3-2

 だれかを探しているのか、きょろきょろと不安げな視線を巡らせている。そのせいで足下への注意が欠けたのだろう。なにかに躓いたのか、少年は勢いそのままぴたんと顔から地面にダイブした。

 あれは痛い、と神崎とともに顔を見合わせる。同じくテラス席にいた何組かもそれに気づいて心配そうな表情を浮かべていたが、手を差し伸べるべきか躊躇しているらしい。

 気まずい沈黙が、昼下がりの市街を染める。やがて少年はむくりと自力で起き上がったものの、ちいさな背中をぷるぷると震わせる様はそれだけで十分痛ましい。額まで真っ赤にさせて、涙のダムはいまにも決壊してしまいそうだ。それにもかかわらず、少年を追いかけてくる大人の姿はまったく見当たらない。

 さて困った、と考えたのは本当に一瞬だった。

「根性あるなぁ、おまえ」

 不意に席を立った神崎が、いまだ地面に座りこんだままのちいさな体を立たせてやる。

 幸運なことに、目立ったけがはないようだ。必死に痛みに耐えている少年の頭をぐしゃりと撫で、汚れを払ってやる。一応あたりを見回すものの、やはり親らしい姿はない。

 いくら平和ぼけした市民とはいえ、さすがにこんなちいさな子どもをひとり遊ばせているとは考えづらい。

「迷子ですかね」

「そうかもな」

 遅れてきた天谷にそう返しながら、どうしたものかと思案する。

 渦中の少年はといえば、感情のまま泣きわめくこともなく、じっと口を真一文字に結んでいた。じわじわと広がっているであろう痛みも我慢して、見知らぬ大人たちに囲まれようとも泣き言ひとつ叫ばない。

 これが俗に言うの子どもであれば、なんとかしろとわめき散らしてもおかしくない。そういう意味では互いに運がよかったのか、なんて、どうしようもないことが頭をよぎる。

「名前、言えるか?」

 促すように問いかけると、ややあってから絞り出したような声でヒビキ、と帰ってくる。たったそれだけでもよし、とおおげさに褒めた神崎は、まるで犬猫をあやすかのようにわしゃわしゃとそのちいさな頭を撫で上げた。

 つづいて兄とふたりで遊びに来たこと、その兄といつの間にかはぐれてしまったことまで聞き出して、そうかとまた頭を撫でてやる。

 そうしてようやく安堵したのか、へへ、と頬を緩めた少年の顔に、天谷はひとり脱帽した。こんな短期間で子どもの心を開かせるなんて、自分にはとてもではないがまねできない。本当に自然にやってのけてしまえるあたり、天性のものなのだろう。やろうと思ってできることではない。

 この子もそうだ。迷子になってしまったとはいえ、歳のわりに植え答えはしっかりできている。ただ泣きじゃくるばかりで話にならないということもなく、こちrなお質問に素直に答えてくれる。

 つよい子だ、とかすかに目を細める。するとおもむろに、神崎の右腕がヒビキに伸ばされる。

 そのまま軽々と少年を肩の上に担ぎあげた神崎は、驚いて固まっているヒビキにやわらかなものを浮かべてみせた。

「俺たちもいっしょに探してやるから、おまえはそこから探せよ?」

 呆気にとられているのか、半泣きの顔から一転ぽかんとした表情をのぞかせるヒビキに、神崎は不思議そうに小首を傾げる。

「だいたいこれやるとチビどもは喜ぶんだけどな」

 わからなくはない、が、スラムで生きる身も心もたくましい彼らと比べるのは少々無理がある。

 しかしそんなことを言っても神崎は理解しないだろうと、言葉はそのまま飲みこんだ。

 そのまま歩き出した神崎に振り落とされまいとしがみつく。その恐怖心もやがて薄れたのだろう。気づけば普段見ることのない高さからの視界にきゃっきゃとはしゃいでいる。そういうアトラクションかなにかと思っているのかもしれない。

「おれ、重くないの?」

「おまえくらいのチビなんざ余裕だっつの」

「でも、おれのにーちゃん重いからやだっていう」

「そらおまえの兄貴が軟弱なんだよ」

 むむ、と似合わない難しい顔をするヒビキに、いいから探せとやさしく誘導する。意味が通じているのかどうかは神崎にとってあまり重要でないらしい。なんとなくそんな気はsいていたが、こうして見るとそんなことも忘れてしまえるほど微笑ましい光景だ。

