エクシドラ

@suirei_bondo

第1話 現罪 その1

「……は何だ? 水鐘。」

突然の呼びかけで落ちかけていた意識が無理やり戻された。何を言ってたかは全く聞いていなかった。が、とりあえず返事をしておく。

「ぁい?」

喉はまだ起きていなかったらしい。仲のいい友達に助けを求めて目線を送る。窓際の真壁は、ぐっすり寝てる。黒板の前の美司は、状況を楽しんでいるのか笑みを浮かべている。後ろの雨時雨は論外だしあとは吉崎と車田は、首と手を小さく振っている。もう一度美司を見ると少し腹の立つ顔で黒板を指差した。急いでその先に目線を移すと下線で強調された単語が書いてある。これが何かを聞いていたんだな。よし助かったとそのまま先生に返答する。

「主要県です!」

「何言ってんだ。俺は最初に再置県されたところはどこだって聞いたんだ。」

「えっ。」

教室中でかすれた笑い声が漏れ聞こえる。騙しやがったな。美司を見るとうつ伏せで震えていた。騙されたことと思い通りに動いてしまったことで頭に熱が昇っていく。が、まずはこの簡単な問題をさっさと解決しなければ。

「丹潟! 丹潟です。」

「そうだ。自分の住んでる所ぐらいすぐに答えてくれ。」

寝てたんだからしょうがないだろ。あえて自分が原因であることを棚に上げてあえて心の中で反抗する。ま、もう答えたんだから大丈夫だろうと安堵していると

「じゃあついでに、主要県5つは何だ?」

まじか。追加の質問がやって来た。余計なことを思いついた正田先生わずかに苛立ちを覚える。この国の各都道府県の名称が変わり、再置県された。その際に国にとって重要な設備のある県4つとここ丹潟が政府の要として主要県と制定され、いろいろと優遇されているらしい。学校ではもはや当たり前同然で教わる基礎的な内容だ。これがわからない奴はそうそういない。

「…丹潟。」

「おう。」

「…………」

「……? 他は?」

「ふく…や。」

何人か失笑する。

「確かに、福に谷と書くがこれは“ふくこく”と読むんだ。」

え、福谷ってそう読むの!? 自分の中で疑いもしなかったことが間違いと指摘され軽く混乱した。だから社会系は嫌いなんだ。世の中の全てが理科や数学、一応国語で出来てたら楽なんだけど。しびれを切らしたのか先生が声をかけた。

「あと3つあるぞ。」

「えー…、百井、湧島。」

「おう。あと1つ。」

朧げな記憶から何とか引っ張りだしてきたがあと1個が出てこない。物凄く近くまで来ているのに微塵も現れる気配がない。出てこい出てこい出てこい出てこい出てきてくれ頼む。

「最後はかなり分かりやすいぞ。他の奴なら最初に思いつくかもな。」

助け舟だ! 何だかんだ優しいんだから正田先生は。もう分りませんとは言えないな。靄がかった脳みそを遮二無二動かす。海…。海が入ってた。海?海海うみ…。あ!!

「北海道!」

難産だった。でも何とかなった~よかったぁ。やりきった達成感とやっと終わった解放感とで気が抜けて椅子の背もたれに背中を預け、2本脚でフラフラ揺れようとすると

「おいおい。」

後ろの席にいる雨時雨が少し焦ったような声色で声をかける。あれ間違えたか?と振り向こうとした時に他の友達のやっちまったなと今にも聞こえそうな顔が視界に入り、そこで全員が俺を見ていることに気が付いた。バカを見たくて俺を見ているのかと思った。だが他の皆の目は冗談には見えない鬼気迫る侮蔑の感情がはっきりと表されている。自分のやった間違いが軽いものではなかったと状況から理解し、全身の血から熱が奪われたと錯覚する。先生が大きなため息の後に普段からは想像もできないような硬い口調でその理由を告げた。

「北“海道”じゃなくて北“関県”だ。こんな常識を間違えるな。」

「すいません。」

「ヒソヒソ…」「これ間違えるかフツー?」「何なんだアイツ」「どういう頭してんの?」「ヒソヒソ…」

バァンッ!!!

