第6話 鷹は能より飯が欲しい

 私を一人覆うには大きすぎる玄関をくぐり、汚れだらけの足裏を支えるには綺麗すぎる毛皮のカーペットを踏み抜く。金箔の塗られたドアノブを回すと、ミルでコーヒーを挽いている途中の父と目が合う。プライドや身の丈を助長させるだけの高価なもので揃えられたこの家で、そのミルだけは一つ、値の落ちたものだ。


 しかし、父は結婚記念に母から貰ったのだというそのミルを十年以上も大事に使っている。そんな父を、そばにいる母がうっとりと見つめている。


「おかえり乃絵のえ。お母さん今から買い物行くけど、なにか食べたいものはある?」

「チャーハン」

「ほらな、乃絵ならそう言うっていったろ」

「お母さん的には作るの簡単だしありがたいんだけど、あなたもそれでいい?」

「僕もそれでかまわないよ。乃絵、叶恵かなえにも聞いておきなさい」

「叶恵もどうせチャーハンだよ」

「・・・・・・そうだな」


 芳醇な香りが部屋に漂うと、四十後半にさしかかったはずの両親も若々しく見える。きっとこの人たちは、出会って、結婚して、私を生むまで、ずっとこのような幸せの中に過ごしてきたのだろう。


「乃絵、中学のときの先生からダンス教室の誘いがきてるわよ。今度は本格的に、実力のある人だけを選抜して将来の選手の育成に力を入れるらしいの。それで乃絵も是非どうかって。あの先生も乃絵のことを随分買ってくださってたものね。それで乃絵、どうする?」


 母が便せんらしきものを持って私の前でちらつかせる。


「やらない。断っておいて」

「乃絵には才能があると思うわ。せっかく県大会までいったのに。あんまり楽しくなかった?」

「うん」

「いいじゃないか。乃絵のしたいことをさせてあげなさい。才能があるといっても、それが自分のやりたいことじゃなかったら意味ないしな。僕だって、今更将棋の才能に気付いてもプロ棋士になろうとは思わないよ」


 父は私をよく理解してくれていた。母も、最初は何もかもを投げ出す私を苦渋の表情で眺めていたが、次第に慣れてきたのか私に無理強いをすることはなくなった。


 買い物に出る母の背中を見送ってから自室に向かう。


 私の部屋にはいつも埃っぽい臭いが充満している。使わなくなった電子ピアノ。必要なくなった楽譜。弦の錆びたギター。ダンスレッスン用のマット。充電器を無くした一眼レフ。少しも減っていない絵の具と、新品同様のスケッチブック。積み上げられた自己啓発本にビジネス本。海外の翻訳書。汚れたままのパレット。


 私が私になろうとした頃の残骸が、そこかしこに広がっている。

 

 あの日もらった賞状は学校のプリントに紛れ、あの日もらったトロフィーは飲み終わったペットボトルと共に壁に立てかけてある。どれもリサイクルされるべきゴミの傍らに置かれ、無駄に過ごした月日がいずれ焼却されるのを待っている。


 天から与えられた才能は、どこへ投げ捨てようか。そればかり考えて、でも結局、この部屋にはもう置き場がないことに気付く。


「叶恵、チャーハンでいいかって」


 どうせいいに決まっているし、嫌だと言われても今更変えることはできない。そもそも、叶恵の好物もチャーハンではあったが、今も、そしてこれからもチャーハンを愛して止まないままではないだろう。知らないけど。


 常温のコーンポタージュの缶を開ける。賞味期限を見るのは忘れた。


 線香のにおいは、どんな味をも過去にする。未来へ向かう意識を奪うよう、今を釘付けにして離さない。


 時々、自分が人間であることが無性に寂しくなることがある。


 どうして私は人間なのだろう。どうして私は女なのだろう。どうして私は妹なのだろう。生まれた瞬間に焼き付いた紋章が、蝕むように体内を侵していく。


 人間だから、人間らしく生きる。女だから、素敵なお婿さんを見つける。妹だから、姉を持つ。


 宿命じみた道先を憂い、雨粒で叩かれる窓の向こうを見つめ羨望する。黒いシミの上をゆっくりと進むカタツムリを探すため、窓を開け放ち、降り注ぐ雨を受けながら地面を睨んだ。


 カタツムリには性別がないらしい。


 生まれ持ったものが存在しないって、どれだけ気楽なんだろう。


 才能があるから頑張れなんて言われなくてもいいし、女だからウエディングドレスを着ろなんて言われなくてもいい。妹だから姉の代わりに幸せになれとも、きっと言われなくていい。


 もう無かったことにはできない、消えることのない称号が、今も私の背中を狙って殺気立っているこの日常を、私はどう過ごしていけばいいのだろう。


 ふと、湊の顔が思い浮び、メッセージを送る。


『今日も行っていい?』


 すぐに返事が返ってくる。


『ん』

『十時』

『あい』


 湊はゲームの攻略サイトなどをスマホで見ていることが多いので、返事が来るのがいつも早い。私はなんとなく、暇人に思われたくないからとわざと返事を遅らせるタイプのしょうもない奴なので、あけすけな湊の対応がやや眩しく思える。


「はやく、チャーハン食いたいな」


 ベッドに寝転んで天井を見上げる。


 幼なじみという関係も、もしかしたら決して消すことのできない称号なのかもしれない。歳を取って、今から欲しいと願っても、もう二度と手に入らない。そういうもの。


 才能、姉、幼なじみ。


 欲しいと思ったときには、もう遅い。


 そういうものに囲まれて生まれてしまったから、気付くのに遅れてしまったけど。この要らない才能も、当たり前のように仲の良い幼なじみも、姉のように惜しいと思う日が訪れるのだろうか。


 私と湊が、幼なじみではなくなる日が、いつか来るのだろうか。


 湊がやっていたゲームのタイトルを思い出して、母親に買ってくるようメッセージを送ってみる。すぐに「分かったよ~。探してみるね」と賑やかなスタンプを添えたメッセージが返ってくる。


 二度と手に入らないものと、二度と手放せないもの。


 キミなら、どっちを選ぶ? 窓の向こうのカタツムリに問いかけてみる。


 カタツムリは、湊や母親のように、すぐさま返事をくれるわけではない。


 一階に降りて、変な殿様の番組を観て笑っている父に「今日も湊の家に行く」と伝えると、父は朗らかな笑みを浮かべて言う。


「ああ、わかった。ただ夜道にだけは気をつけてくれよ。連絡くれたら迎えにいくし、僕もまだ酒を飲んでないから送ってあげることもできるけど、どうする?」

「ううん。大丈夫。さんくすパパ」

「パパって、はは。なんだそれ。しかし本当に那兎なとちゃんとは仲がいいなぁ。友達は大事になさい、娘よ」


 強調した「娘」に、私も笑う。どこかくすぐったい。けど、私は生まれた瞬間、娘だったのだから、本来それが正しい呼び方なんだろう。


 父は、生まれたときから父だったわけじゃないくせに。


「それからこれ、お母さんには内緒だぞ」


 父に渡されたのは、数枚の紙幣だった。


「乃絵のしたいことをしなさい。高校生っていうのは、したいことをする。それからしたいことを探す。自分を見つけるのが仕事なんだ」

「今日のお父さん、良いこというね。ありがとう。大事に使うよ」


 湊の家に行くときはこれでお菓子でも買っていこう。


 未来のことを考えると、浮き足立つ。


 私には、まだ未来がある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る