「なにひとりで笑ってんだよ」

 さすがに気づいたのか、呆れたような視線が投げられる。いえ、と口ごもるものの、それ以上の文句は特に飛んでこなかった。まだ幼いヒビキの手前、そうしたのかもしれない。ひとり楽しげな彼には感謝してもしきれないくらいだ。

 しかし不意に向けられた疑問に、その穏やかな空気がびしりと歪む。

「ね、なんで腕ないの?」

 こういう子どもの無邪気さは本当に悩ましい。

 一瞬詰まった喉が軋む。意図せずして向けられたそれに、返す言葉もなく黙りこむ。さすがにおかしいを思ったのか、ヒビキもまたぎこちなく口をつぐんでしまう。そうしょげられるとより心苦しさが増すのだが、こればかりはどうしようもない。

 なんとかうまいフォローの言葉を探したが、使い勝手のいいものは純真な彼には通用しないだろう。

 しかし神崎は、そんな気まずさすらものともしない。

「おまえみたいなチビたち守るために、くれてやったんだよ」

「おれ、そんなことしてない!」

「だーからおまえじゃねえっつの。聞いてんのかほんとに」

 そんなんだから兄貴とはぐれんだぞ、とぺしりとちいさな足を叩く。むう、と頬を膨らませたヒビキはばたばたと足をばたつかせて応戦するが、かわいらしい抵抗はかるく受け流される。

 そんな他愛のないやりとりをしながら、十五分ほど市内を歩き回っていた頃だった。

「ヒビキ!」

 呼ばれたそれに、神崎の肩の上にいた少年が振り返る。途端にぱぁっと顔を輝かせたヒビキは、その日いちばんのとびきり明るい声を上げた。

「にーちゃん!」

 興奮のまま暴れてずり落ちそうな彼をなんとか無事に下ろしてやる。地面に足がつくかつかないかのうちから走り出したヒビキは、勢いそのまま兄の元へ飛びついた。ぐりぐりと青年の脚に頬ずりする光景に、ようやくこちらの肩の荷を下ろす。

 兄のほうはどこか気まずそうにぺこりと頭を下げてきたが、気にするなとだけ返しておいた。あの年頃の少年が好奇心に負けてどこかへ消えるのはままあることだ。なにより、当の本人は迷子になったことなどすっかり忘れて兄の脚にしがみついている。その満足そうな顔に毒気が抜かれた兄に同情だけして、神崎と天谷は彼らに背を向ける。

「……平和ですねえ」

 含みのある物言いに、神崎はただ苦笑のようなものを返す。

 否定はできない、ということなのだろう。あるいはそれを認めたくはないのか。

 どちらにせよなことだ。複雑な胸中はわからなくもないが、すくなくとも今の発言が皮肉めいて聞こえていたとしたら心外だ。 

 それでもおそらく、考えていることは同じはずだ。

 いままで我慢していた苦味をようやく噛み締める。

 あの少年たちと、スラムの彼らを重ねないほうが無理な話だ。

 すっかり忘却してしまうほどのゆとりはまだない。天谷でさえそうなのだから、神崎はひとしおだろう。

 まったくいやになる。そう思いながら、天谷はちらりと神崎の様子をうかがった。

 スラムはなくなったと聞かされたときの神崎の絶望の深さは知るよしもない。天谷にすればまだ半日の付き合いだったが、あそこまで懐かれていた神崎はどれほどの時間を費やしていたのだろう。知るよしもない、が、その心中は察してなおあまりある。

 もし生まれた場所が違ったら、と思わずにはいられなかった。親が違えば、時代が違えば、あるいは。そんな仮定が次々浮かんでは消えていく。そんなものをいくら描いたところで意味はない。そうわかっていてもなお、そんな思考に歯止めをかけることすらできず。

 ただひとつの街が消えたという現実を、むざむざ突きつけられる。

 そんな非道が行われたというのに、強制退去された彼らの行く末など市民は毛ほども興味がない。むしろ汚らしい目の上のたんこぶがなくなってせいせいしたと騒ぐ連中のほうが多いはずだ。

 評議会も評議会だ。もとより流れ者であるとはいえ、彼らの生活の痕跡をまるごと消してしまうとは、ずいぶん思い切ったことをしてくれたものだ。

 ため息がこぼれ落ちる。どうしようもない。そう言ってしまえばそれまでだ。が、そんなもので諦めるのはなにより自分自身が赦さない。

 そうでなくて、なんのために軍人になったのか。

 何度となく突きつけられるそれにいつまでも苦悩する。

 ほんとうに悪い癖だ。自分の手の届く範囲にとどまらず、すべてを望んでしまう。いっそ諦めてしまえば楽なのに、どうしてそれができずにいる自分を、同じく軍人であった父や祖父はどう見ているだろうか。

