さらば、愛しの鳩サブレ―

朝飯抜太郎

さらば、愛しの鳩サブレ―

 鎌倉生まれ鎌倉育ちのおじいちゃんは、後から覚えた関西弁で、わたしにその話をしてくれた。

 弱気を助け、弱気をくじく、鳩サブレーの騎士の話を。


 おじいちゃんがまだ二十歳になる前、鎌倉で菓子職人を目指して修行していた頃に、おじいちゃんは恋をした。相手は資産家のお嬢様。金も腕も持たない未熟なおじいちゃんにとって、お嬢様は高嶺すぎる花だった。

「その夜は、雨が降っとったが、おれは傘もささんと歩いとった。美沙子が許婚と結婚すると聞いた夜や。美沙子の親父さんはおれに言った。『お前に娘を幸せにできるのか?』ありふれた言葉やな。でもな、おれは何も言えんかった。

 目の前が真っ暗になるってのは、ほんまにあることなんや。何も見えへんまま、泥をかき分けて歩いとるような気持ち。見えへんというか見たくないんやな。それで、前を見てないおれは、何かに鼻先をしたたかにぶつけた。ようやっと前を見ると、そこに鳩サブレーの騎士がおった」


 おじいちゃんがぶつかったのは、鳩サブレーの騎士が乗っていたサ~ブレッド(おじいちゃんは、~のところを「ラ」と「ア」の中間くらいで発音した)の平たい側面だった。サ~ブレッドは、小さい子供が遊ぶ木馬を大きくしたようなもので、ただし形は馬ではなくデフォルメした鳥の形、まんま鳩サブレーの形をしていた。

 それに跨っているのは、ガチガチの西洋の甲冑を着ていわゆる騎士としか形容できない何かだった。顔は兜で見えない。

「理由を聞こう!」

 よく通る声で鳩サブレーの騎士は言った。

 おじいちゃんは虚無感で感情が冷えていたから、不審者を睨みつけた。。

「あぁ?」

「お前が下を向く理由だ! 若者よ!」

 鳩サブレーの騎士の声は良く響き、張りがあった。

 おじいちゃんは反射的に怒りを覚えた。心の奥底に溜め込まれていた何かが出口を見つけて吹き出すように、おじいちゃんの枯れていた感情が燃え上がった。

 おれが人生で一番へこんでいるときに、なんでこんな変態がおれに話しかけてくるのか。しかも何でこの変態はこんな上から物を言うのか。変態のくせに!


 目の前真っ暗状態の副作用だ。おじいちゃんは人を殺しそうな声音で言った。

「何でお前に言う必要がある……って問答するのも面倒だな。いいか、おれが下を向くのは、好きな女ひとりを幸せにできないからだ。そいつの許婚は金を持ってて、そいつを幸せにできる。しかし、おれは金も実力もない職人見習い。おれの幸せにあいつは必要だが、あいつの幸せにおれは邪魔なんだ。少なくとも、今のおれではな。ほんと嫌になるほど、よくある話だ。これでいいか? なら、失せろ!」

「うむ。了解した! 乗れ!」

 そして騎士が伸ばした腕は思いのほか太く、そんなに小柄でもなかった若きおじいちゃんをぐいと引き寄せるとサ~ブレッドの後ろに無理やり乗せた。

「な、何しやがる!」

「花嫁を迎えに行く! つかまっていろ!」

 そして、サ~ブレッドは飛び上がった。鎌倉の街が一瞬で小さくなった。


 おじいちゃんの勤めている菓子屋が豆粒みたいに小さくて見える。その小さな菓子屋の小さな厨房で自分があくせく働いていて叱られてへこんだり、喜んだりしていることを思うと、おじいちゃんは状況を忘れて、何だか愉快な気持ちになった。