先生が教卓を叩く。皆の騒ぎ声が一斉に止まり、教室が沈黙に包まれる。周りがこの状況に戸惑っていると、先生が口を開いた。

「ハァ…。北海道は旧名だ。田之中家角が全国の都道府県を再置県する前の名前を使うのは家角様の功績に泥を塗るも同然の行いだということを自覚しなさい。」

「はい…すいませんでした。」

知るかよ。既に死んだ人にどんだけ執念持ってんだ。侮辱したいから間違えたわけじゃない、第一間違えたくて間違えるわけないだろ。想像力の足りない奴らが。少し不貞腐れていると、背中から

「災難だったな。」

雨時雨が声をかけてきた。こいつや他の友達はあまり気にしていない様子だ。むしろ同情するような眼差しを向けている。

「くそくらえだな。1つの間違いでこれだから。」

雨時雨はハハと苦笑した。完全にやる気が削がれたせいか、授業の内容が頭の中を通っては消えて通っては消えていく。

「主要県はただ何となく選ばれたわけじゃなく、それぞれ国の運営の重要な設備や役割を持ってるから、そこを各地帯の代表としてその地帯の管理も任されてる。だから主要県とは、国の運営、政治の重要拠点であり、さらに地帯の管理、運営を任された代表県であるわけだ。」

あー…? 言葉の理解を脳が諦めている。やっと学校が終わるわー。そういえば車田が変なの見つけたって言ってたっけ。

「教科書の38ページに書いてあるが例えば、貨幣製造ができるのは百井にある造幣局だけだ。だから今使ってる1円から…玉や1000円から10000円札は全部百井から生まれてる。____ぃなみに造幣局が百井にしかない理由は資料集の、…結局金が作れる工業遺物がここだけだからってだけだな色々書いてあるが。」

あーだめだ。全然興味がわかねぇや。言ってること分かるけど分かんねえ~。

「___…は馬車や船の製造や、特に道路の整備を主軸に交通の管理を担当している。だから、そうだなじゃあ…柳瀬、____は? …おしいな。”国土”交通局が正解だ。実は昔は____ 」

今度は柳瀬か。あいつ宿題もやってなけりゃ授業も聞いてなかったな。この問題載ってたし教科書にも書いてあるだろ。しっかしマジで眠いな…。

「で、…は料理とか、…が有名で____。……………県はなぜ……でかい…………しかし………試される大地というだけある____ 」

あ~…意識が遠のいていくー……………____________________。


________「………では、今日の内容は以上だ。宿題は後で掲示板に貼っておくから忘れずに確認しとけよ。」

ガラガラ、ギィーと金属が嘶く音で無理やり覚醒させられた。思考に不愉快な乱れが残ったままだったので目だけ動かして周りを見る。喧しくおしゃべりをしている連中に、教科書を鞄にしまっている人、この後何をするか話してる友達…。人数の減った教室だが、さっきよりも騒がしく、それぞれが集まりを作って楽しそうに喋っている。時刻を確認するべく時計を見ると、午後の3時、3刻を指していた。なるほど。授業が終わったことを理解した時ちょうど、会話中の奴と目が合った。

