二次創作の本文

 ツンとした薄荷は、いつもつれない味がした。

 まだ未成熟な小さい舌を動かせば口の中でカロ、と乾いた音が響く。先ほどまで埃の匂いが鼻をつく路地裏でコイリスト狩りをしていたせいか、わざとらしいまでの清涼感がどこか心地よかった。


 夢でいっぱいの……自分にはないきらめきを持って大会優勝を目指す無力な子ども達を蹴散らすのはあまり気分のいい仕事ではない。けれど強力な願望エネルギーを集めるためには不純物を取り除かなくてはいけないのだ。


 だって、自分は金鞠の……


「……あ」


 ポケットの中に忍ばせていた缶入りの飴玉は残弾が尽きかけている。ヴェルグは小さく舌を打つと、フードで顔を隠したまま目に付いた駄菓子屋へと足を踏み入れた。


 過去の雰囲気をそのままそっくり閉じ込めたタイムカプセルのような店内はもう夏だというのに冷房の効きが悪く、扇風機で循環する生ぬるい空気に満ちている。寝ているのか笑っているのかわからないほどささやかに口元を緩めた老婆の身には少し酷ではないだろうか。


 古ぼけた蛍光灯では店内を十分に照らしきることは叶わず、ほんのりと薄暗い明かりの下ではせっかくの駄菓子も実際よりも幾分か影をまとっていた。それでも赤を基調としたお目当てのドロップス缶はよく目を惹く。それはヴェルグの目線よりはるかに高い棚の上に鎮座していた。


(なんでまた、あんなところに)


 つま先に力を込め、精いっぱい腕を伸ばしてみる。どうにか指の先が届きそうだけれどあとほんの少しが足りなくって、ヴェルグはまだ育ち切らない身体にまた一つ舌打ちをした。


 足りない、足りない。あと少し足りない。いや、全然足りない。


 もどかしさが苛立ちとなり、もう諦めて他の店に向かおうかと指をひっこめたタイミングですらりと伸びた細い指が缶をひょいとかすめ取る。目の前を横切る鮮やかな赤色に誘われるようにそちらを見やれば、夏の空をそのまま切り抜いたかのような青い目と視線がかち合った。


「はい、これでよかった?」


 どうやら彼女が必要としていたわけではなく、彼が困っているのを見かねて代わりに取ってくれただけらしい。人懐っこさに溢れた女性の笑みは決して不快なものではないはずなのに、ヴェルグの胸は全力疾走をした後のように早鐘を打っていた。


 胸を締め付ける感覚は初めてのもので、苦しいのにそのまま没頭してしまいたいような奇妙な錯覚に襲われる。そのくせ頭は割れそうなほどにズキズキと痛みを訴えるものだから、心と体の足並みが揃わぬままただただ彼ははくはくと唇をわななかせた。


 一秒でも早くこの場を離れたくて、逸る鼓動のリズムに急かされるかのようにヴェルグはふいとそっぽを向いたかと思うとすぐさま駆け出す。けれどそのスピードも長くは続かず、ズボンから覗く華奢な足からカクンと力が抜けたかと思うとその場にゆっくりと崩れ落ちた。


 熱い。気持ちが悪い。くらくらする。


 ああ、そういえば顔を見られたくなくってずっとフードをかぶっていたっけ。それに最後にまともな食事を口にしたのも確か……

 そんなまとまりのない思考をぐるぐると巡らせながら、ヴェルグは逆らうことなく虚脱感に身を任せたのだった。




 しゃわしゃわと微かな音がぼんやりとした意識の中で淡々と響く。やけに聞き覚えがあるそれは浄水器が水を吐き出す音だろうか。かちゃかちゃと食器同士がこすれる高い音は耳馴染みがよく、促されるようにゆっくりと瞼を押し上げれば見覚えのない天井が視界に広がった。それなのにどうしてかヴェルグの喉からほっと安堵の息が漏れる。


 だるさを覚えつつも身体を起こせば首元を少しぬるい風が撫で上げる。そこで初めて彼は自分が氷枕と共にソファーに寝かされていたことに気が付いたのだった。


「あ、起きた? 大丈夫?」


 シンクに叩きつけられていた水音が止み、穏やかな声の主はパタパタとスリッパの音を立てながらこちらへと歩み寄る。先ほどの駄菓子屋で遭遇した青い目の彼女だ。肩につかないくらいで整えられたボブヘアーは照明に透けて亜麻色とブロンドがまじりあう柔らかな色合いをしている。彼女のことなんて何も知らないはずなのになぜか「よく似合っている」という感想がヴェルグの脳裏にぼんやりと浮かんだ。 


