第3章
第14話 アイキャン・フライパン
パンはパンでも食べられないパンはフライパンだけど、食べようと思えばフライパンだって食べられるじゃないかと反論するような子供だった。
私はこの世界で特別な存在だし、すべての物語の主人公だ。隕石が墜ちてきても私だけがひょっこり生きていたり、後ろから銃で撃たれても弾丸は私を通り過ぎていくばかり、おばあちゃんから教えてもらった質素な料理がたまたま王子様の舌にあって翌日お城に呼ばれたりもするし、学校にモンスターが現れたら通学路で拾った宝石が光り出して変身したりもする。
夢は諦めなければいつか叶う。自分の体は自分で守る。意識を失う最期の瞬間に後悔のない人生を。人の意思は永遠に。もういい、分かった。お腹いっぱいで、吐きそうだ。
そんなの誰もが思ってる。誰もが思ってるからこそ、他人に伝える。伝えて伝えて、この星にはそんな考えが充満するように溢れている。
耳を塞げ、目を瞑れ。教えてもらったことなど忘れろ。媚びるな、実力で黙らせろ。何よりも真っ直ぐに生き、その姿で誰かを魅了しろ。誰かを呪うな、幸せを願え。飄々と過ごせ。時に声を荒げてやるときはやると錯覚させろ。辛い出来事があってもクヨクヨするな。好きなものには好きと叫べ。ご飯は美味しく食べろ。自分を犠牲にして友達を助けろ。一途であれ。どん底からのし上がれ。不幸な自分を愛してもらえ。お前はシンデレラだ。一生懸命になれ。いつだって笑っていろ。他人を褒めろ。プライドを持つな。群れに紛れ込め。人と寄り添え。信じ合う尊さを学べ。手を繋ぐと安心するぞ。
おかしい、最初と言ってることが違う。自分の好きなように生きていいんじゃなかったのか。
無理に決まってるだろ。好きに生きたいなら誰かに好きになってもらえ。好きになってもらいたいなら誰かを好きになれ。褒められたいなら誰かを褒めろ。幸せになりたいなら誰かを幸せにしろ。
じゃあ、主人公になるには、どうしたらいい。
なれるわけないだろ。七十八億近くの人たちの中でお前だけが特別な存在なわけがないだろ。現実的になれよ。利口になれよ。
歯を食いしばって足掻く自分を、冷徹な目で睨んでいるもう一人の自分がいた。
トンカチで頭を殴られたみたいに、鈍い衝撃が常に滲み出ているような日々だった。漫画やゲームが好きだったから、その幻想的で夢のある素晴らしい世界に、きっと取り憑かれてしまっていたんだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
私は泣きながら地面を睨み付けていた。そんなとき、頭上で声がしたのだ。
顔を上げるとそこには、私とは歳の離れた綺麗な女の人が立っていた。
「転んだの? どこか痛いの?」
出てくる言葉は私を気遣うばかりのもので吐き気がした。どうせそんなことを言っても、本当は私を見て呆れているくせに。
「できるので」
突っぱねるように言い放って、私は気にせず目の前の鉄棒と向き合った。
逆上がりくらいできるはずだ。クラスのみんなもできていた。できる人はできる。できない人はできない。できない人は、公園内に広がる砂粒のようにこの世界の有象無象へと溶け込んでいくだけだ。
思い切り地面を蹴って、体を宙に浮かせる。
私は、主人公になりたい。
フライパンだって、思い切り噛みちぎってやりたい。
私は特別だ。私だって、何者かになりたい。
なんだっていい。ただ、日々を消費していくだけのエキストラにだけはなりたくなかった。
できる。できるはずなんだ。根性論、諦めない心。それを持っていれば、いつかは報われるはずなんだ。
「あっ、だ、大丈夫!?」
それなのに、私の体は鉄棒に触れた途端力をなくしたかのように落下し、回転することすらままならない。
受け身も取れず、私は膝をすりむいてしまった。ジンジンと滲むような傷口を睨んで、思わず涙を浮かべてしまう。
「なんで、なんで・・・・・・」
私は、何かにならなくちゃ。何者かにならなくちゃ。特別にならくちゃ。どこからやってきたかもわからない焦燥感にも似た不安にかられながら、何もできない自分を殺したくなる。
パンはパンでも食べられないパンはフライパンだ。それは決して覆ることのない事実で、私はそれを覆せるほどの特別な存在ではない。みんながフライパンの堅さに辟易している中で、私もそれをせせら笑いながら同調するだけのくだらない生き物だ。
自分の否定する存在に限りなく近しく、遠ざかることのない体が恨めしくて仕方が無い。
「逆上がりくらい、私にだって」
人がいるのに、泣くのを抑えられなかった。恥を捨てでも吐き出したい愚痴があることに自分でも嫌になってしまう。涙一粒こぼれるごとに、嫌いになっていく。
「見てて」
すると、目の前の女性が張り切った様子で袖をまくった。
そこで私は、はじめてその女性の顔を見た。とても整っていて、まるで創作作品に出てくるような限度を超えた造形の美しさを持っていた。それなのに表情がめまぐるしく変わるせいで、妙な親近感を覚えてしまい、その美貌が突然身近なものに感じてしまう。
そしてなにより、とても長い、キレイな髪をしていた。
「えいっ!」
その女性は鉄棒を逆手で持つと、思い切り地面を蹴って逆上がりを試みた。
ところが、体は上がりきらず、前へとすっ飛んでいく。そのくせ手を離さないものだから、空中で体がピン、と引っ張られた糸のようになる。手足の骨が軋む音がこちらまで聞こえてきそうな勢いで、私は自分の傷すら傍目に、女性の行く先を心配してしまっていた。
心配そのままに、女性は顔から地面にすっ飛んで転がった。あれだけ綺麗だった顔には土がつき、服も汚れてしまっている。
「あ、あの」
「空を飛ぶのは楽しいね」
体に付いた土を拭こうともしないまま、女性は言った。
「誰もあなたを責めたりなんかしないよ」
先に地面に落ちたのは私のほうなのに、その女性はもう立ち上がって、私に手を差し伸べた。
「だから、嫌いにならないで」
女性が言ったのは、鉄棒にだろうか。それとも、私自身にだろうか。とっくに、両方嫌いになっていたことに、今更気付く。
「傷口、消毒しないとね。おいで」
その人の手は、鉄棒を握るには柔らかすぎた。
「
「・・・・・・
ぶっきらぼうに答えたくせに、本名を答える誠実さと、手を握り付いていく信用を、すでに私は手にしてしまっていた。
鉄棒に背を向けて、私は叶恵さんに手を引かれ公園を後にする。振り切れていないものと、諦めきれないものはまだ山ほどあった。
できなくてもいいなんて、そんなの、才能のない自分を簡単に諦めてしまえるそこらに転がった無名の存在と同じだ。何者にもなれず変化のない未来を惰性で待ち望みながら暮らすどうしようもなく、くだらない存在。な、はずなのに。
どうしてか、その女性を見ていると、決して諦めたなんて単語は浮かんでこなかった。
私の世界に存在する、同世代とも、大人とも、子供とも違う。ほんの少しだけ離れた、年上の女性。
自分の知らない場所にいて、憧憬のような輝きを持つその人は私と同じくらい鉄棒が下手で、私にはない奔放さを持っている。身近で、ほど遠くて。
逆上がりを後回しにしてしまえるくらい、叶恵さんには不思議な魅力があった。
私の視線に気付いた叶恵さんがこちらに振り返って、優しく微笑む。
それが私と叶恵さんとの、はじめての出会いだった。
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