「おはよ~。よく寝れた?」

美司が話かけてきた。口元にかわいい悪意がにじんだ笑みを浮かべている。。俺は立ち上がり、話しかける。

「肩痛えや。子守歌が微妙だったし。」

「ハハハハハ!!! ひっどい言い草じゃねーかよ。つーかその前の間違いもヤベェしさぁ、っハハハ…。」

笑い出した真壁についイラっときた。主に後者の発言で。なので、ちょっと意趣返しをしてみよう。

「うるせーよ“ぬりかべ”」

「おい!! 誰がバケモンだテメぇ!!!」

真壁が大声をあげた。効果は抜群だなこりゃ。“ぬりかべ”は名字などから由来したあだ名で、真壁はこれで呼ばれるのを嫌っている。

「うるさっ。耳元で叫ぶなよ。」

「あれはヤッベぇよな。教室の空気一瞬で凍ったし。」

「水鐘ほんと社会ダメだな。」

「俺は逆に楽だわ社会。数学とかのほうがきついわ~」

真壁の咆哮を呼び水に皆が思い思いに駄弁り始めた。

「つーか真壁寝てたのに何で知ってんの?」

俺は今気づいた疑問を真壁に聞いた。

「あ? ああ。皆がお前のほう見てたときにちょうど起きたんだよ。空気明らかに悪かったから寝辛くてそのまま起きてたらペラ浦が説教してたからそれで察した。」

あー真壁、佐部浦先生嫌いだったな。ペラ浦は佐部浦先生のあだ名だ。初授業の自己紹介時に先生が自分の名前を噛んで“サペゥラ”なんて言っちまったのが運のツキだった。先生も先生で、全く訂正しないでそのまま授業始めたし。授業は普通なんだが、それ以外はテッッキトーだし。

「凍った瞬間に起きてたもんな。真壁めちゃくちゃ焦ってたの面白かったぜ。」

「焦るだろあれは。何かあったのかと思ったわ。」

「何かはあったよ。」

吉崎がさっきの話を蒸し返す。

「あれは俺が悪いわけじゃないだろ。」

「そうだけど、間違えねーぜ、普通。一般常識の範囲内だし、家角がやったことだしさ? 俺なんて母ちゃんと婆ちゃんが毎度毎度イエツノ様イエツノ様拝み倒してるから覚えちゃったよ“家角様の偉業一覧”。」

家角、田之中家角はこの国が滅びかけた時、様々な政策を打ち立てて国の再興に貢献した…らしい。正直歴史や社会といった分野に興味がないのであまり詳しくない。あと家角は丹潟になる前のここに住んでいたことぐらい。だからある意味丹潟の偉人として尊敬というか崇拝されている。皆が皆ってわけじゃないけど、学校に通ってる人たちは殆ど崇拝寄りかな。

「ただでさえ、ここはイエツノ信者多いんだからさ、気を付けないと。」

「狂信だろあそこまでいくと。」

「バカ‼ 思っても言うなそんなこと!」

車田が焦って大声を上げる。他の皆がすぐに周りを確認した。家角に心酔してるやつらはもうその場にはいなかったが、まだ残っていた人たちが危ない人を見る目でこちらを見ていた。あ、すごい勢いで帰ってった。

「よく言えるな、ここで。家角はもはや偉人の枠じゃ収まらないのに。」

「防人の教えだろ?ためになる話がないわけじゃないけどあいつらが好きなのはそれ以外…」

? 声が出ない。思い当たる原因に抗議の目線を向ける。

「いい加減にしなよ。そこから先を言ったらもうただじゃ済まないでしょ。」

美司が強張った顔で俺を指差し、咎めた。いい返そうにも声が出ないので俺は身振り手振りで抗議の意思を伝えようとした。如何に自分の主張が正当で丹潟、いやこの国に必要かを伝えるために大きく手を掲げ立ち上がろうと勢いよく椅子から立ち上がった、正確には立ち上がろうとした。しかし実際に起きたことは、腰を上げ机に手を置き“今にも立ち上がるぞ”といった姿勢のまま“固まって”しまい、イスがガタンと揺れるだけだった。その原因を排除するべく首を動かそうとするも、まるで首は元から動かないものだといわんばかりに微動だにしない。なので抗議の意志が宿った眼光を真壁に鋭く差し向ける。