「暑かったからかな、具合悪くしちゃったみたいだね」


 勝手に連れてきてごめんね、という言葉にようやくヴェルグは今自分が置かれている状況を理解した。つまり彼女は暑さで倒れた自分を介抱するために家まで連れてきた、といったところだろうか。


「……君は? なんで助けた?」


 ヴェルグの不躾な物言いにも関わらず彼女はきょとんと一瞬目を丸くしただけで、すぐに破顔して弧を描く唇に答えを乗せた。


「私はユノ。助けた理由は……あなたがなんだか息子が小さい頃に似てたからほうっておけなかったからかなあ」

「…………そうか。その、ありがとう、ユノ」


 溌溂とした表情で何のてらいもなく笑うユノからは下心のようなものは何も感じられない。その言葉もきっと本心なのだろう。それでもなぜか……いやむしろだからこそじくじくと痛む胸を抑えながら、ヴェルグはおずおずと礼の言葉を口にした。


「どういたしまして。でも帰るのはもう少し休んでからにしようね。まだ外は暑いもの……あ、そうだ」


 彼女はレモンの彫刻のあしらわれたグラスを彼の目の前の机に置いた後、何かを思い出したかのように自身のカバンをごそごそと漁る。どこかウキウキとした様子の横顔にぼぅっと見惚れていれば、ユノの表情が不意にパッと華やいだ。


「はい、これ。買おうとしてたでしょ? さっきは驚かせちゃったからそのお詫び」


 なんて言いながら取り出したのは先ほどヴェルグが買おうとしていたキャンディ缶だ。どうやら彼がその場から離れたのを驚かせてしまったからだと勘違いしているらしい。そうではないと言うのは簡単だが、上手い言い訳も思い浮かばなかったので結局ヴェルグは素直に手を伸ばした。


「はいどうぞ」


 受け取ったスチール缶を傾ければ、軽やかな音と共に様々な色彩が小さな手の中へと転がり落ちる。その中から迷いなく白色をつまんだのを見て、ユノが「へえ」と小さく声を上げた。


「薄荷飴、好きなの?」

「べつに、好きってわけじゃない……ただ、いつも余ってるから」


 甘ったるいイチゴに陽の光を閉じ込めたいみたいなオレンジ……まだ柔らかい未成熟な手がぶちまけられた飴の中から好きなものを手に取って、そうしていつもそっけない白が取り残される。そんな光景がヴェルグが思い出せる数少ない過去の記憶の一つだった。


 彼とてその余ったものを手にしているだけで薄荷が特別好きなわけではない。それでもこの鈍い爽快感が胸に巣食う靄をいくらかマシにしてくれるようで、覚えのない懐かしさに導かれるようにいつからかおまもりのようにキャンディ缶を持ち歩くようになっていたのだった。


「そっかぁ、私は好きだよ。大好きな人がよく薄荷飴食べてたから懐かしくって……」


 ユノとは違い、ヴェルグにはその「懐かしさ」のきっかけは思い出せない。否、思い出すための記憶が存在しないといった方が正しいだろうか。


 普段ならば当たり前のそれが今日はどうにも胸につっかえて、苦い塊を押し流すように目の前のグラスを傾ければレモンの香りが口の中でふわりと香った。


「……美味しい」

「ふふ、お口に合った? レモン水を飲む時はこのグラスって決まってるんだ」


 思わず口から零れ落ちたヴェルグの呟きにユノが誇らしげに口の端を吊り上げる。隣でレモン水を楽しむ彼女のグラスにはヴェルグが手にしているのと同じくレモンの装飾が施されていた。


 自分が手にしているものとおそろいの……おそらくペアグラスをソファに並んで使っている事実になんだか胸が締め付けられるような感覚に襲われる。


 胸が苦しくて、なんだかドキドキして、逃げ出したいのにもっと見ていたいような気がして……


 また身体の中の熱がぶり返してきたのか、熱くなった頬を冷ますみたいにレモン水を勢いよく飲み込む。さっきよりもなんだかちょっぴり甘いような気がして、ますます落ち着きを無くしたヴェルグは地につかない足をゆらゆらと遊ばせた。


