3-1

 外出許可は予想していたよりもあっさり下りた。てっきりもっと渋られるものとばかり思っていたのだが、普通にとれましたよ、とけろりとした顔で言われて素直に拍子抜けしてしまった。いったいどんな裏技を使ったのか問いただしてみたい気もするが、所詮怖いもの見たさだ。世の中知らなくていいこともあると、自身に言い聞かせる。

 洗いざらしの入院着を脱ぎ捨て、ひさしぶりのYシャツに袖を通す。たったそれだけのことで浮き足立ってしまいそうになるのをなんとか堪えつつ、手早く身支度を済ませていく。

 なにより軍服を着なくていいというのが心底嬉しかった。入院中という建前をここぞとばかり天谷に強調しておいて本当によかったと思う。天谷にとってはさほど重要ではなかっただろうが、あの重苦しい制服を着用しているだけでまわりの目がずいぶん違う。ドクターが毎度引き連れてくる憲兵たちもかなり異様な目で見られているのだ。これが街中に出ようものなら、どうなるかわかったものではない。

 そうして時間ぴったりにロビーへ降り、すでに待ち構えていた天谷と合流する。

 今日も松葉杖かと思いきや、天谷の左手にはステンレス製の杖が握られていた。それにかすかに目を見開くと、かすかに微笑んだ天谷は何事もなかったかのように立ち上がる。もうすっかり使いこなしているようだ。次いで、いつの間にそんなものを、といわんばかりの視線を向ける。しかし当の天谷はやはりすまし顔をしてみせる。

 もしやこれを使ってみたいがために連れ出されたのではないか、と疑り深いものが顔をのぞかせる始末だ。こちらのことにもずいぶん口を挟んでくるが、天谷も大概だとちいさく息をつく。

 そのうえ出る直前まで多方に無駄にいい愛想を振りまいているあたり、もはや末恐ろしいとしかいいようがない。

「……ほんといい加減にしろよな、おまえ」

「なんのことですか?」

 本心わからないといった声に、まったくと頭をかく。運悪くこの顔に騙されてしまった病院関係者には謝罪してまわりたいくらいだ。

 そんな文句をなんとか飲みこんで、ぐるりと視線を巡らせる。

「どこ行くんだよ」

「散歩ですから。特に決めてませんよ」

 いつになくのらくらした会話だ。うんざりする、というよりは正直気が抜けてしまう。

 それでもいつもと振り回す立場が逆転しただけと思えば、なんとか納得できなくもなかった。頻度に圧倒的な偏りがあるだけで、なにも天谷がそういう無謀をしないわけではない。むしろこういう優等生面した奴のほうがとんでもないことをしがちだ。なんて、天谷本人が聞いたら反論されそうなことを思う。まわりはみな神崎が一方的に天谷を振り回していると思っているだろうが、一割くらいは天谷の自己責任もある。もっとも、そういうときはここぞとばかりに証拠隠滅にはしるからだれも気がつかないのだが。

 いらないことばかりが脳裏をかすめて、めまいのようなものをおぼえる。

 珍しく大人しく引き下がった神崎を見て、いつもこうならいいんですけどね、なんて皮肉めいたものが聞こえたが、無視を決めこんだ。こういう天谷に反抗したところでろくなことがないのは、いやでもわかる。

「どうせしばらく休暇もとっていなかったでしょう。ちょうどいいじゃありませんか」

「……おまえにだけは言われたくねえんだけど」

 半眼で言い返すが、天谷はおどけたようにちいさく肩をすくめてみせるばかりで話にならない。まったく、と心底諦めたようにため息をつく。こういうときばかり頑ななのは昔から変わっていない。

 ため息まじりに天谷を見やる。根が真面目なせいもあるのだろう、天谷はどうもワーカーホリックの気がある。仕事が早くて大変助かる反面、一応上官としては困りものだ。実は殴ってでも休ませようとしたことも何度かあるのだが、実行に移す前に感づいた天谷が自主的に休みをとることで落ち着いた。それはさすがに、と渋面を浮かべた部下たちに感謝でもしてほしい。

 革靴とともに、かつり、と白銀の杖のかろやかな音がついてまわる。けして煩わしくはないが、どうして気にはなってしまう。なにも感じていないのはおそらく本人だけだ。その証拠に、いまにも華麗なステップでもきめてくれそうな余裕さえ醸しだしている。