「落ち着けって。ここで暴れたって何もなんないだろ。」

目が合った瞬間わずかに体を震わせたが、まっすぐに真壁が答える。

「そうそう。さっさとどこ集まるか決めちゃお。」

「吉崎の山は?」

「ごめん今は爺ちゃんが儀式してて。」

「あそっか、じゃあ…」

「川いかね?」

「いいね。車田ん家のとこが楽そう?」

「おー。大丈夫。今日は特に用事はないはず。」

「オッケー。それじゃ4刻に車田の家で。」

「あいよー。」

「りょうかーい。」

「それじゃ水鐘も。4刻な。遅れんなよ!」

俺が動けるようになったのは皆が教室から出ていって暫くしてからだった。悪態をつきつつも時間もあまりないので急いで荷物をまとめ、階段を滑るように駆け下り、走りながら校門を後にした。

…途中で宿題を出されたことを思い出し、掲示板へ駆け戻るが。


────────────────────────────────────────


水鐘が急いで学校を出たときと同刻、別所にて。2人の男が話をしていた。

「へぇー旅商人ですか? お一人で? 珍しいですねぇ。」

驚きや好奇心を強調した声色だが、猜疑心を隠してもいない。

「ええ。能力に恵まれまして。旅をしながら商いもしているんです。」

「そうなんですね。それにしてもお一人で商売をなさるとは…。何を扱っているんです?」

「お客様の望むものをご用意いたしますよ。少しお値段が張りますが。」

彼は一商人にしては尊大な物言いに感嘆し、興味の目の色が強くなる。しかし商人の今の発言と身なりに食い違いがあることに気づき、疑問の表情で尋ねた。

「素晴らしい自信ですが、なんでも用意できるといった割にはずいぶんと身軽なんですね。」

なんでもとは言ってないはずだが、そう思いつつ商人と呼ばれ続けている男はさっさと目の前の村人の疑念を晴らそうと行動に移した。

「ええ。商品は全てこちらに保管していますので。」

自信に裏打ちされた発言と同時に男の背後の森林が揺れる。揺れは水面に広がる波紋のように波打つ。中央の波が激しく揺れ動き、景色が激しく歪んだかと思う数舜に波は静かな凪へと変わる。だが、凪となった景色には先程まで見ていた森林はなく、薄暗い洞窟を思わせるような倉庫が映っている。空間に取り付けた丸窓のような景色は、今あった景色の波を飲み込むように広がり、天窓ほどの大きさで止まった。

村人は少し面食らったような面持ちで目の前の光景を見守っている。

(思ったより驚かないな…なら)

男は天窓が写した景色の中に腕を入れる。適当に天窓の倉庫をまさぐった後で、これまた適当な荷物をつかみ上げ自らの下へ腕を戻す。

「! まさか…」

それが何を意味するかを理解した村人の表情に驚愕が広がり、信じられないものを目にしたかの如くその場に身体ごと釘付けになって固まってしまった。腕に抱えていた長物を取り落としてしまう。

「これが私の能力です。おかげで旅も商売も一人で出来るんですよ。」

「まさか…そんな、それは…」

「他にも取り扱っているものは沢山ありますよ。」

商人は両手をパンと合わせる。すると、背後に無数の波紋が広がり、やがて先程と同じように天窓の穴が一面に広がる。中には鬱蒼とした森林や凍えそうな山岳に大時化の海洋、各地を望遠鏡で覗いた、あるいはそれらの景色を丸々くり抜いたように色とりどりの風景が彼らを取り囲む。村人が目を見開いたまま動かない事など気にせず商人は続けて話す。

「果物に魚、お肉もありますよ。さらにとれたて新鮮のおまけ付き! いかがですか?」

商人の誘い文句には答えず、村人は驚愕の表情のまま口を開く。

「空間移動…⁉ 本当にこの世に存在したのか…」

「ええ。まぁそうですね。そのような認識で間違いないです。」

「な…、え……?。最も貴重かつ強力と言われている“国宝”級を超える能力ですよ…?」

驚愕と若干の恐怖を交えた様子の村人にやや冷えた感情を抱く。とはいえ、順調にいつもの流れができている事は喜ばしいことだった。そして何度も行ってきたような慣れた口ぶりで答える。