「…………うん、美味い。コップもキレイだ」


 こそばゆい何かが胸をいっぱいにしてしまいそうで慌てて追い出すように感想を口にすれば、ユノはますます嬉しそうにまなじりを緩ませる。

 その顔を見ているだけできゅぅっと胸が甘くときめいて、慌ててヴェルグは顔を俯かせる。そうしないとだらしなく緩んでりんご色に染まった頬を見られてしまいそうだったからだ。


「ありがとう、私も大好きなの……ね、良かったらまた飲みにおいでよ。このグラスもずいぶん使ってなかったから、たまには使ってあげないといけないし」

「え? ……けど、来たら迷惑じゃないか? おれは君にとって知らない人間だ」


 ユノのその言葉にパッとヴェルグは勢いよく顔を上げる。そうすれば透き通ったソーダのような、甘くて懐かしい色の瞳と視線がかち合った。その柔らかさに誘われるようにぽつぽつとヴェルグの口から弱音が溢れる。

 そんな彼の小さな手をそっと柔らかな手が包み込んだ。あたたかな温度がじんわりと伝わって胸の内を緩めてゆく。


「そうなの? じゃあ、」


 ユノがヴェルグの瞳をまっすぐに射抜く。そして愛する人の面影をわずかに残した、けれど全くの別人である見知らぬ少年に対して親愛をたっぷり乗せて微笑みかけたのだった。

「私と友だちになりましょう?」


 ああ、きれいだ。

 きれいで、すきだ。


 そんな想いがヴェルグの胸の中でパッと弾ける。こんな気持ち初めてで、どんな言葉を返したらいいかなんてちっとも分からなくて……それでも精一杯の勇気を振り絞ってこくりと頷けば、くすりと小さな笑みが上から降ってくる。


 気恥ずかしいのに、顔が熱くてもう逃げ出してしまいたいのに、それでも耳をくすぐる声の甘い響きが惜しくって……レモン水が解けた氷ですっかり薄まるまでヴェルグははじめての友人とぽつぽつと言葉を交わし続けたのだった。




 結局ヴェルグがユノの家を後にしたのは日が傾き始めて肌を刺すような日差しが弱まり始めた頃だった。「気をつけて帰ってね」と見送る彼女に遠慮がちに手を振りかえした後、スタッカートを奏でるような足取りでヴェルグは帰路を急ぐ。


 なんだか夢を見ているかのようだった。ヴェルグには過去の記憶というものがない。思い出せるのは断片的な朧げなものばかりで、自分が何者なのかどうして今ここにいるのかもわからない手探りの日々。


 だから自身に存在意義を与えてくれた金鞠には感謝しているし、影ながら味方として彼の力になりたいという気持ちは今でも変わらない。けど……


「………友人が出来たって金鞠に伝えたらなんて言うかな」


 抑えきれない期待が声に滲んでヴェルグは慌てて自身のまろい頬をぺちんと叩く。少しでも気持ちをスッキリさせたくて口に含んだ薄荷飴もどこかまろやかな味わいで胸をぬるませる温もりを醒ますことなんて出来やしなかった。


 こんなもの都合のいい妄想に決まってる。けどもし彼が自分に友人が出来たことを喜んでくれたら、その時は……


「今戻った………………金鞠? いないのか?」


 はやる気持ちに急かされるように執務室の重いドアを開ければ、床を舐める夕日がぶわりと視界に広がる。普段ならとっくにカーテンを閉めて灯りをつけているはずだ。燃えるような赤が白を基調とした部屋いっぱいに広がっているのに眉をひそめながら、ヴェルグは少し背伸びをして部屋の明かりへと手を伸ばした。


 パチン、という軽やかな音とともに明かりが灯れば部屋の様子が明らかになる。金鞠はと言えば、普段彼がデスクワークをこなしている椅子から雪崩れ落ちるような体勢で床に倒れていた。


「ッ……金鞠!」


 彼の血の気を失った白い頬に射す夕日に嫌な想像を掻き立てられて、ヴェルグは弾かれたように彼の元に駆け寄る。急激に熱を失って震える指先に力を込めて彼の手のひらを掴んだ。


「どうした? しっかりしろ!」


 食事を取ろうとしていたのだろう、皿ごと床に溢れた粥を踏めばぐにゅりと嫌な感覚が足の裏へと伝わる。靴裏にこびりついていた砂利が白に混ざってまだらな灰色を描いた。

 地に叩きつけられて元の形を失った皿の破片にも構わず膝をついて彼を抱き起こせば、けぶるまつ毛の生え揃った瞼がわずかにぴくりと収縮する。そのかすかな反応に縋るように、ヴェルグは半狂乱で彼の名前を呼び続けた。


