第13話 雨垂れ乃至を穿つ
『人を幸福にする力がわたしたちにはある』
それは
わたしが幸せと感じられるのはこうしてお見舞いに来てくれる人たちのおかげだ。たくさんの言葉をかけてもらって、たくさんの元気をもらうことで、自分自身の人生に納得がいった。これでよかったって思えた。だからわたしが今も笑っていられるのはみんなのおかげ。
乃絵がかけてあげたほんの少しの言葉ひとつで、その人の人生が変わるかもしれない。
だから恥ずかしがらないで。
人なんて、簡単に幸せになれるんだから。
鼻にチューブを着けたままの叶恵は、そう言ったあと私に売店からアイスを買ってこいと命令した。私が嫌な顔を見せると「あー不幸になりそう。もうちょっとで不幸になる」と自分の人生を盾にしてきたので、渋々私も売店に向かったのを覚えている。
でも、そんな叶恵との思い出があるから、『叶恵が死んだ事実』より『叶恵の生きた事実』が色濃く私の中に残っているのだろう。だから引きずることもないし、背負うこともない。
葬式ではしっかりと叶恵のために泣いたあと、集まった親戚や友達と笑い尽くした。
私に課せられたものはなく、ただほんのちょっと、叶恵の言葉を思い出しながら、前向きに生きていけばいいだけのこと。
室外機を踏み台にして窓から侵入すると、すでに風呂からあがった湊がコントローラーを握りしめてモニターとにらめっこしていた。
今日の風はやや冷たく、湿度の違いを湊の部屋の僅かな香りの変化と共に感じる。
「田んぼめっちゃ臭かった」
「そういう時季」
隣に座って、湊の横顔を眺める。湊も視線を感じたのか、私を一瞬だけ覗き見て、再び画面に視線を戻した。
葬式の日、私と一緒に湊も泣いていた。棺に入っている叶恵を見ても湊はいつも通り眠たそうな無気力顔を保っていたが、棺が火葬室に送られると、途端に泣きじゃくった。
それは湊だけでなく、他の大人も一緒だったから、きっとそういうものなのだろうけど、湊があんな風に泣く姿を見たのは初めてだったので、それが印象的でその場面ばかりいつも思い出してしまう。
「なに?」
「耳の横だけ乾ききってないよ」
「気付かなかった」
「右利きだから、こっちだけドライヤーかけ忘れたんだね」
「左右非対称は人類の残した最後の芸術である」
「かっこいい。誰の言葉?」
「今勝手に考えた」
「わお、偉人じゃん」
ただ、まぁ。あんな風に悲痛に泣きじゃくられるよりはこうして気怠げに過ごしてもらったほうが私も落ち着く。
湊の泣いている顔は、なんというか、痛々しいというか、子供っぽいというか。どうにもこう、庇護欲が湧いてくるというか。
「は?」
「え、なに急にキレてるの」
「さっと流れた文章にムカついた」
「豊ちゃんから貸してもらった本?」
「そんなところ」
貸してもらった本は、まだペラペラとめくっただけだけど、堅苦しい文章がズラーっと並んでいるという印象だった。本当に堅苦しいかどうかはわからないけど、私にとってひらがな以外の文字は全部堅苦しいのだ。
娯楽というのは心身共にリラックスするためにあるはずなのに、どうして膨大な量の文字をこちらから一生懸命読みに行かなければならないのか。
思わせぶりな描写や考えさせられる表現なんてどうでもいいから、こっちが頭を空っぽにして読めるような内容にしてほしい。「うわあ」「どがーん」「あははー」みたいな、台詞だけの作品のほうが読みやすいし、娯楽として入り込みやすい。
「どんな本?」
「わからん」
「読んでないの?」
「湊にも貸してあげようか」
「いい」
いいってなんだ? 貸して! って意味か? それとも大丈夫です、って意味か? 言葉ってめんどくさいな。
「まあでも読むよ。豊ちゃん喜びそうだし」
流し読みして描写が丁寧だったとか、読みやすかったとか、あれよこれよと気を遣って思ってもないことを並べたら、読書が好きだという豊ちゃんには悪いかもしれない。
多少無理をしてでも、しっかりと読み込んで、思わせぶりな描写や考えさせられる表現に向き合って感じたことを豊ちゃんに伝えることが大事なはずだ。
たったそれだけでも、幸せになる誰かがいるのなら。
「コンクールって、なんの話?」
湊はコントローラーのボタンを連打しながら、話を振ってくる。ただ、そのせいで会話がツギハギで繋げられたように不格好だった。
「作文コンクール。先生に勝手に選ばれた」
「初めて聞いた」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってない」
「そっか」
「豊ちゃんには言ったんだ」
「いや、先生から聞いたんだって、言ってたじゃん。豊ちゃん。私は誰にも言ってないよ」
なんかムキになったような感じになってしまった。私は何を弁明して、湊は何を求めているんだろう。
ふいに湊がゲームの電源を切ってコントローラーを放り投げた。
何を言うでもなく、布団に潜り込んだかと思うと勝手に電気を消された。
私も布団に向かおうとするが、真っ暗な部屋では足下もおぼつかない。結局もう一度電気の紐を引っ張って明かりを点ける。
湊は仰向けのまま、目を細めて電球を恨めしそうに見ていた。
もう一度紐を引っ張り、私も布団の中にお邪魔する。
湊の体は細く、布団の半分も占領しない。私だって、それほど肉付きのいいわけじゃないけれど、湊の線の細さにはかなわない。
そのくせ、湊は寒がりのせいでよく着込むから外見じゃその細さになかなか気付かない。触ってみたり、寝間着姿になったりするとようやくわかる。その点も含めて、猫みたいだなと評価し直す。
湊はそれからすぐに、深い寝息を立て始めた。今日は結構な距離を歩いたから疲れたのだろう。じゃあ、なんのために私を呼んだんだという疑問も浮かぶが、誰かといたかったとか、そんなかわいらしい理由なら許してやろうと結論付いた。
友達、三人、疎外感。
そんなに寂しかったか?
