第11話 弘法も筆を選びたい
「ここがあたしのおうちです」
豊ちゃんの家はなかなか遠くにあって苦労した。私ですらリュックを背負った肩がこり始めているのだから、隣にいる湊なんて全身が鶏肉みたいに引き締まっているんじゃないだろうか。と、隣を見ても湊はいなかった。
振り返ると、息を切らしながら必死に私たちを追いかけてくる湊が見えた。壁に手を着きながら、死んだような顔をしている。この数十分でちょっと老けたか?
「笑わないでね」
「え? ああ」
湊の進軍を温かい目で見守っていたので、豊ちゃんの家や、豊ちゃん自身の表情なんて見てもなかった。最初からわざわざ注視するほどのものでもないのだけど。言われてしまったら意識を向けざるを得ない。豊ちゃんが恥ずかしそうに手のひらを向けた先には、小さな一軒家が建っていた。
庭というか、家の周りは狭い塀で囲まれていて、あたりは雑草で生い茂っている。ところどころ整備はされているようだが、雑草の生命力に苦戦しているみたいだった。窓の近くには小さな花がペットボトルを切り取って作られた鉢に植えられてスクスクと育っている。
肝心の家の外装は黒ずんだ木の板でできており、所々に穴が開いている箇所には工事現場の傍らに置いてあるような鉄製のタイルで補強されている。二階はないようで、おばあちゃんちの畑近くにあった物置を思い出す。
扉は見慣れた引き戸ではなく、これもまた大きな木の板でできていた。取っ手部分には後付けしたであろう錠がかけてあり、豊ちゃんが慣れた手つきで外すも、お手製扉は立て付けが悪いらしくガタガタと音を鳴らし軋ませていた。
その間に湊が到着し、私の背中によりかかってくる。熱気が伝わってきて、こっちまで息切れしそうだった。
「どうぞどうぞ」
豊ちゃんは緊張した面持ちで私たちを招いた。
「オンボロでしょ」
「そうかも」
私は率直な感想を言い、湊はしゃがれた声で「疲れた」とこぼした。
「でも、廃れたっていうよりは、生活のためのいろんな工夫がしてあってすごいなって思う。きちんとした人なんだね、おうちの人は」
そう言うと、豊ちゃんは驚いたような表情で私を見た。
「近江ちゃんって、いつもは何言ってるか微妙に分からないのに、時々すっごく優しいよね」
「優しくしてるつもりないんだけどね。ここに住むって言われたら絶対嫌だし」
「急にハッキリ言うね!? いいけどさ!」
玄関には、段ボールで作られたバスケットがカギ置き場となってぶら下がっていた。使えなくなった服を綺麗に切って貼り付けていて、オシャレだった。
廊下は完全に地面が剥き出しの状態で、そこも段ボールで補強などされているが、ややくたびれている。廊下を渡る途中で見えた空き部屋にはドラム缶が置いてあり、なんとなく、そこが浴室なのだと思った。
リビングに入ると、私は思わず「おお」と声を漏らした。
「いい部屋だね」
「そう、かな」
「めっちゃ綺麗じゃん。ね、湊」
これには湊も、納得したように頷いてみせた。
入ってすぐ見えたのは床に直接置かれた大きなテレビ。その横にはエメラルドグリーンのカラーボックスが置かれており、中には様々な本が入っている。本来砂壁でできているこの部屋を薄蒼色のカーテンで鮮やかに見せ、パステルカラーでまとめられた家具が明るい雰囲気を演出している。ここにいるだけで何かが始まりそうな、そんな胸の躍るような印象を覚えた。
「うちのお母さんの趣味なんだ」
「そうなんだ。玄関のバスケットを見たときも思ったけど、オシャレなんだね」
豊ちゃんは困ったような、だけど誇らしげな顔をして微笑んだ。
ベッドの上に、カバンを置かせてもらう。衣食住が一つにまとまった部屋も過ごしやすそうでいいな、と思った。部屋で仕切られず、大人か子供かで区別もされない。隔てられたもののない家で過ごせば、自然と家族の絆も深まっていくだろう。
「ていうか、私たちいきなり来ちゃったけど大丈夫?」
「大丈夫、お母さんは夕方から仕事だから」
「そうなんだ」
「うん。帰ってくるのは朝の四時だし、だから遠慮しないで。なんて言っても、遠慮するほどの場所でもないんだけど」
ゲームもないしね、と付け加えた豊ちゃんの視線の先で、湊はさっそくゲーム機を握りしめ液晶に視線を落としていた。
ポツンと、静寂が落ちてくる。家庭の事情とか、聞いた方がいいのだろうか。お母さんなんの仕事してるの? とかなんとか。しかし、手鏡と共に並べられた高級そうなメイク道具と香水を見たら、なんとなくの推測はついてしまって、話に出てこない父親の存在も、追求してもあまり話は弾まなそうだった。
「本好きなの?」
なので、というのもおかしな話だが、目に入った本棚を見ながらそんな話を振ってみる。
豊ちゃんは床に落ちた髪の毛などを一生懸命コロコロで掃除しながら「うん」と答えた。
「字って素直だし」
「素直とは」