「金鞠……! 金鞠アロウ!」


 祈るように握りしめた手は骨張っていて成人男性にしては頼りない……寝食を忘れるほどに自身の仕事と「野望」の為に心血を注いで来たからだ。そんな彼だからヴェルグは自身のなけなしの「全て」を捧げ、支えるように生きてきた。道を進む彼の前に立ち、障害を切り捨てるように生きてきた。


 だからもう、彼がいなければ自分はどこに進めばいいのかわからないのだ。


「…………頼む、目を開けてくれ……!」


 魂を削るようにして絞り出された声に再び金鞠の瞼がふるりと震える。声に導かれるように開けた青葉の瞳にじわじわと驚愕の色が滲んだ。


「シュ……ウ…………?」


 そのまま乾いた唇は懐かしい名前を呼びかけて、けれど最後まで口にすることはない。

 表情を見ればわかることだ。どんなに出会った頃の姿をしていたとしても彼は「彼」ではない。


 少しずつクリアになっていく頭でその結論にたどり着いた金鞠は言うことを聞かない身体にどうにか力を込める。自身に縋るように握られていたヴェルグの手からそっと震える手のひらを抜き取った。


「すまなかった。少し根を詰めすぎたみたいだね」


 ほ、とヴェルグの口からため息がこぼれる。けれどすぐに「目覚めてくれた」という安堵は「もう目覚めないかもしれない」という不安に塗りつぶされていった。


 そうだ、今回はたまたま大丈夫だった。けど。次はもうダメかもしれない。こんな無茶をさせてコイツの身に何かあったら……


 唇を噛み締めて押し黙るヴェルグに思うところがあったのだろう。金鞠は不安げに瞳を揺らす少年の頭を宥めるように撫でた後、ひどく柔らかい口ぶりで慰めの言葉を口にしたのだった。


「大丈夫だ。私は必ず君の記憶を……居場所を必ず取り戻す。君だけはひとりぼっちにしないさ」


 なんて残酷な慰めだろう、とヴェルグは内心で独り言ちる。柔らかな言葉が緩やかに首を締めていくようで、いっそ一思いに息絶えてしまいたいほどだった。

 だってそれは「ヴェルグの居場所はここではない」と言われているようなものじゃないか。


 数十分前に口にした酸っぱさがヴェルグの胸の内に甦る。あんなにたっぷり潤したはずなのにそれでもカラカラに乾いた喉では言葉を紡ぐことも叶わなかった。


 おれがいるのにお前はひとりぼっちなのか?

 お前にとって「おれ」は何なんだ?

 おれだって、お前に────


「心配をかけてすまなかった、ヴェルグ……ヴェルグ?」


 立ち上がった金鞠の佇まいはスーツの量で誤魔化してはいるものの、どこもかしこも線が細くハリボテだらけの身体はもう限界が近い。


 それでも彼は亡くした恋人の幸福の為に……そして記憶を無くす前の「彼」の為に孤独に闇を進み続けているのだ。それならば……


「どうした?」


 言葉を舌の上で転がすヴェルグの姿に違和感を覚えたのか、金鞠は眉を顰めると目の前の少年に目線を合わせるように腰をかがめる。だからヴェルグは目の前の青年の少し痩けた頬にまっすぐに手を伸ばすと、まだやわい手で撫ぜたのだった。


「気にするな。おれはお前の雷霆なんだから、好きに使え」


 ヴェルグが「初めて」金鞠に出会った時、彼は少年に「君はただその雷霆を振るうことだけ考えればいい」とだけ伝えた。その時からずっとヴェルグは金鞠にとっての武器でしかなかったのだ。だからこれはその時の意趣返し。