「見た通り、私の能力“亜空転送”によってあらゆる場所にある私の倉庫に移動が可能なんです。食べ物であれば海の幸山の幸保存食生もの米に小麦、資材が欲しければ鉄材木材布や紙やら“何でも”“すぐに”お客様のお手元へお届けいたします。」

「…それほどのものをお持ちなのになぜ商人をされているんです?」

村人は問うた。今の仕事が能力と不釣り合いとでも思っているのだろうか。

「確かにこの能力であれば、政府がそれはもう丁重に保護してくれるでしょう。遊んで一生を過ごすこともできるなんて噂もありますからね。ただ、“遺宝級”に属する能力はまだ発見されていない、途轍もなく強力だけでなく“非常に便利”という理由で定められています。」

村人は黙って彼の話を聞く。

「そんなに便利な能力であれば、政府に使われるよりも、自分で旅をして、商売をして、様々な所を巡り、いろんな人に出会う。この能力が最大限に活きるのは、そうやって多くの協力を得た後に成り立つんじゃないか。そう思って旅商人を始めたんです。もっとも、商人が性にあってるというのが一番の理由ですけどね。」

あらかじめ用意していた解答をすらすらと述べる。ようやく村人の目から猜疑の感情が消えた。ここまできたら交渉もできるだろう。商人は村人に持ちかけた。

「それで、あなたたちの町でも商売をしたいのでお邪魔してもいいですか、門番さん。」

そう呼ばれた村人の表情が固くなった。

「それは…」

門番の心内に壁ができたのをありありと感じる。驚きのあまり倒してしまった長物を静かに、素早く取り直す。先端には陽光を鈍く照り返す鋼々の刃が頑丈に取り付けられている。

「丹潟が余所者禁制の地であることは重々承知しています。決して手間は取らせません。ただあなたは私を遠い親戚として扱ってほしいんです。親族関係であれば入っても問題はありませんよね?」

「いえ、ここを通すことはできません。そしてあなたは自分の親族でもありません。」

商人の屁理屈に対して門番は表情を変えずに即答した。しかし商人は意にも返さない。

「もちろんここを通してもらうなんて我儘は言いません。ただ門番さんには私が不審がられたときに助け舟を出してほしいんです。」

会話が成立しないことにいら立ち、門番は顔をしかめる。

「何なんですか。意味が分かりません。ここは通さないと言ってるでしょう。」

しかし、商人は涼しい顔で

「ああそれなら」

言い終わるよりも速く商人は地面に吸い込まれていった。門番は驚きのあまり反応が一瞬遅れたが、咄嗟に助けようと吸い込まれる商人に駆け寄る。しかし、伸ばした手が商人に届くよりも早く、商人の姿が完全に地面の中に吸い込まれた。商人の吸い込んだ地面に勢いそのままに転びかける。何とか踏みとどまると、足元にはさっき見せられた穴とその先に見慣れた風景が初めてみた視点で広がっている。

「ご心配には及びません。勝手に入りますので。」

「え?……あ。いやちょっ」

「私はどこへでも勝手に行けますから大丈夫ですよ。でも門番さんは侵入者を見逃すと大変でしょう?」

「……脅しのつもりですか。」

門番の顔は無表情だが憤りを隠しきれていない。刃物のついた長物、幾戦を超えたであろう槍が、商人を真正面に捉える。穂先の刃は黝ずんでいるが、鋭さは些かも衰えていない。門番は構えを崩さず、商人との間合いを図る。慌てた様子で商人は答える。