「今日くらいは気楽に過ごしてもいいんじゃないですか」

「気楽ねえ」

 どの口が言うのかわかったものではない。そう言いたげな目を向けるも、天谷はやはり小綺麗な顔をしてみせるばかりだ。

 まったくとんでもない男だ。こういうときばかり自分のことは棚に上げてしまう。なんならいままでの有給取得率でもならべてやりたいところだが、そんなどうでもいいことに労力を割くくらいならリハビリに打ちこんでいるほうがまだましだ。なんせ五十歩百歩だと返されれば、弁解する余地はまるでない。

 そんなとりとめのないことを思い浮かべながら、あてもなく足を動かす。杖を必要とする人間がいるだけにペースは幾分遅いが、軍靴を鳴らして行進するよりはよほど気分がいい。

 それでもどうして、次々向けられる好奇の目線に晒され続けるのは気が引けた。

 おとなはなんとなくでも察する能力があるからまだいい。問題は子どものほうだ。純粋な彼らは、ただただ不思議そうな目をじっとこちらに向けてくる。熱烈なそれに穴が開いてしまいそうだ、と、かわいげのある返しができるほどの余力は残念ながらまだない。

 仕方がないことだ。そう、ため息に似た吐息をこぼす。

 壁の内側に引きこもる彼らは、四肢が欠けた人間という存在を見慣れていない。そうして投げやり気味に、空の左袖に視線を落とす。

 五体満足で、かつ豊富な資源にも恵まれた環境しか知らない彼らには、まったく信じがたい光景として映るのだろう。一辺倒な哀れみの視線の数々で、全身むずがゆい。にもかかわらず、素知らぬ顔を貫き通せる天谷の分厚いつらの皮はもはや感服ものだ。

「行きたいところがあれば付き合いますよ」

「……おまえ、ほんとにノープランで来たのか?」

 なかば呆れたような口調に、天谷はただ微笑み返す。それをどう受け止めるべきかしばし考えた後、神崎は文字通り苦々しい回答を吐き出した。

「いまは、行きたくても行けねえ」

 その言葉の意味が、天谷にはすぐにわからなかった。しかしすぐに、嗚呼、と言葉にならない声をもらす。

 まぶしいばかりの青空を、いつになく恨めしく見上げる。

 晴れてさいわいと思ったものの、こうも鮮やかな青空はスラムで見たものとどうしても重なってしまう。

 神崎が行きたいのは、あの向こう側なのだ。

 その先にあるのがスラムであれ、戦場であれ。そこが自分の居場所なのだと心の底から理解している。

 ついこみあげる形容しがたい感情を、しかし器用にやり過ごす。

 神崎は、そういう人間だ。

 なにも知らなかったわけではない。むしろそうわかっていたからこそ、神崎がふらりとスラムへ行くことを止めなかった。そうして天谷が目を瞑っていることを、神崎自身気がついている。あえてそれを口にしないのは、天谷が責め立てられないようにという配慮のためなのかもしれない。

 これでも部下から見ればいい上官なのだ。それは、神崎についてくる少なくない部下を見ていればよくわかる。天谷だってそうだ。振り回されるのが目に見えているくせに、いままで配置換えを願い出たことすらない。もっとも、上からすれば神崎のストッパーとなりうる最後の砦として天谷を起用しているにすぎないのかもしれないが。

 とはいえ、これほど信頼関係に恵まれた上官と巡りあうことはなかなか難しい。

 いたたまれない沈黙が重くのしかかる。いつもならかんたんに振り払えるようなそれすら、この体には厄介極まりない。

 スラムでの一件が思ったよりこたえているのだろう。医療チームにはショックを受けて当然だと説教をくらいそうだ。そんなもの見慣れている、といえば嘘になるが、しかしその手の理不尽を飲みこむこともできなければ戦場に立つことなどできはしない。

 理不尽、なのだ。ふと湧き上がったそれに、感嘆したような声をもらす。

 まったくそうだ。この社会はそういう横暴なもので満ちあふれている。見方次第で善悪がころころと入れ替わるのがいい例だ。皆が頼りとするものほど、そうしてあっさりとうち捨てられる。