「……ああ、そうだね」


 言葉が鏃のように彼の胸を貫いたのが見えた。眉間に寄せた深い皺の数だけほんの僅かに胸がすいて、だけどそれ以上に苦い「何か」がどろりとヴェルグの心を満たしてゆく。


「悪かった、ヴェルグ。君の力を借りるよ」


 擦り傷だらけのエメラルドの瞳はそれでもなお輝きを失わず、強い意志によってまたその光を増してゆく。その目にもう迷いは無く、あとはもう邪道を突き進むのみ。


 たとえ何を犠牲にしてでも、必ず自らの愛する人々を取り戻すために。


 金鞠の冷たい決意を目にしたヴェルグの胸の熱ももうすっかり冷え切ってしまっていた。

 そうだ。おれは元の「おれ」とは違う。友人も家族もいない取り残された存在だ。

 誰にも選ばれない薄荷飴と同じ。だけどな、金鞠。


「…………任せろ。お前の為ならなんだってしてやるさ」


 本当はおれだって、お前と友だちになってみたかった。

 お前がいいんだって、選ばれてみたかった。

 そんな願いごと薄荷飴を噛み砕き、ヴェルグはぎこちない笑みを作ったのだった。








 その時から、ヴェルグはずっと諦めていた。

 金鞠との関係も、新たな居場所を作ることも、記憶を持たない空っぽの自分にはふさわしくないと考えていたのだ。だけど、


「オレは明日を諦めない! たとえどんな明日を迎えても、最後まで前を向き続けるんだ!」


 少年のまっすぐな言葉が胸を貫いた。

 金鞠の過去の真実を知り、錯乱状態の彼を止めるべく前に進み出たルートの背中の頼もしさにヴェルグはハッと息を詰める。わずかな記憶の片隅に残る彼はあんなにも幼く小さかったのに、いつの間にこんなにも強くなったのだろう。


「ヴェルグ……いや、父さん。父さんはどうしたいんだよ?」


 振りむいたルートの瞳に映る自分は度重なるバトルでボロボロだ。それでもヴェルグは力をふり絞って崩れ落ちそうな足に力を込める。だって、息子の前でカッコ悪いところは見せられないのだから。


「金鞠、おれは……お前を止める!」


 迷いの滲んでいたヴェルグの瞳に強い勇気の炎が燃える。ルートとうり二つのルビーレッドの鋭いまなざしに射抜かれて、金鞠が悲鳴のような制止の声を上げた。


「もういい、ヴェルグ! 君はもう私の仲間じゃないんだ。放っておいてくれ!」


 金鞠の悲願であった時戻しは彼の精神の暴走により不完全に終わり、暴走状態となった今これ以上関わればヴェルグやルートの命まで危ないだろう。


 金鞠がやってきたことは全て無駄になった。友から家族との絆を奪い、若き少年少女の夢と未来への希望を奪った。そんな自分が救われるなんてことあっていいはずがないのだ、という深い慟哭に溢れた拒絶の言葉が激しい痛みと共にヴェルグの胸を貫く。


「ああ、たしかにおれはもうお前の仲間じゃない……!」


 金鞠の言う通り、彼の野望を阻止するために立ち上がるのならばもう彼の仲間ではないのだろう。


 ヴェルグはダグダの大釜コールドゥロンによって生み出された、全身全霊を込めた一矢を金鞠の釜へと向けた。

 これは自身の生命力すべてを込めた最期の一撃。時戻しの釜・クロノスに当たれば金鞠の野望を打ち砕き、世界を救うことが出来るがヴェルグの命の保証はできないだろう。


 それでもヴェルグはその矢にすべてを込めた。ヴェルグはもう金鞠の仲間ではない。けれど敵というわけでもない。

 ただただ彼のために彼の暴走を止めるのだ。だって、自分は……


「おれはお前の友だちだ!」


 未来の為、息子の為、そして友の為にヴェルグは弓をつがえる。戦いでくたびれた体は今にも崩れ落ちそうだが、後ろから重ねられたルートのあたたかい掌が彼の一矢を支えてくれる。


「……ありがとう、ルート。強くなったな」


 そして最後の雷霆は、真っすぐにクロノスを打ち砕いたのだった。


 星が爆ぜるような轟音を上げながらクロノスが砕ける。中に込められていたエネルギーが弾け、流れ星のように空を駆け抜けていった。これで今まで奪われ閉じ込められていた少年少女たちの夢は彼らの元に戻ってゆくのだろう。


 願いの残滓が世界を照らす中、ルートに支えられていたヴェルグの身体ががくんと崩れ落ちる。活動限界を迎えたのだろう。元から無理を重ねてきた上に、たった今全ての生命力を注ぎ込んだ一矢を放ったのだ。

 結果として今、一人の少年が眠りにつこうとしていた。


「……ヴェルグ!」


 長年の野望を失い茫然としていた金鞠だったが、彼の終わりが近いことを察したのだろう。彼とてもう動くことすら叶わないはずなのに、精神力だけで無理くりに足を動かしてルートとヴェルグの元へと駆け寄る。