 サ~ブレッドは空中を旋回しながら方向を決めると、一気に空を駆け下りていった。その先には、大きな屋敷がある。おじいちゃんは叫んだ。

「やめろ!」

「何故だ」

「あいつはそこで幸せになるんだ。それを邪魔する必要はねえ」

「何故だ!」

「何故? おれはあいつに幸せになって欲しいんだ!」

「なら、お前が幸せにしろ! 大馬鹿者め!」

 サ~ブレッドが加速した。空気の壁のようなものに一瞬おじいちゃんは弾かれそうになったが何とか鳩サブレーの騎士にしがみついた。

「若者よ、勇気を!」

 鳩サブレーの騎士は高らかに叫んだ。


「それから?」

「サ~ブレッドは屋敷の中庭に下りた。おれはそのまま美沙子の部屋に行って、美沙子を連れて逃げた。そしたら、あそこには住み込みの人間もたくさんおったから、そいつらがみんな追いかけてきてな。あれや、時代劇のクライマックスみたいな感じやな。でもおれは、そいつらをかわしながら走って逃げた」

「鳩サブレーの騎士は?」

「さあ……それからは見とらんが、たぶん追っ手を止めてくれてたんちゃうかなあ」

「かっこいいやん」

「サムライよ。あいつは」

 そうして、鎌倉を出たおじいちゃんは美沙子さん(おばあちゃん)と一緒に大阪に出て、そこでもう一度菓子職人の修行をして一人前になり自分の店を持って子供が生まれ、それがお父さんで、お父さんが大きくなって電気メーカーに就職して、その長女として私が生まれたころにおじいちゃんは自分の店を閉めた。

「人生は単純やない。運もある。実際、一番苦労したのはそのあとやった。でもな、おれのは、悔いのない人生やった。それは全部、鳩サブレーの騎士のおかげや」

「何で、鳩サブレーなんやろね」

 その疑問には、おじいちゃんが亡くなってから、おばあちゃんが答えてくれた。

「おじいちゃんは鎌倉の豊島堂、鳩サブレーのお店で修行してたんよ。おじいちゃんもわたしもあのお菓子が大好きで、それが縁で知り合ったんやもの」

 そこで、おばあちゃんはくすくす、ひとり笑い出して、

「鎌倉を出るとき、あの人が汽車の窓を見ながら泣いてたんや。家族も友達も全部捨てて、住んでいた街を突然離れるんよ。寂しいし怖いわなあ。そう思って、わたしも一緒に泣いた。そしたら、あの人、汽車が出るときにまじめな顔で言ったんよ。『さらば、愛しき鳩サブレー』って。え、そこ? そこなん? って。もう可笑しくって。さっきまで泣いてたのに、わたし、吹き出してもうてね」

 それを聞いてわたしも笑う。おじいちゃん、やっぱり、おもろい。

 おばあちゃんは微笑んで、こうしめた。

「それからもずっと、わたしは笑いっぱなしの人生やったわ」

 おじいちゃん、おばあちゃんも悔いはなさそうよ。


 と、そんなことを久しぶりに思い出していた。

 実家に続く道、わたしの前にはたくさんの人がいる。

 幼馴染の崇がいる。腐れ縁の京子に詩織、高峯先輩に、井野倉さんもいる。先生、料理長、師匠、そしてやっぱり家族。お父さんお母さん、美雪に聡史。なんとおばあちゃんの横にはおじいちゃんもいる。シロもちゃんといる。さらに、その後ろにも人がずらーっと並んでいる。

 彼らは西洋甲冑を着て、サ~ブレッドに乗っている。

 わたしにとっての鳩サブレ―の騎士。

 この人たちがわたしの大事なもの。私を支えるもの。そしてこれから……。

 今更だけど、おじいちゃん。鳩サブレ―だけなんて、面白すぎる。

「薫! 答えい!」

 久しぶりのおじいちゃんの声。じじい、ちょっと調子に乗ってるな。

 わたしはおおきく息を吸って吐き、彼らに向かって叫ぶ。

「わたし、フランス行きます! 料理が好きだから! ほんとに一人前になったら帰ってくるよ! だから、それまで……」

『応!』

 騎士たちのユニゾン。わたしの身体は本当にびりびりと揺れる。そして、それはわたしの中からも響いていることを知る。

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さらば、愛しの鳩サブレ― 朝飯抜太郎 @sabimura

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