 足が、止まる。さすがに気づいた神崎が、どうしたとばかりの目を向けてくる。困ったような、ぎこちない半笑いを浮かべるとともに、目に入ったオープンテラス月のカフェへ逃げるように足を向ける。

「おい」

「今日は、私につきあってくれる約束でしょう?」

 半分以上有無を問わなかったが、それ以上文句が返ってくることはなかった。

 ついでに先に席でも取っていてください、と指示までしておけば、渋々ではあったがそれに応じてくれる。やはり同期だとこういうときあれこれ配慮する気苦労がなくていいと、ひとりすっきりとした顔をのぞかせ、レジへ並ぶ。

 一方場所取りを一任された神崎は、どこか気まずさを感じながらもテラスの片隅を確保していた。

 晴天のことも相まって、まわりは優雅な昼下がりをすごそうとする市民にあふれている。

 どことなく忍び寄る場違いな雰囲気に、ちいさく舌打ちをこぼす。

 まったく無意味な時間だ。が、とは、きっとこのようなものをいうのだろう。区画整備のなされた緑あふれる街なみを眺めながら、やがて耐えきれずため息に似たものをこぼす。

 降ってわいたような休日をどう過ごせばいいのかなんてまったく考えたこともなかった。

 外出許可が下りれば真っ先にスラムへ向かっていたし、宿舎から出られないときはトレーニングか惰眠を貪るかの二択だった。ほかの選択肢を考える余地すらない。場合によってはまともな休日を満喫する暇もなく任務に明け暮れていたほどだ。おかげで天谷と互いに有休消化を押しつけ合うという不毛すぎる喧嘩を何度か繰り広げたこともある。

 天谷にとってはあまり思い出したくもない記憶だろう。あれはあれで、とは思うが、巻き添えをくらった部下にはたまったものではなかったらしい。それは正直申し訳ないが、今後二度としないと確約することは難しい。

 なんせぼんやりふぬけているのは性に合わない。煙草に手を出したのも、はじめは手持ち無沙汰を解消するためだったのだ。それがいつしかニコチン中毒と蔑称されるようになるとは、さすがに思いもしなかっただけで。

 しかし悲しいことに、公共スペースでは基本的に全面禁煙が勧められている。市民の健康促進のため、と評議会の大御所たちは大々的に銘打っていたが、どうせパフォーマンスだ。平和や安全、健康なんてものを過剰に喜ぶ市民は、そういう政策をいつでも大歓迎してくれる。もてはやすことばかりうまいのだ。反対に、すこしでも自分たちの生活をおびやかすものはそれだけで人類の敵とみなされる。

 だからこそ、それらすべてから守ってくれる評議会は、市民にとってさながらヒーローなのだろう。

 そんなものがひいては世界秩序を保つことに繋がるのだと堂々宣言されるのだから笑ってしまう。だれのおかげでそのが成り立っているのか、義務教育からたたきこんでほしいくらいだ。

 そんなわけで、神崎がこよなく愛する煙草はほとんどの都市で健康阻害品としてタブー視されている。だからこそスラムまで出向く羽目になっているのだが、それ以上のものを外に見いだしている今となっては文句のひとつもつけられない。

 だめだな、とちいさく頭を横に振る。看護師たちの目敏すぎる監視がないのも相まって、急に紫煙が恋しくなってきた。そればかりはどうして叶うわけがない。が、いままで耐えてきた反動のせいか、一度気になってしまったものはなかなか頭から消えてくれない。

 これだから天谷に苦言を呈されるのだ。そう、苦笑のようなものを滲ませる。

 そうこうしているうちにトレー片手に戻ってきた天谷を出迎える。

 いつになくにこやかな笑みをたたえていることに、さすがの神崎もつい脱力せざるをえなかった。

「どうかしましたか?」

 しかも自覚がないとくれば、もはや笑うしかない。なんでもないと座るよう促すと、きょとんとしながらも天谷は素直にそれに従った。

 それから嬉々としてトレー上のカップを示す。

「さすがに私から酒やたばこを勧めるわけにはいきませんからね」

 これくらいで我慢してください、と差し出されたそれをなんともいえない気持ちでながめる。

 単なる自分の好物じゃねえか、というぼやきはそのまま飲みこんだ。さすがにこんなくだらないことで小競り合いを始めるつもりもない。それに、せっかくの息抜きに水を差すのはあまりに野暮だ。