「難しい操作とかいらないでしょ?」
「私から見たら本の方が難しいと思うけどね」
「近江ちゃんはあんまり小説とかは読まない?」
「読むけど、たぶんあんまり頭に入ってない。字だけってさ、なんかこっちから読みに行く姿勢じゃないと、イメージできなくない? 惰性で読んでも結局、なんだったんだって感想しか沸かないし。だからちゃんと読み込まないといけないんだと思うんだけど、それもまためんどい」
「あはは、ちょっとわかる」
豊ちゃんが一つ、本を手に取った。
「でも、だから読み切れたときは嬉しいし、こんなあたしを導いてくれた物語にはありがとうって言いたくなるんだと思う」
「なるほど。その本は、豊ちゃんのお気に入りだったり?」
「え? あ、うん。うーん?」
「違った?」
「本棚にある全部本がお気に入りだから、これがってわけでもないよ」
「え、ここにある本。ちゃんと全部読んだんだ。すご」
本棚を舐めるように見ていく。見えている本の奥にも、本が敷き詰められているようで、およそ百冊くらいあるんじゃないだろうか。古本もあるようだが、中には新品らしくものもある。
「お母さん、こういうのは節約しないんだ」
じろじろ本棚を眺めて考えていたせいで、いらない勘違いを生んでしまったかもしれない。別に、そういうこと考えていたわけじゃないのだけど。
「本は買うし、服も買ってくれる。そのくせ、大学に行けなんて言うんだよ? 変だよね、うちのお母さん。そんな贅沢してる場合じゃないはずなのに」
「豊ちゃんに幸せになって欲しいんだよ。きっと。いいお母さんじゃん」
「・・・・・・うん。だからね、あたし。お言葉に甘えて、大学に行こうかなって思ってるの。いい大学に行って、いい仕事に就いて、それで、お母さんにお返ししたい。そのためには勉強も頑張らないとだし、内申も稼がなきゃね」
「それで、風紀委員に?」
「まぁ、そんな感じ」
豊ちゃんはふいに自分のスカートを持ち上げて、太ももをあらわにした。
「本当は風紀なんてどうでもいいんだけど」
艶やかなその仕草は、お母さんからの教えだろうか。なんか、いい女に見えるな。
「媚びるのって、大事なのかも」
完璧な人間を見たときより、不完全な人の厭味な部分を見てしまったときのほうが好印象なのは、私がそれほどできた人間ではないからだろうか。
「ありがとう豊ちゃん、教えてくれて。明日先生に言っておくね」
「あれ!? 思ってた反応と違う! ここだけの秘密にはしてくれないんだ!」
「豊ちゃんの内申のために今までスカート丈直してたんだと思うとムカついてきた。明日から改造してフリル着けてこうかな。あと金髪に染めて、ピアスも開けよ」
「グレちゃった! ダメだよそんなの!」
「あぁ?」
「すでに怖い!」
ピーとやかんになっている豊ちゃんを見ているだけで楽しい。人をいじめるのが好きなのだろうか。私も私で、不完全な人間だなと憂うのと同時、頬が緩んでしまう。この部屋で過ごす時間も、なかなか楽しい。
豊ちゃんが紅茶を入れてくれるというので、本当のやかんを取り出してカセットコンロに火が着けられた。豊ちゃんがキッチン周りでいそいそと動き回っているので、手持ち無沙汰になった私は本棚から一つ本を取り出して背表紙をなぞる。
どこか懐かしくも誇らしい、風化した畳のような香りがどこからか漂ってくる。
そういえばさっきから喋らないなと湊を見ると、すっかりリラックスした様子で、うつ伏せに寝転がってスマホをいじっていた。ゲームはやめたのか。
それともスマホのゲームか? でも、縦に持ってるし、誰かとやりとりでも・・・・・・それはないか。と、幼なじみの動向を探ってみる。
「湊」
名前を呼ぶと、不機嫌そうな声で「んー」と返事をされた。
とすると、やはりなにかのスマホゲームだろうか。縦画面とは珍しい。なんのゲームを始めたのだろうかと気になって後ろから覗き込んでみる。
液晶に映し出されていたのは、見慣れた検索画面だった。
『友達 三人 疎外感』
私に覗き込まれていることに気付いたのか、変わった素振りは見せずとも、明らかに焦った様子の指さばきでページを切り替えられた。
私と豊ちゃんが二人で盛り上がっていたから、そんなことを検索したのだろうか。別に私は湊を意図的に仲間外れにしたわけじゃないし、豊ちゃんだって同じはずだ。
これまでずっと偶数だった私たちが突然奇数になったからって、そんなワード検索しなくてもいいのに。そもそも、寂しいのだったら会話に入ってくればいいのに。ああ、でも、湊はそんな器用な奴じゃないか。
考えて、なら、偶数にすればいいかと思考を巡らせる。
手に持った本を掲げたまま、私は豊ちゃんに話しかけた。
「これ、私の姉ちゃんが書いた本だよ」
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