 全ての力を使い果たしたヴェルグは息子の腕の中で彼との最後の言葉を交わしていたが、金鞠の姿を認めると力なく眉を下げた。


「悪かった、金鞠。おれは結局……」

「違う! 謝るのは私の方だ。君を受け入れたらもうシュウヤが帰ってこないような気がして……!」


 もう力の籠らないやわい手のひらに熱を与えるように金鞠はぎゅうと力強く握る。生命力の感じられるあたたかさにヴェルグは内心でそっと安堵の息を吐いた。

 大丈夫、金鞠はきっとこれからも生きていける。自分がいなくても……


「君だってずっと、私の大事な友達だったのに……!」

「……おれが、おまえの?」


 ヴェルグのいたいけなかんばせに驚愕の色が滲む。金鞠はずっと自らを律して表に出さないようにしていたのだから無理もないだろう。

 友人であるシュウヤの身体を持ちながら異なる人格を持つヴェルグに最初は戸惑ってばかりだった。しかしいつからか金鞠は彼個人に親しみを覚え、頼りにするようになっていったのだ。


「だが君を友人だと思ってしまえば、その先に待っているのは別離だけだ。もう私はこれ以上友を失うような思いをしたくはなかった」


 ヴェルグに親愛の情を抱けば抱くほどに、シュウヤの人格を取り戻すことへの躊躇いが金鞠の中に生まれていった。

 シュウヤを取り戻せば、ヴェルグが消えてしまう。元からそのつもりだったのに、今更になって彼は葛藤の苦しみに苛まれることになったのだった。


「私は弱い人間だ。君がいつかいなくなって苦しむくらいならいっそ、と……!」


 ヴェルグと仲を深めれば深めるほど、いつかシュウヤとしての記憶を取り戻した時にお互いが傷つくことが怖かった。何より「記憶が戻らなくてもいいかもしれない」という意識が研究の妨げになることを避けるために、金鞠はヴェルグを認めるわけにはいかなかったのだった。


「ばかだな、おれもおまえも……」


 金鞠の思惑に気づいたヴェルグは不意にやわらかな笑みをこぼす。それは心からの安堵に満ちた、彼にとって初めての笑みだった。泣きそうな顔でこちらを見つめる金鞠の顔にはなんとなく見覚えがあって、ヴェルグは少しずつ「自身」の記憶が戻りかけているのを感じ取る。それは同時にヴェルグの人格の死を意味していた。


「友だちだって、いつかはかならず別れが来る。けんか別れかもしれないし、大好きでも離れ離れになってしまうこともある」


 ずっと一緒になんていられないし、明日お互い笑顔でいられる保証なんてどこにもない。当たり前だったはずの日常は些細なことで簡単に崩れてしまう。


「だけど、一緒にいた時間は……その時感じた幸せは絶対になくならないんだ」


 たとえどんなにつらい未来が待っていても、心からの友情があればその時の想い出は決して嘘にはならない。どんなに辛い運命が待ち受けていたとしても、想い出があれば生きていける。


 ヴェルグの舌の上で薄荷飴の爽やかな甘みが蘇る。それは大事な息子との思い出の味であり、記憶をなくしても惹かれ合った彼女との絆の味だった。これがあったから、自分は生きていけたのだ。


だからヴェルグは精いっぱいの笑みと共に、明日への希望を込めて震える舌で言葉を紡いだのだった。


「さよなら、金鞠……大好きだ」

「ああ、ヴェルグ。私も君が大好きだ……また会おう」


 その言葉を聞き終えると同時に、少年の腕からするりと力が抜ける。だらんと垂れ下がる指を包み込むルートの手に、ぴくりと僅かな反応が返った。

 ハッとして息を飲む少年の視界にぼんやりと瞼を押し上げる少年の姿が映り込む。ぽかんと呆けていた彼は不意にぱちぱちと不可思議そうに瞬きを繰り返した。


「……僕は一体? …………ルート? どうしてそんなに怪我をして……わっ!」

「ッ……! 父さん!」


 少年の姿ではあるもののぼろぼろのルートに対し慈愛の表情を向ける「彼」は間違いなく記憶を取り戻したシュウヤその人に他ならない。彼は戸惑いつつも抱きついてきた息子と背を支える友人に対し、曇りのない笑顔を浮かべたのだった。


「ただいま、ルート。……おかえり、アロウ」

「おかえり、父さん!」

「…………今戻ったよ、シュウヤ」


 出会いと別れ、そして再会を繰り返して人生は続いていく。

 透き通った風が彼らの未来を祝福するように頬を撫でていった。


 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

薄荷飴の香りに寄せて 折原ひつじ @sanonotigami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