2-3
*
やっとのことでたどりついた病室で、深々と息を吐く。
このままベッドに倒れこんだら朝まで記憶を飛ばせる自信がある。褒められもしないそれに、まったく情けないと苦笑のようなものを滲ませる。
たかがリハビリ程度でこれほど疲弊するとは思ってもいなかった。想像していたよりなまくらに成り下がっていないだけ御の字とは思うものの、体力が落ちているのは頭が痛い。味気ない病人食で補うのもどだい無理がある。これ以上筋力が落ちる前にどうにか退院までこぎつけたいところだが、リハビリ同様時期尚早とつっぱねられるのが目に見えている。
戦場に戻るためのハードルは、それほど高い。
ただでさえ思ったように動けないというのに、片腕がないために狂ってしまったバランス感覚をどうにかしなくてはいけないという難題のおまけつきだ。ストレスがたまらないわけがない。馴らすだけでもかなりの時間を食うはずだ。思ったように動かせない忌々しさからつい舌打ちがこぼれてしまうのをどうして止められない。
そんなささいなことで苛立ってしまうのは悪い癖だ。そうわかっているものの、自分をうまく諫められたことは数えるほどしかない。だいたいは第三者が間を取り持ってくれるが、いつまでもそれに頼りきりというわけにもいかない。
これでは天谷も苦労するはずだと、自虐的に笑う。
ともあれ、体を動かすことが苦ではないのは唯一の救いだ。
言い聞かせるように、ぐしゃりと前髪をかき上げる。
トレーニングの亜種だと思えばいい。考えるまでもなく負荷がかかっているのだから、そういう意味では気楽だ。なんて言えば、おそらく天谷あたりが天を仰ぐのだろうが、知ったことではない。
乱雑に汗を拭い取る。ようやく軟禁生活から脱出したというのに、こんなことで発熱でもしたらまたしても手厚い看護生活に逆戻りだ。たやすく想像できるそれに、またひとつ苦虫を噛む。
担当医でもないドクターの独断と偏見を盾になかば無理矢理リハビリを始めたせいもあるのだろう。看護師連中からはどうにも嫌みったらしい視線を投げつけられている気がしてならない。ほかの患者に対する接し方とはちがってどこか棘のようなものが見え隠れするのだが、身から出た錆ということだろうか。そんなつもりではないと否定してまわる気もないが、これ以上振り回せばそのうち看護すら放棄されるかもしれない。もしくはベッドから降りられないほど過剰な看護体制をしいられるかの二択だが、どちらにせよ風当たりはかなり強いにちがいない。
外聞なんてものはどうでもいいが、この状況を天谷に知られると面倒だ。あれはよくもわるくも外面がいい。神崎がこんなところでも得意の傍若無人を発揮したとなれば、首の根を引きずってでも謝罪行脚に連れていかれる未来が目に見えている。笑顔でそういうことをやるからよけい
……考えただけで頭痛がしてきそうだ。それを理由に、この後に待ち構えているカウンセリングをキャンセルできないかというろくでもない考えすら頭をよぎる。
八つ当たり気味な舌打ちをこぼす。
正直、おもしろみのないリハビリよりもドクターとのカウンセリングのほうがよほど苦痛だった。
互いの考えのすり合わせのためだというが、はっきりいってそんなもの建前でしかない。現にこれまでに何度か行ったカウンセリングも、ドクターがよくわからないテクノロジーについて延々と主張するのに適当に相槌を打っているだけだった。すこしは学があればそんなことにはならないのかもしれないが、あれについていくとなると大学教授でも引っ張ってくるしかないだろう。天谷ならばあるいはとは思うが、ただでさえドクターに対する印象が悪いこの状況では、火に油どころかアルコールでもぶちまける結果になりかねない。
士官学校の座学でさえ睡眠時間にあてていた神崎には当然お手上げなのだが、ドクターはそれすら目に入っていないのかぺらぺらと勝手にまくしたててくる。水を差すのが申し訳なってくるような、というよりは素直に置いてけぼりにされているのだが、まったく残念なことにドクターにはそれを察する能力に極端に欠けている。本人だけが愉快そうなのが唯一の救いだ。
そんなものでも、暇を持て余した
そう理解してはいるものの、しかし退屈なものは退屈だ。
思い浮かべるだけでうんざりしてきたが、いまさらどうしようもない。
すでに鉛のような体をなんとか動かして身支度を調える。精神論はあまり得意としないが、こういうときはそのありがたみがわからなくもない。そう思うだけで、盛大に持ち上げてやつつもりはさらさらないが。
そうして時間どおりにやってきたドクターたちを平然と出迎える。また今日もカウンセリングとは名ばかりの長々とした独演会が始まるのかと思うとまったく憂鬱で仕方ないが、当人はそんな神崎の胸中などつゆ知らず、案の定彼だけが楽しい舞台を展開させる。本当にこれでいいと思っているのかは甚だ疑問だが、真正面から問いただしたところで素直に耳を傾けるような輩でもない。
