第2章

第7話 飛んだ火に依る


 湿気の多いある夏の夜のことだった。


 まだ中学生だった私は、今のようにみなとの家に忍び込む真似はしていなかった。互いの親に許可を取り、着替えとお土産のお菓子をリュックに詰めて訪ねると、いらっしゃい待ってたよと歓迎され玄関を通されるような泊まり方をしていた。


 それが多少くすぐったくもあったけれど、中学生という年頃ではいたって健全な他人との付き合い方だったように思える。


 傷心気味だった両親も、家にいたがらない私を説き伏せるようなことはしなかった。私がしたいと思ったことはなんでもさせてくれて、したくないと言ったものはしなくてもよかった。それはきっと心から私の幸せと濁りのない未来を望んでいてくれているからで、一人残された娘を思うその気持ちもまた、健全だったのだと思う。


 私も私で、家を無言で飛び出そうとしなかったのは親を思ってのことだし、娘である私だけではなく、親も残された人間のうちの一人なのだということを理解していた。大切なものを失ったとき、人は残された、もう一つの大切なものを護ることに尽力する。なにも間違っていない、幸せであろうと無理をした私たち家族は、なにも間違っていなかったし、強い人たちだと近所の人や親戚からも賞賛され、激励された。


 当然、湊の家族も私を温かく迎え入れてくれた。虚無感にも似た寂しさや悲しさを紛らわそうと、気を遣ってくれていたことは私でも分かる。その見え透いた気遣いが私にとってすごく心強かった。


 湊は最初の一週間くらいは大分落ち込んでいたようで、腫れた目を何度も擦りながら学校に来ては早退するを繰り返していた。それから少しずつ自分の中でも整理ができてきたのか、普段通りに過ごすようになった。


 私たちは、もう、乗り越えたのだと思っていた。


 その日は湊と買ったばかりのボードゲームをやったり、当時ハマっていた漫画の回し読みや絵しりとりなどをして力のいらないリラックスした時間を過ごした。


 お風呂を済ませ、テレビを見ながら歯を磨いて床に就く。一見なんの淀みもない、純一無雑な過ごし方だった。


 布団を被ってからは湊とほんの少しおしゃべりをする。寝るのはもったいないという思いもあったし、暗闇で視界を奪われたなか談笑に勤しむというこの時間が泊まりの中の一番の楽しみだということもある。百物語をしようとか言い出したり、クラスメイトのおバカなエピソードを語り合って笑ったりして、どちらかがあくびをして深く息を吸うとそれが会話終了のきっかけになる。


 楽しかったなぁ、やっぱり泊まりっていいなぁ。慣れない布団に包まれながらそんなようなことを思う。友達でよかった、ううん。幼なじみでよかった。過去も未来も、悲しみも喜びも共有できる。互いを理解し、気を遣わない気遣いができるこの関係性に、私はひどく救われていた。


 隣に感じる気配に感謝をしながら私は眠りに就いた。


 目を覚ましたのはそれから二時間ほど経ったあとだった。パチ、と目を開けて、向かいの壁にかかってる時計を見て、しまったと思う。


 蒸し暑いせいもあっただろうか。もう一度寝直そうとした、そのときだった。


 隣から水音がした。


 今日は雨でも降っていただろうか。水たまりを長靴でスキップするような、そんな音が隣から聞こえてくる。よほど長い間スキップをしていたのか、水音に混じり荒い吐息まで聞こえてくる。


 何かに追い立てられているかのようなその吐息は、夏の暑さに当てられたかのように熱を帯びていく。私は向かいの時計を見たまま、固まってしまっていた。


 秒針が刻む速度を超えて、水音が鳴る。いったい、どこへ向かっているというのだろうか。分かりかねるたどたどしい足取りが水たまりを鳴らし駆けていく。跳ねて、飛んで、時々止まって、水面をなぞるようにすり足になり、そうすると吐息がいっそう深く、長く、哀切なものへと変わっていく。


 湊はいったい、何をしているんだろう。


 寝ている私の横で、どうしてそんなにも必死に、嘆かわしく、鳴いているんだろう。


 きっと振り返ることもできた。何してるの? って聞くこともできた。けれど。


叶恵かなえ、さん」


 その名前を必死に呼びながら雨に打たれる湊を見てしまったら、そんなことできるはずもなかった。


 私も、家族も、乗り越えていた。失ったものは確かに大きいけれど、いつまでもクヨクヨしていられないから、私たちは叶恵の分まで幸せにならなくちゃって、心の中で何度も朽ち果てた記憶を火葬したはずなのだ。


 だけど、湊だけは違った。


 一人の人間としての尊厳。一つの人生としての充足度。そんなもの、湊は見ていなかった。


 その焼き尽くしても煙にすらならない白骨化した想いは、一時の切なさや、大切な人と過ごした大切な思い出にすらならないのだろう。


 湊はずっと、私の横でもだえていた。息を殺し、私を起こさないよう、鼻で呼吸しながら、時折声を漏らし、水たまりを歩く。


 ぴちゃ、ぴちゃ、と。雨が降り続ける。


 私の布団が引っ張られたかと思うと、湊は背中越しでもわかるくらいに体を強ばらせ、一際高い声をあげた。


 それから少しすると、湊は何事もなかったかのように布団を直して眠りに就いた。

 

 その日を境に、湊は私のことを乃絵のえではなく近江このえと呼ぶようになった。湊のなかで、近江はこの私だけになったのだろう。それに釣られて、私も那兎なとのことは湊と名字で呼ぶようになった。


 これからも幼なじみでいられるよう、私はずっと、雨宿りのフリをしていることしかできなかった。

 

 あの日のことを、私は今でも思い出す。


 思い出すたびに、疑問に駆られる。


 どうして湊は、わざわざ、私の横で水たまりを歩いたのだろう。

 

 どうして、私の横じゃないといけなかったのだろう。

 

 幼なじみであるはずなのに、こればかりは、今となっても分からないままだ。

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