そんなに私と二人きりで話したかったか?
湊の表情や言動は落差に乏しく、すべてを感じ取るのは難しい。あの日みたいに泣きじゃくってくれたら、わかりやすいのだけど。でも、あんな風に泣かれては私も気が気じゃないので、今みたいにぼけーっと過ごしてもらったほうがいい。
私も早く寝よう。
そう思い、私も湊の真似をして、深い呼吸を繰り返した。
どうして途中で起きたのかわからない。
ぐっすり眠ったはずだった。
それなのに、私はこうして目を覚ましてしまった。
向かいの壁に立てかけてあるずっと昔から変わらない時計を見る。寝付いた頃から二時間ほど経過していた。しまったな、と思い、同じように思ったいつかの夏の夜が脳裏を過る。
音が聞こえたのは、それとほぼ同時だった。
隣から、哀切な水音が聞こえた。
降り注ぐような快活な音ではなかった。何かを押しこみ、虐めるような。泡だったような、そんな音が、私の後ろから聞こえる。
吐息はあまり聞こえない。その代わり、深く息を吸い込む音がなによりも主張して私の耳に届く。他人の息を吸い込む音などあまり聞く機会はない。新鮮味と、それに準じた異常事態を察知して、私の体も硬直してしまう。
水たまりを湊が駆けていく音を間近で聞いた私は、身を潜めるように息を止めてしまっていた。
布が擦れ、皮膚が擦れ、水が泡立ち、空気が通過していく。本当に、ただそれが繰り返されているだけなのに、初めて深夜に外出したときのような高揚感と、それに似た不安感が体中を支配する。
息が苦しくなったのか、鼻で吸う音も増えてきた。私はまだ、寝直すことはできそうにない。
いや、でも、勘違いかもしれない。
私の考えすぎで、例えばほら、鼻炎が続いていて、鼻を擦っているだけなのかもしれない。しれないよな? じゃあ違う場合は、どこを擦っているんだ? と、自分の中で葛藤が生まれる。
いっそ、聞いてしまおうか。
湊の切なそうな呼吸音を聞いていると、そんな気持ちさえ生まれてくる。もしかしたら湊は何かを悩んでいて、私に打ち解けたくて、でも迷っている。
そんなとき、きっと私の言葉とは誰かを幸せにできる力を持っているのかもしれない。
意を決して、私は寝返りを打つフリをして湊の方へ振り向いた。
「ふぇ?」
呂律の回っていないような「え?」だった。半分呼吸、半分声のような反応に、笑ってしまいそうになる。
「近江?」
不安をあらわにした湊の声が目の前から聞こえてくる。ここで目を開けて、なにやってんねん! と声を荒げたら、湊は驚くだろうか。
「起きてるの?」
湊が確かめるように私の顔を覗き込んでくる気配を感じる。気配というか、熱。ものすごく火照った熱が、私の顔の前にある。
そのあと、湊の指が私の鼻先に触れた。
それで確かめているつもりなのか。本当に猫みたいなやつだ。
さあここらで飛び起きてやろうかとタイミングを窺っていた私だったが。
再開された水音と、吐息に瞼が開かなくなってしまう。
おいおい。
今、どういう状態だ? 私たち、向き合ったままか? 向き合ったまま、湊は何をしているんだ?
上ずった声が、鼻先に降りかかる。上ずって、どこへ行く気だ。湊は、どこを目指しているんだ。目的地を想像すると、足を曲げたままではいられなくなる。
そんな私の微かな寝相にも気付いていないのか、湊は徐々にその動きと、呼吸を激しくしていった。
バレるか、バレないか。どっちでもいいかと思いながら、薄く目を開ける。
そこには、泣きそうな顔をした湊がいた。
私の胸の方へ手を伸ばして、けど、触らないようにして、体を丸めている。幸い、私の方は見ていない。幸いって、なんだ。覗き見るのが、私にとっての幸いか?
わからない。
吐息が、確かな声になっていく。
湊が、私の胸の中で、激しく泣きじゃくっている。
最初に聞こえたときのものよりも、甘い声が混じっている。私が振り返ったからか? 私の顔が見えるからか? 私の顔を見て何を思うんだ? 私の顔は何かに似ているか?
湊の体が、突然ピンと張り詰めた糸のように強ばった。息が止まったようなうめき声が少し続いて、緊張が解けたかのように、息が吐き出される。
湊の姿勢も、私の体勢も、位置も、最初とは随分変わってしまっていた。しかし、そんなこと気付いてすらないのか、湊は体を丸めたまま、私の胸の前で肩で息をしている。
それはまるで、大勢の大人たちの前で泣きじゃくっていたあの日の湊のようで。
そんな湊が成長した姿で、同じことを眼前でしているのかと思うと、喉の奥で小さなものが詰まっているような感覚に苛まれる。
私のそばで上下する頭を見て。
もう少し早く、目を覚ましていたら。なんて思ってしまった。
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