緑色ブレザー六道乙女
秋島歪理
緑色ブレザー六道乙女
在来線のホームに人影は無かった。
うだるように暑い。
神経を搔きむしるセミの声。
鉄枠に白い粉を吹いたフェンスの向こうで、バジルの濃緑が少し揺れる。
首筋の汗に張りつく襟がうざくて、軽く首を振った。
「蓮華の……」
と、ナツがなにか言った。
余程ぼーっとしてたらしい。
「すまない、何つった?」
問い返す僕に、彼女は微笑んだ。
冷える前のガラス細工のような、固く柔らかい微笑み。
「聞いたとおりだよ、聞こえたでしょ」
「少し」
「蓮華の……種なる、宝珠」
そう言って、急に満面に近い笑みをよこした。
さっきの、言葉の続きなのだろう。
ナツの中で、閃きと確信は同時にやってくる。
僕は毎度それを理解するのに、彼女自身の言葉と行動から察するしかない。
結局黙って観察するのが一番早い。
仔犬みたいなもので、もう慣れてしまった。
なので次の言葉を待っていると、
「だから、もう会えないね」
と彼女は言った。
僕は驚きながらほとんどあきれた。
「はあ? 俺とキミのハナシか? そんな事ない。引っ越しつったって2駅先だろ。いつでも会える」
この脈絡の無さにもたいがい慣れてるわけだが、もう会えないは穏やかじゃない。
銀色の車両がホームへ入ってくるのが見える。
(またね)
そう唇で言い、彼女はボストンバックを掴むと軽やかに車両へ乗り込んだ。
キスもハグもなし。
ガラス越しの彼女を見ながら、狐に化かされてる気持ちで僕は立ちつくした。
やがて無駄に甲高いベルが鳴り響き、車両はゆっくりと速度を上げる。
もう会えない?
白昼夢を包み乗せた列車は、視界の外へ滑り、やがて消えた。
あっけないものだ。
02.
もう会えない。
あの彼女の言葉が、なんかの自然法則のようにおっそろしく正確であったことが、しばらくして僕にも分かった。
2駅という距離は、急ぐにも焦るにも近すぎた。
だが、たいした理由もなく辿る道としては遠すぎた。
彼女に会いたければ、それは簡単な事だ。
電話をして駅へ行く。
切符を買う。
列車に少し揺られた後、タクシーを止めればいい。
僕と彼女が、いわゆる恋人という関係であったならば、と僕は考える。
そうであったならば僕達は昼夜互いを求め、その距離を往き帰りしただろうか?
しかしそうではなかった。
かつて僕達の間には確かに愛情と信頼があったし、互いの体を貪る一時に、歓喜があった。
それでも、だ。
僕等は偶然に交わった線にすぎず、どちらかが曲がることも折れることもなかった。
あの共振を言葉にする事はとても難しい。
同じ音の鍵盤を叩いてもハモらず、いつもオクターブが違う。
僕らはとても近く隣り合って張られ、決して互いを振るわさない弦だ。
列強は急速に緊張と諜報の糸を張り巡らせていた。
彼女は町の軍需開発所に就職するらしい、と風の噂に聞いた。
オフィスで制服を着、真面目くさっている彼女の姿を想像することは、宇宙の外側を想像するより難しかった。
ふとそれに成功した夜、ベッドで一人ゲラゲラ笑い転げた。
そして卒業後、僕はかねてからの希望通り、軍の士官学校へ進んだ。
世論に乗せられた、という方が正確かもしれない。
僕はタバコを覚え、酒を覚え、ポーカーを覚えた。
よく知らない女の味をたくさん覚えた。
覚えながら軍隊という特殊な世界に沈んで言った。
グラスをキメて安いネオン通りで、下卑たジョークに爆笑した。
近づいてくる戦争の足跡に、酔っていたかった。
03.
滑走路の脇に寝転んで煙草に火をつける。
明日俺は、後継ぎになれなかった肉屋と靴屋と農家のせがれを部下に連れ、敵国の国境線へ飛ぶのだ。
帰りの座席の予約はとれなかった。そもそも便がない。
あまり寝転んでっと、マズイかな。
最近の憲兵はうるさいし、背中が汚れる。
いや、何を考えてんだろうか。明日死ぬかも知れねえのに。
3本目の灰がどんどん伸びていく。
今日のこの空は、まるであの駅の太陽だな。
郷愁か。会いたいのか、俺はあいつに。
小指ほどの長さの灰を残して、煙草は消えようとしていた。
忘我の瞬間。
「蓮華の、種なる……宝珠」
なにかが口にでていた。
なぜか溢れそうになる涙を押し込んで立ち上がる。
どうもしばらく弛緩しきって、呆けた顔をしていたらしい。
やれやれ。
士官たるものがこれでは。
「感傷に浸ってる場合じゃない、と思ってる」
背後から投げかけられた柔らかな声に僕は息を呑み、振り返る。
記憶の中そのままのナツが夕日を背にして、くすくす笑っていた。
もっとも服装だけはパンツに白いカッターだが。
「やっと答えてくれたね」
「……なにを」
僕はそう呟くのが精一杯だった。
喉が、スカスカに乾いている。
「そう。あの日あたしが唱えた、託しの言葉。私はきみにヒモをつけた。知らない女性とやたら寝ていた時は、ちょっとショックだったけど」
悪戯っぽく笑う。
「言い訳はある?」
なぜそれを、と言いかけて、やめた。
数歩にじり寄ってきた彼女の肩を引き寄せて、香りを胸一杯に吸い込む。
小さなキス。舌に残るかすかなバジルの苦み。
いつも不思議だった。
「きみは、やっぱり、とても、いいね」
僕は答えなかった。彼女のおくれ毛の香りに、平衡を失いそうになる。
なんとか小指で彼女の耳の裏へ触れた。
昔、悦ばれた愛撫だ。
「きみはやっぱり、いいよ」
こいつは天女だろうか、阿修羅だろうか、菩薩だろうか。
もういい。
永劫が今、始まった。
僕はナツと繋がっていて、また互いに繋ぎなおしたのだ。
明日か。明後日か。
その蓮が咲くとき、僕は死ぬのだろう。
そして種に宿り、水にもぐり、泥土の中で僕らは出会うのだろう。
夏の太陽のはるか下、伸びる水根の中で、彼女がまた、僕を繋ぎなおしてくれるのだろう。
緑色ブレザー六道乙女 秋島歪理 @firetheft
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