 駐屯地でもコーヒーくらいの嗜好品なら手に入らないこともないが、インスタントと相場が決まっている。それでもあるだけましなのだが、コーヒーに並々ならぬこだわりのある天谷はそれがひどく憂鬱であるらしい。渋い顔をしながらを啜っている様は目撃される度に茶化されているが、断つことはどうしてできないようだ。

 今回の入院騒動でその我慢にもついに限界が来たのだろう。仕方ねえなとばかりに苦笑して、それを受け取る。これまでだって何度も片棒を担いできたのだ。こういうならばなにも惜しくない。それに、この程度のことでびくびくしていては、マシンガン片手に戦地を走ることなど到底不可能だ。

 まだ湯気のたつそれを一口ふくむ。思ったよりしっかりとした苦味と香りに、感嘆したように息をつく。適当なカフェのものにしては上等だ。そう感じるのは、レーションや病人食といった味気ない食生活ばかり強いられていたせいもあるのだろう。そういうところでさえ、やはり壁の内と外ではまるで世界が違うのだということをありありと突きつけられているようでまったくおもしろくもないのだが、コーヒーに文句を投げつけるのはさすがに無粋だ。

 おとなしく黒い液体を堪能する。砂糖やミルクは必要なかった。もとからブラックを好んではいたが、そういうが混ざるとあれもこれもと欲が出てきてしまう。どうせあの監獄のような病室に戻るのならば、あまり甘やかさないほうが賢明だ。

 やがて一時の興奮もおさまったのか、天谷が口火を切ってくる。

「ひさしぶりの外の空気はどうですか」

 その言葉には思わず苦笑した。自分だっておなじだろうに、なんて喉まで出かけたそれをなんとか引っこめる。大通りを談笑しながら歩く平和ぼけした市民を遠目に、神崎は苦々しい言葉を吐き出した。

「こっちはいちいち煩わしいんだよ」

 なにが、とは言わなかった。天谷もそれについて問うことはせず、ただ曖昧な笑みを浮かべる。

 それに嫌気でもさしたように、神崎はあらぬほうへ乱暴に視線を投げた。

 目と鼻の先には、うつくしい街が広がっている。ごみひとつないクリーンな社会だ。エネルギーの効率性、持続性を意識した取り組みのおかげで、市民生活は国境線があった頃よりよほど安定している。外交問題で無駄にぎすぎすすることもない。だれもが平等で幸福な社会、なんて数十年前までは夢物語でしかなかったそれを、堂々公言できるようになっていた。

 それらはすべて評議会の功績とされていた。一度は崩壊しかけた世界を救った立役者、なんて肩書きとともに一目置かれる存在となり、いまでは人類の決定権すら握る最高権力者としての地位を確立させている。

 無論その効力がおよぶのは、この壁の内側に限られてはいるが。

 そんな現実に、ひとりかわいた笑いをもらす。

 まわりを見回せば、こどもたちが健やかに笑い、やさしげな両親と手をつないでいる。友人たちと何気ない日常を語り合い、恋人たちは愛を確かめ合う。

 ビルが建ち並び、住宅地には花々が咲き。うつくしい緑に恵まれた公園があり、明かりが十分満たされ、整備された道がある。

 絵に描いたような、「平和」な日常が築かれているからこそ。

 隻腕の神崎は、それだけで哀れみの視線を集めてしまう。

 彼らは、壁の外側でいまなお繰り広げられている悲惨な戦争を知らない。なんせ無垢で善良な市民だ。そうであるからこそ、神崎の失われた腕に一方的な感情を向ける。しかもそれが正しいと心の底から思っているからたちが悪い。


 戦争が忌避されるべきものである本当の理由を考えず、ただ喪われることだけを執拗に毛嫌いする。


 そんな彼らに、戦場に立ってみろと脅迫するつもりは毛頭ない。そんなことをしたところで民間人の死亡率が上がるだけだ。本末転倒どころか、目も当てられない結末を迎えかねない。そしてその結果、戦争反対の理想主義者をむやみに増やすのではまるで意味がない。

 堪えきれなくなったようにため息をこぼす。

 直接口に出さなくても、突き刺さる奇異の視線はどうして隠しようもない。

 皮肉なものだ。壁の内側に引きこもることで自分たちは守られていると錯覚し、その外側でどんな非人道的な行為が行われようと見向きもしない。それどころかこうして腫れ物のような扱いを受ける始末だ。英雄のようにもてなせと要求するつもりはないが、だれのおかげでかりそめとはいえ平和の恩恵を受けているのだと問いただしてもみたくもなる。