「とんでもない。先ほど説明した通り、危ない状況になったときは門番さんの力をお借りしたいだけです。ご迷惑をおかけするお詫びといってはつまらない物ですがこちら。」

門番の視界から商人が消えた。どこにいるのかを探そうとあたりを見回す直前に自分の真後ろから声が聞こえた。

「京都産の福神漬けです。梁田さんのお父様に贈れば婚姻のいい足掛かりになるんじゃないですか? 漬物大好きらしいですし。」

門番は心の底から驚愕した。突然後ろから声をかけられたから、そんなことよりも名乗っていた仕事柄と特別な事情から目の前の商人では知りえない事実を突きつけられたからだ。

「何で」

「たかが1回の失敗で深久里さんとの関係をふいにしてしまうのは大変もったいないでしょう。」

今度は青い顔に変わった門番が何も言えずにたじろいでいると、商人は空いた穴に入っていき穴と共に消えていった。先ほどまでぽっかりと空き見えるはずのない風景を浮かべていた謎の穴が開いていた部分は、15年間穴が空くほど見続けたいつものがやがやした街並みが広がっていた。見飽きた日常の風景がこうも安心させるとは。そういえば小さい頃にここであいつに慰められたな。久々の感覚に思い出が蘇る。悔しい思いを癒してくれた畦道、がむしゃらに逃げまわった先でようやく見つけた門構え、そして

「あ、そうそう。」

意識外からの声に思わずならず者に対しての処置を無意識に取ってしまう。門番は習練された流れる動作で槍を振り抜く。

「マズっ……」

後悔よりもはるかに速く刃が声の主の首元を軽々通り抜ける。

脂汗が滲み、妙な脱力感に襲われる。行ってしまった事に責任を持たなければ。殺してしまった相手を見ると、そこには小ざっぱりしたスーツを着た商人が静かな笑いを目尻に残し、さも驚いた素振りで突っ立っていた。わざとらしく首元をさすり、襟元を整える。首の上には頭が乗っかっている。

「え?……」

「足元に気を付けてください。速かったので場所を選ぶ余裕がなかったもので。」

足元に目を向けると槍先が自らの足元に突き刺さっている。根元をたどっていくと、穂先から口金、銅金蕪巻き……そこから先は歪んだ円形の景色に飲まれ見えなくなって、いや、その先は少し離れた商人の首元へ続いていた。

「いやがらせがお上手ですね。」

門番の声色から限界寸前の感情が感じ取れる。

「大変申し訳ない。驚かせるつもりはなかったんです。もう少し状況を考えるべきでした。大変失礼いたしました。」

急いで謝罪の意思を見せ、深々と頭を下げる。

「……いえ、こちらこそ取り乱して申し訳ない。それで、何か用ですか。」

門番も頭を下げ、大きく深呼吸をした。どうやら落ち着いたようだ。

「名乗り忘れていたので改めて自己紹介をと思いまして。」

「あ! そういえば聞いていませんでしたね。」

能力やら行動やら衝撃的なことが起こったことで気にも留めてかったようで、言われてはじめて気づいた様子だ。

「改めて、八百万堂を営んでおります赤管燈と申します。何かあったときはよろしくお願いします。」

「ああ……。長谷部羽場切です。……よろしくお願いいたします。」

身内の癖に名前を知らないのは不自然に見えるから名乗ったのか。合点がいった納得感と複雑な感情が面持ちに現れている。分かりやすくてありがたい、赤管は心の中でほほ笑む。

「ではまた後ほど。」

赤管は手を叩き、中空に大穴を開けてその中へ入っていった。穴が閉じた後、門番は固まっていた。突然の予想外の連続で少し疲れてしまっていた。あの赤管と名乗った商人の対応を考えては問題点を潰し、これを頭の中で何度続けても結局はどうしようもできないという結論しか出ずに思考が堂々巡りする。そして、

「鍛えるか……」

門番はさっきまで考えていたことは保留して無心で槍を振るう。できることから取り組んでいこう、まずは自分の不出来を直すところからと思い至り、一番厄介だと思った相手を想定し対策できるよう鍛錬を始めた。

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