。病気さえなければ、私たちは絶対に・・・・・・。


 考えたって仕方がない。叶恵さんはもういない。その事実だけは、どう転んでも変わることはない。


 瞼の裏に浮かぶ光の痕のように、叶恵さんとの記憶が好きという感情と隣合わせに私の心を巣くっている。


 私だって、何度も忘れようと努力をした。決して怠けていたわけじゃない。


 だけど。


「おはよ、湊」


 敷地を出たところにある標識の下で、待っていた乃絵が私に気付いて手を振って笑う。


 全部、乃絵のせいだ。


 乃絵がいる限り、私の中のこの感情を忘れることなんてできやしない。


「おはよう、近江」


 私の幼なじみの顔は、私の初恋の人によく似ていた。

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