第5話 放課後の筍
距離感というのはどうにも曖昧だ。家から学校まで十キロの距離があったとしても歩くのは十三キロほど。結局のところ重要なのは道のりであって、距離なんかじゃない。じゃあなんで距離なんて測りたいのだろうと考えると、もしかしたら人は、安心が欲しいだけなのかもしれない。
合理性や利便性なんて頭の良い人だけが考えて、のらりくらりと生きる私たちは、これから向かう先までだいたいどれくらいの距離があるのか、知りたくてたまらない。
曖昧こそが、重い足先を動かす手段なのだ。
体育のマラソンだって、何周とか、何時まで、とか。そういう言い方をするから嫌になる。最初から、百メートルだよって教えてくれたらやる気になるし、五キロだよって教えてくれたら最初から仮病を使う。
もしかしたら今日はって思ってしまうから、私たちはわざわざ嫌な顔をして授業に出てしまうのだ。
微妙な曇り空の下、えっさほいさと今日も走る。先に脱落した湊が、水飲み場のそばでぶっ倒れていたので私も先生に言ってから休むことにした。
湊からすれば、学校に来て授業に出て体操着に着替えて走るだけでも人生三回分くらいの労力を使うのだろう。顔色を悪くした湊は、ずっと呪詛のようなものを呟いていた。
放課後になってもゾンビみたいに廊下を歩く湊を見ていると可哀想になってくる。しょうがないのでカバンをもってやると、おんぶしてなどと言ってきた。
何回か試みてみたものの、人一人を背負うというのは想像以上に体力がいるもので、気付けば私は湊を足に巻き付けて歩いていた。
中学校のとき初めて自転車の二人乗りをしたときも、私がペダルを漕いでいた。私は湊を、どこへ連れていきたいのだろう。
おんぶして、後ろに乗せて。頼んでくるのはいつも湊なのだけど、面倒事から逃げたつもりがもっと面倒なことになるのが湊らしい。そんな不器用で自堕落な湊を引きずって歩くのは、もう慣れてしまった。
雨が降ってきて、傘を差す。湊は何故か、折りたたみ傘を嫌う。要らない情報。
なら、私にとって有益な、湊の情報ってなんなのだろう。
知りたいことはあまりなく、ただ、過ごしていくうちに増えていく理解度と知識さえあれば、欲するものはなかった。
「近江」
信号待ちしていると、少し元気を取り戻したのか、湊がぼそっと呟く。
「猫みたいって、なに」
「神経にWi-Fi使ってるのか?」
昼間の会話から引用したらしいその問いに、私の電波まで弱くなりそうだった。
「いちいち音に敏感なところとかさ、っぽいなって。前に自分で落としたスマホに驚いてどっか逃げてったじゃん。あれはもう、まさしく猫だった」
「でも、猫みたいに運動神経よくないし」
走るたびに死にそうな顔をしている湊を思い出すと、たしかに猫っぽさが脱兎の如く逃げていく。じゃあ兎か? ピョンピョン跳ねるだけでも、ひっくり返りそうだ。
「体力は、まぁなくても運動神経が悪いわけじゃないでしょ。もしかしたらフェンシングの才能が眠ってるかもしれない」
「その才能いつ使うの」
「フェンシングするときでしょ」
湊が、はぁとため息を吐く。自分で言ってても思ったが、フェンシングなんて人生でやる機会あるのか。
「そんな落ち込まなくても、運動神経なんかなくたって生きていけるよ。私なんか寝るのが趣味だから運動神経なんてこれっぽっちも使ったことないし。運動神経も、フェンシングも、同じことだよ」
「近江は違う」
「えぇ、仲間外れにしないでよ」
「だって近江は私とは違って、才能があるから」
「フェンシングの?」
湊は頷く。
信号が青になって、二人で進む。前から人が来て、傘が当たらないように横にズレると、湊が反対方向へと遠ざかっていく。そのまま別々で横断歩道を渡り、自然とまた、合流を果たす。
「にゃあって鳴いてみて」
「え、なんで」
「猫っぽいから」
「自分からにゃあなんて言う女にろくな奴はいない」
「自分からじゃないでしょ。私がお願いしてるんだから」
湊は納得したように目を丸くして、そのあとあくびをするように「やぁ」と言った。「に」はどこ行った。
猫人間を作っているわけではないので、完璧でなくともいいのだけど。
四時になると、ゲームのアプデだとか言って湊が雨宿りできる場所を探し始めた。私たちはバス停の近くにある屋根付きのベンチに座ることにした。
袖や毛先についた雨粒を落としながら、傘の水気を取り立てかける。
車も人も、あまり通らない。近くにはお地蔵さんが一人いるだけで、遠くから聞こえる車の音と、水たまりを叩く雨粒の音だけが寂しく響いている。
湊のスマホにはダウンロード中という文字が表示されていて、その下を青いゲージがピコピコとナメクジのように動いている。
「みな――」
それいつ終わるの、と聞こうとした矢先。湊が私に寄りかかってきた。
若干濡れた制服に、湊の髪がへばりつく。
きめ細かい黒髪が地割れのように私の肩へと広がっていき、げげ、と顔を背ける。
「猫のまねですか」
なんでか敬語になってしまった。なんでだ。
「そう」
「実は猫飼ったことないから猫よくわかんないんだよね」
「知ってる」
「あ、そ」
ポタポタと、雨が屋根を伝い足下に落ちてくる。ようやく来たバスは、止まることなく通り過ぎて行ってしまった。誰もバスには用はなく、同じように誰もこの場所に用はない。
「豊ちゃんが見たらさ、なんていうかな」
「また騒ぐに決まってる」
「意識するほうが、意識しちゃうよね。なんとなく」
「でも豊ちゃんだから、私は気にしない」
湊は豊ちゃんのどこを気に入ってるのかと疑問に思ったが、たぶん湊は豊ちゃんのことを嫌いではないから気に入っているのだろうと私は予想する。湊の人間関係というのは常に消去法で進んでいき、残った何者でもない人間となんとなく接する。だから豊ちゃんも、きっとそうなのだと思った。
「近江、褒めて」
「偉いねすごいねー、がんばったねー」
湊の方から頭を差し出してきたので、撫でるのは簡単だった。ところで私は、何に対して褒めているんだ。
ぽつぽつと人が増え始め、雨宿りがてらここのベンチを覗く人も増えてきた。けど、その人たちは私と湊を見ると、遠慮したように外へ出て行った。
湊は相変わらず、私の肩に頭を預けたままスマホを弄っている。この状況の、どこに遠慮する要素があるのだろう。
顔を横に向けると、湊の額と、耳の裏と、長いまつ毛が目に入る。この角度から湊を見たのは初めてかもしれない。ということは、この体勢になること自体が、初めてということにもなるわけで。
この距離感もまた、曖昧で。
目的にたどり着くまでの道のりが、私にはまだわからなかった。
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