 これだから、壁の内側こちらは苦手なのだ。

 嫌味ったらしい感情を飲み下すべく、なみなみとコーヒーの入ったカップを傾ける。苦味がそれを中和してくれることをかすかに期待していたのだが、丁寧に豆から挽かれたそれでは効果は薄い。

 天谷もその決定的なずれを感じ取ってはいたのだろう。どこか気まずそうな顔をして、やおらに言葉をもらす。

「……珍しい、といったら、嘘になるんですけどね」

 悲しいことに、壁の外側にいるのは五体満足な人間ばかりではない。

 ある日突然戦場と化した故郷から逃げる際に、あるいは愛すべきものを取り戻すために臨んだ戦地で。地雷や砲撃によって手足を失ってなお、命があるだけましだと彼らは笑う。そうするほか、つらい現実を受け止めるすべを知らないとばかりに。

 その現実を、どれほどの市民が理解できるというのだろう。

 彼らもまた民間人にほかならない。だというのに、軍や評議会はそれを否定するかのような態度をとる。市民たちもそれに言われるままだ。皮肉なことに、その点ばかりは無意味なプラカード行進をする理想主義者の肩を担ぎたくなってしまう。

 あの戦場を見て、どれほどの市民が人類はみな平等だと断言できるのか。

 そんなことを思ってしまうのは、やはり軍人に向いてないせいなのだろう。

 寒々しいものが胸の奥に吹きつける。軍人の家系に生まれながら、これは本来歩むべき道ではないのではないかと何度も考えた。祖父から父へ、そして自分へとつながれた堅牢なレールの上で、ひとり立ち尽くす。本当にここでいいのか。もっとほかに、やりたいことがあったのではないか。そんなありきたりな葛藤が邪魔をする。

 無理に突き進もうとしても、今度は親類たちからの過剰な期待と外聞がひどく重くのしかかる。彼らは背中を押しているつもりなのだろうが、天谷にとっては正直足枷でしかなかった。

 そんなどうでもいいもののために、自分の人生を捧げるつもりはなかった。

「ひでぇツラしてんぞ」

 そんな醜い思考の海に沈みかけていた天谷を、神崎のその一言が現実へと引きずり戻す。

 しかし当の本人はそれに気がついてもいないのか、平然とした顔でコーヒーをすするばかりだ。その先に続いたであろう言葉すら、まるでなんでもないもののように酸味とともに飲み下す。

 そうして濁すのはやさしさだろうか。いや、と瞬きひとつでそれを否定する。

 そんな砂糖菓子のような感情こそ、にすぎないのだ。

「思い詰めたところでどうしようもねえだろ」

「そう、ですが」

「おまえがそこまで気を揉むことじゃねえよ」

 粗雑だが、これでもフォローのつもりなのだ。神崎のそれはいつもわかりづらい。しかしそのさりげなさは心地いい。

 無鉄砲極まりないくせに、昔からこういうときは見逃さないのだ。そのあたりはほんとうに頭が上がらない。

 学生時代はいまより輪をかけて無茶無謀をこれでもかと繰り返していたとしても、だ。おまえみたいな奴はみんなはやくに戦死するのだと脅されても、神崎はどこ吹く風を貫き通していた。それどころか格闘術では平然と有段者を投げ飛ばし、射撃においては学生最高記録がいまなお輝かしい記録として掲げられているものだから、教官もどこまで本気なのか判断しかねたのだろう。神崎ははじめから最後まで全力であったのだが、規格外はこうも他人の頭を悩ませる。

 ふいに思い起こされるそれらにひとり苦笑のようなものを浮かべながら、天谷もまたカップを傾ける。

 冷えかけてはいるものの、風味が損なわれるようなことはない。間に合わせに適当に買っただけではあったが、存外あたりだったようだ。そうしてかすかに口元を緩める天谷に、神崎はは、と吐息で笑う。

 カップの底に残った最後の一口を飲み干して、なにか発しようとした矢先。

 とてとてとおぼつかない足取りでひとり小走りに駆けていく五、六歳ほどの少年が二人の視界にやってきた

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