 そう、考えて、しまう。

「まーたしけた顔しやがって」

 ぎこちなさからすぐさま察した神崎がどやすように肩口を小突く。思わぬ衝撃に驚きを隠せずにいると、神崎はなんでもないとばかりにかすかに目を細めた。

「おまえ、あれくらいのチビ苦手だろ」

 思いがけず図星を食らい、ううん、とらしくもない声をあげる。

 そういうところがあるからこの神崎は憎めないのだ。まったく気にしていないようで、ひとのことをよく見ている。神崎に部下たちがついていくのも当然だ。これで上に噛みつく姿勢をとらなければなおいいのだが、世の中そううまくはいかないらしい。

 心底困ったように、天谷は肩をすくめた。

「透に嘘はつけませんね」

「どの口が言ってんだよ」

 胡乱げな顔をする神崎とは対照的に、天谷は苦笑を浮かべる。思い当たる節がないわけではないが、特段神崎に指摘されるようなものでもない。

 それに、そういうことに気がついてしまう時点で違いに隠し事などできるはずもない。

「口八丁はおまえの十八番だろ」

「せめて交渉と言ってくれませんか?」

 言ってろ、と鼻であしらわれたものの、それ以上掻き回すつもりもない。むしろいつもどおりの軽口に安堵さえ覚えてしまうから困りものだ。

 お手上げだとばかりのため息をちらつかせる。

 まるで正反対のくせに、ここまで信頼のおける相手もほかにいない。まったく不思議なもので、仲間内からもとんでもない腐れ縁だと認知されている。その自覚がないわけでもないが、端から見てもそうとわかるとなるとどこか気まずいような感じもする。

 それにしても、と天谷はひとり苦笑をにじませた。

 息抜きとして外に連れ出してきたはずが、いつの間にかこちらが励まされているようだ。こうして肩を並べて歩けているのも、神崎がこちらのペースに合わせているからだ。足並みに合わせてこつりと鳴るその音に、天谷などはさみしさのようなものをおぼえてしまうというのに。しかもそれを、神崎はろくに気がついてもいない。口にしてようやく苦々しい表情を浮かべるのだろう。すぐさま想像できるそれを、しかし天谷はそっと胸の内に仕舞いこむ。

 それからゆっくり、瞬きを数度。 

 ――そうして、背後に近づくに、冷たく鋭い殺気を差し向ける。

 戦場の色濃いそれはさすがに隠しようもない。神崎もとっくに気がついていたのだろう。わずかに重くなった足取りだけでそれを察知する。

「……類」

「ええ、

 ちろりと目線だけ背後にやる。

 四人、といったところだろうか。自然と風景に溶けこんでいるが、獲物を睨む目つきまではどうして隠しようもない。神崎からすればまったくお粗末な尾行だろう。天谷の徹底した包囲網を毎度かいくぐってくる人間は、さすがに考えることが違う。

「病院にはちゃんと外出届も出してきたのに、なんの用でしょうね」

「俺が知るかよ」

 うんざりした口調で吐き捨ててはいるが、心当たりがまったくないわけではない。

 鬱陶しそうに前髪をかき上げる。

「あの野郎ドクターの差し金ってか?」

「さあ、そこまでは」

 たしかにその可能性は高いが、まだ断言はできない。

 続くべきその後の言葉までしっかりくみ取った神崎が、深々と息を吐く。もっともだ。せっかく第三者の目から離れたところに来たというのに、これではまるで意味がない。

「とはいえ、あまり仲良くしたくない方々なのは確かですね」

 さてどうすべきか、と思案する矢先、ふらりと後方を振り返った神崎が好戦的な笑みを浮かべる。

 またそんな無茶を、と頭を抱える天谷なんてお構いなしだ。いつもどおりすぎるそれに、もはや反抗する気も起きない。

 野生の獣のような神崎の気配に怖じ気づいたのか、こちらをうかがう四つの顔はどれもこわばっていた。しかし彼らの事情など知ったことではない。監視対象に悟られるような尾行をしたあちらの落ち度だ。責められるどころか、人気の少ない路地へ向かって歩いていただけありがたいと思ってほしいくらいだ。申し訳ないと思う気持ちなどこれっぽっちも持ち合わせてはいない。

「こそこそ着いて来るってことは、後ろめたい自覚があるってことだよな?」

「透」

「類、手ぇ出すなよ」

 言い終わるかどうかのうちに走り出す神崎を、いまの天谷が止められるはずもない。

 まったくと大きなため息をつく。まるでこうなることまで見越していたかのようだ。天谷に杖がなくとも神崎はひとり突っ走っていたにちがいない。そんな未来が容易に想像できる。

