彼に歌えよ
田辺すみ
彼に歌えよ
劇場に明かりが灯る。人々は物語に群れる蝶のよう。
アン・デア・ウィーン劇場は今夜も満席だ。階段裏でウェスは耳をそば立てた。テノールの伸びやかな歌声が響いてくる。「何という美しさ」、今夜の演目はドニゼッティの『愛の妙薬』だ。嫌なことも忘れてうきうきした気分になってくる。明日のパンの心配など、明日すればよいのだ。それともネモリーノのように軍隊にでも入るべきか。
開幕してしまえば階下のホールウェイには、やる気の無いもの売りが一人二人座りこんでいるだけだ。ウェスには席を買うような金も無ければ時間も無い。アリアを聞き終わって列柱を縫い、パパゲーノ門を出ようとしたところで、呼び止められた。
「ねえ、君、シカネーダー先生と親しいんでしょう?」
不思議な声だ、明るい水底から湧くような、人魚の歌声のような。それに女の子にしては随分と背が高く、カツラは絡まり放題で、埃っぽいドレスの肩がきつそうだ。
「君は誰?」
「私はリア。歌を習っていて、シカネーダー先生のファンなの。先生に会わせてくれない?」
歌劇界は実力もさることながら、コネやパトロンがものを言う。無一文になっても大法螺吹きの治らないあの養父は、歌手見習いの若い女性にファンだと言われたら、喜んで口利きするだろう。容易に想像がついて、ウェスはげんなりした。尤もその軽薄さというか大らかさのおかげで、実の息子かも分からない自分を一座に受け入れて育ててくれたのだから、目を瞑るしかあるまい。
世紀の大興行師、『魔笛』の脚本家、歌手、アン・デア・ウィーン劇場の創立者であるエマヌエル・シカネーダーは、自作歌劇と劇場の成功から一転、派手な散財と無謀な投資が祟って、今や安アパートの一室でくだを巻いている。盟友であったモーツアルトを亡くし、妻エレオノーレに愛想を尽かされ出ていかれたことも、男の自尊心を酷く弱らせたようだ。ウェスは、とうとう古い馴染みの劇団員たちとも喧嘩別れしてしまったシカネーダに一人、身の回りの用事をするため付いてきた。実のところは、エレオノーレと劇団員たちに頼まれたのである。
「おう、女連れとは一人前だな、ウェス」
薄暗くてカビ臭い部屋の戸を開けると、カツラも着けずに髭面の小柄な男が、タバコの煙に塗れて書き物をしている。ウェスは、シカネーダーがもう何本も歌劇の脚本を書いていることを知っていた。根っから、人を楽しませるのが好きなのだ。歌劇が好きなのだ。歌劇を見て笑って感動して、皆が現実の苦しさを乗り越えられる力になれればいい、といつかシカネーダーは言っていた。しかしもう誰も、名声を失った彼の脚本に曲を付けようとはしない。リアは失望するだろうか、とウェスは傍らの女性を伺った。
「シカネーダー先生、私に歌わせて下さい」
リアの朝露が震えるような声音にシカネーダーは顔を上げ、大きな目を更に見開いて破顔した。
「お前、カストラートだな。女の姿をしているとは恐れ入った。ケルビーノよろしくどんな騒動に巻き込まれた」
「男にでも女にでもなります。私は歌いたいんです。孤児院でも教会でも、私は歌うことだけが生きる望みでした。ウィーンに出てきて、私よりも才能のある人、有力なパトロンを持つ人には敵わないことを知りました。けれどこの身体は、もう歌うことにしか役立たないんです」
仕事が貰えなくて、食べていけなくて、愛人稼業のようなこともしました。けれど連れていかれた劇場で『魔笛』を見たんです。あの人々を慄かせて怒り狂う夜の女王のアリアを、僕は一生忘れません。怒れ、怒れ、打ち壊せ、太陽の教団などという賢く善人ぶって差別し排他する奴らに決して負けてはならない。カストラートにコロラトゥーラは歌えない。けれど、歌は人を変えることができるのです。人が変われば、社会が変わる。僕はそのために、どんな歌でも歌ってみせる。リアの赤銅の瞳が蒼い炎を上げるようだ。舞台に立てばさぞ美しいだろう、とウェスは思った。
胸の奥で銀の鈴が鳴る。どうしてシカネーダーは、『魔笛』のタミーノ王子ではなく、お調子者で臆病なパパゲーノを歌うのか、尋ねたことがある。観客は、タミーノとパミーナの恋物語や、夜の女王と太陽の教団のようなファンタジー、敵との争いや試練など冒険譚を楽しむことができる。だが、一番感情移入できるのは誰だと思う? 危なくなったら王子様を置いてすぐ逃げ出す、彼女が欲しいってことばかり考えている。パパゲーノこそ人間の在り様なんだ。夜の女王は革命に倒される古きよきもの、太陽の教団は新しいブルジョワ支配層。二派の対立の間に、我々はキスの相手を見つけて、子どもを生んで育てていくのさ。そうやって脈々と続いていくんだ。俺は、そういうものが愛おしい。シカネーダーはきっと、リアに歌を贈るだろう。
彼に歌えよ 田辺すみ @stanabe
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