 すこしは自分のことをかえりみてほしいものだが、神崎が素直にひとの忠告を聞くとも思えない。

 そういう男なのだ。よくもわるくも、とはいうが、愛想を尽かさない自分もきっとどうかしている。現実逃避のように、ぼんやりとそんなことを思う。

 片腕というハンデを物ともせず、やってくる拳を半身でひらりと躱し、そのまま勢いを殺さずにカウンターを撃ち返す。狼狽えたところをさらに蹴り倒し、その背後にいた男まで巻きこんで戦闘不能状態に。そんなアクロバットさながらに軽々やってのけるあたり、どうも楽しんでいるようだ。遊びではないのだが、と思うと素直に頭が痛い。

 それにしても白昼堂々こんな乱闘騒ぎに巻きこまれる側のことも考えてほしいものだ。一方的すぎる光景を前にしながら、被害者ぶった考えがつい頭をよぎる。

 とはいえ、神崎を相手にまわした時点で運の尽きだ。どこの所属かは知らないが、そればかりは同情してやらねばならない。拳銃は取り出す前に蹴り払われ、それならばと次の手段を考える前に投げ飛ばされた男の体が宙を舞う。それを回避できたところで、禍々しい笑みをたたえた神崎がすでに拳を振り上げている。まったく悪魔的なそれを市民を守るべき軍人が浮かべているのだから、少々困りものだ。

 なんせこうも見事に圧勝されてしまうとどうもこちらが悪いような気がしなくもない。

 心にもない感想を、しかし天谷は瞬きひとつのうちにあっさりと手放すことにした。こんなところで発砲するような力不足を送りこんできたほうも大概だ。今頃それを聞きつけた市民たちが表で発狂でもしているだろう。迂闊な行いは慎めと散々言われているだろうに、こんなことでは処分も避けられない。

 それにしても、まだリハビリ途中のくせによくもまあそこまで動けるものだ。その回復力はいっそ関心すべきなのかもしれないが、担当医に知れたら卒倒されるだろう。それこそまた看護体制に逆戻りになるにちがいないが、天谷さえ口を閉ざしていればなにも問題ないとたかを括っているようだ。

 そのとおり、ではあるが、あまり過信されても正直困る。

 あっという間に不届き者を地べたに這いつくばらせた神崎は、そうしてなんでもないかのように埃を払いのけ、いやに清々しい顔をのぞかせた。

「手加減ができなくて悪いな」

「そんなこと言ってる場合ですか」

 戦意喪失した彼らに哀れみの視線を向けながらも、動けなくなったのをいいことにごそごそと胸元あたりを探る。身分証らしきものは特に持ち合わせていないらしい。万が一あったとして、こちらに情報を与えないつもりだったのだろう。まったく正しい判断だ。

 ともあれここまで派手に暴れたとなれば、保安隊が駆けつけてくるのは時間の問題だ。それに捕まっていらない聴取を受けるのは癪だが、この足では逃走もままならない。男たちのうめき声を聞きながら、どうしようもないとばかりにため息をこぼす。

 仮にも軍人が暴動のど真ん中にいたとなれば直属の上官でなくとも呼び出しどころでは済まない。最悪懲罰レベルだ。いくら正当防衛だと主張したところでどれほど通るかわからない。

 しかし神崎はそんなことはどうでもいいとばかりの涼しい顔を貫いている。これに言い聞かせるのは至難の技だ。すくなくとも常識なんて身勝手なものさしを振り回したところで、この男はまったく聞きもしない。

「……いよいよもって評議会が絡んできてる可能性も視野に入れたほうがいいかもしれませんね」

 渋い表情をつくる天谷に、神崎はは、と鼻で笑う。

「クソじじいの相手は軍だけで十分だっつの」

「まったくですね」

 珍しく素直に同意した天谷にかるく目を見張る。が、当人はそれに気がついていないようだ。指摘してやるのも無粋だろうとそのまま流してやる代わり、にたりと口元に笑みを浮かべる。

 そのまま何食わぬ顔をして路地を去ろうとしたふたりの前に、やはり陰が立ち塞がった。

 そんなことだろうと思っては板が、こうも予想どおりに来られても嬉しくもなんともない。

 瞬く間にぞろぞろと増えていく制服連中の姿に、市民たちも遠巻きながら不安げな視線を送っている。関わり合いになりたくはなさそうだが、好奇心が抑えられないのだろう。まったく人間らしくて結構なことだ。

 その中央で見慣れた鉄仮面が冷たくこちらを睨みつけてさえいなければ、神崎でさえそちら側に回りたいくらいだ。

「おまえら、いつの間に思想犯の手先に成り下がったんだ?」

 鼻先で笑い飛ばすかのような挑発にさえ、憲兵は動じない。やはりそういう訓練を徹底して受けているようだ。さすが身内にさえと揶揄されるだけのことはある。 

 返事はない。その代わりとばかり、後方へ合図を送る。

 割れた人垣の合間から、じたばたと必死に抵抗するちいさな人影がふたつのぞく。

 それが先ほど助けてやった兄弟だとわかった途端、神崎はみるみるうちに目をつり上げた。

「関係ねえチビども巻きこんでんじゃねえぞクソったれっ!!」

「透っ!」

 いまにも飛びかかろうとする神崎をすんでのところで制するも、片腕では不十分だ。万全の状態とはいいがたい神崎だからどうにか押さえつけられているものの、振り切られるのは時間の問題だ。まずい、と苦いものが口の中に充満する。

 抑えてほしい、と視線で懇願するが、それがどれほど通じるか。こればかりは天に祈るしかない。

 そんな天谷の胸中を見通してか、感情のこもっていない声がギロチンのごとく振り下ろされる。

「ご同行願います、神崎中尉」

「拒否権なしかよ」

 吐き捨てるようなそれにすら、憲兵はまったく動じない。

 いったいどんな訓練を受けたらそこまで人間味を捨てられるのかわかったものではない。

 侮蔑の意味を込めた盛大な舌打ちをこぼす。天谷の制止がなければそのまま殴りかかっていたところだ。もとからいけすかないとは思っていたが、ここまで薄情者だと無条件に叩きのめしてやりたくもなる。

 ただでさえスラムでの一件があったばかりだというのに、これ以上民間人を、しかも子どもを巻きこむなんて言語道断だ。

 さすがあのろくでなしが絡んでいるだけのことはあるらしい。そう、憎悪の視線を投げつける。

「……透」

 さすがにこれは分が悪い。なんせ運良くこの場を切り抜けたとて、その先がない。人質の少年たちのこともある。まったく無関係とはいえ、スラムの子どもたちの安否すらわからない今、これ以上罪のない彼らを巻きこむのは良心が痛む。

 それを加速させるように、にーちゃん、とか細い声が神崎たちに降りかかる。

 先程とは別の涙を浮かべたヒビキは、ちいさな掌をぎゅっと握りしめて、懸命に喉を震わせる。

「にーちゃんたち、わるいひとじゃないよね?」

「ヒビキ。黙ってな」

「だってツカサにーちゃんのとこに連れてきてくれたもん。こわいこと、ないよね?」

「うるさいって言ってんの!」

 ぴしゃりと言い放ち、幼い弟をにべもなく黙らせる。しかし彼の目にも恐怖の色が滲んでおり、弟がいる建前上それを見せないよう必死に取り繕っているのは明白だ。

 その姿は健気だが、しかし相手が悪すぎる。

 唇を噛む。どうにか打開策を探したいところだが、彼ら兄弟という人質をとられた以上、こちらも迂闊なまねができない。

 天谷とまったくおなじ判断だったのだろう。目線ひとつでそれを理解し、腹立たしいながらも降参だと右手を挙げる。

「やめだ。ここで暴れたところでだれも得しねえ」

「ご理解いただけたようでなによりです」

 心にもない台詞がよくもまあ吐けるものだ。そう睨みつけてから、しかしがりがりと頭をかく。

「俺たちが目的なんだろ。だったらとっとと連れてけばいい」

 その代わり、チビどもに手出ししたらただじゃおかねえ。

 地の底から響くようなドスのきいたそれに、さすがの憲兵たちもごくりと喉を鳴らす。それで耐えただけ上出来だ。無論戦場の神崎が発する殺気なぞこれをはるかに凌ぐのだが、そこまで言っては彼らがかわいそうだ。

 しかしさすがにそのまま連行するような度胸はないらしい。犯罪者にそうするかのように手首と腰を紐で括られる。まさかこんなまねをされるような日が来るとは思ってもいなかった。天谷もそれは同様であったらしく、渋々、といった顔をまるで隠そうともしない。引っ張られるまま車に乗せられると、乱暴な手つきで目隠しまでされる始末だ。いっそ護送車でも用意してくれればよかったものを、と、皮肉めいたそれすら浮かぶ。

 行け、という冷淡な声とともに車は走り出す。

 冷たい路地には、ひっそりとした陰だけが落ちていった。

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