耳半分にそれを聞き流しながら、壁際に並び立つ制服組を睨む。そうして彼らを引き連れてくる時点で馴れ合うつもりなどないのではないかとぼやくと、そうなんだよ、とやはり斜め上の同意がやってきた。
「僕も必要ないとは思うんだけどねえ。どうしても聞き入れてくれなくて」
ドクターの言葉を聞きながら、胡乱げな瞳を憲兵たちに向ける。これでいいのかと尋ねてみたいものだが、彼らは一環して無表情を貫くばかりでとりつく島もない。これほど分厚い鉄仮面だと剥ぎ取るのもなかなか至難の業だ。いっそ賞賛すべきそれに内心でのみ拍手をおくり、すぐさま変わるドクターの関連性のまったくわからない話に曖昧な相槌を返す。
するとまるで空気の読めないドクターは、ああ、と手を打って晴れ晴れとした顔をしてみせた。
「今日は君に是非見てほしいものがあるんだ」
やおらに、携えてきたトランクケースを示す。いままでせいぜいカルテくらいしか持っていなかったくせに、どういう風の吹き回しだろう。やけに重そうなそれに憲兵たちが手を貸すようなそぶりすら見せないのもまた気にかかる。ドクターのことだ。なにか重いものがあれば憲兵であれ顎で使いそうなものを、これだけはわざわざ自分の手で運んでいた。どうも他人には指一本でも触られたくないらしい。
そんな大事なものを見せつけられるような理由は特に思い浮かばないのだが、ドクターはにやにやとしながら、やけにもったいぶったようにトランクケースを開ける。
そこには銀の肌を持つ精巧な義手が、赤いベルベットの上で美術品のように鎮座していた。
それはまるで銀細工のようだった。職人が丁寧に時間をかけてつくりこんだ一品を眺めているような心地に襲われる。そういうものに親しみのない神崎でさえそう感じるのだから相当だ。目を奪われるといはこういうことを指すのだろう。そう思うほど、強烈な印象を焼きつけられる。
それに機嫌をよくしたのか、ドクターはいつもよりさらに饒舌に語り始めた。
「見事だろう? ここまでたどり着くのに、どれほど苦労したことか」
そこからたいそう複雑な説明が始まったが、理解不能な言語ばかりでまったくついていけなかった。しかし調子のいいドクターを止めるものはだれひとりおらず、ひとり熱く弁舌を振るう。それは端から見ればさぞ滑稽な様子だったろう。
しかしその「腕」は、一度射止めた神崎の視線を逃すことなく、じっとこちらを見つめ返していた。
それほどまでに、ただ美しかったのだ。まぶしいばかりの銀色の輝きは、そういう芸術作品だといわれれば納得できただろう。ヴィーナスの無き腕から着想を得たといわれれば素直に頷ける。それ自体、つい先日所蔵していた美術館ごと戦火に呑まれて瓦礫と消えたと聞いたばかりだ。その一報に怒りを覚えるほど高尚な趣味は持ち合わせてはいなかったが、ひとなみの喪失感を味わったのは記憶にも新しい。
指先まで端正さを失わず、ただそこにあるだけでひとを
同時、背筋の凍るような悪寒にも襲われていた。あまりに激しいそれに耐えきれず、ごくりと喉を鳴らす。目を離すことすらできなかったのはそのためだ。野生の獣同士が対峙するかのような緊張感とよく似ている。一瞬でも目をそらせば、深い闇の底に瞬く間にのみこまれてしまうだろう。それほどまでに強烈で、残忍で、圧倒的な。
そんなぎりぎりの綱渡り状態にもかかわらず、ドクターは見事だろう、と恍惚とした声を上げる。
「これこそ僕が作り上げた至高の義手」
――『ヘルメスの左腕』。
高らかに歌い上げるようなドクターの声でようやく現実に引き戻される。それにほっとして、それから苦笑のようなものを滲ませる。
たいした名前だ。たしかにそれでは、名前負けしない誇らしい評価が必要なのだろう。自分に狙いをつけたのはそのためか、とひとり納得したように頷いてみせる。
「たかが義手ごときに自信満々だな」
「それはそうだよ。これは持ち主を選ぶからね」
堂々言ってのけるドクターに怪訝な視線を向ける。だが彼はそんな些末なことはまったく気にも留めていないようだ。まるで宝石でも眺めるようなうっとりとした目をしながら、やさしく鋼鉄の肌をなで上げる。
「この『腕』をそこいらの義肢と並べて語ることすら、本来烏滸がましいのだから」
――語るその目の奥に狂気の色が見え隠れするのを、神崎は見逃さなかった。
いつから潜んでいたのかさだかではないそれに、ひとり居心地の悪さをおぼえる。
しかしその果てないものを瞬きひとつでかき消したドクターは、ふと思い出したように時計を確認すると、いそいそとトランクの口を閉じた。それにともなって、威圧的な空気もいくらか揺らぐ。
緊張の糸がすべてほどけた、とまではいかないものの、息苦しさはいくらか和らいだ。それを味わうのもそこそこに、ドクターはやおらに立ち上がる。
「残念だけど、これから別件があってね。今日はこれで失礼させてもらう」
珍しい、と口までで抱えたそれを慌てて飲み下す。いつもなら憲兵たちに時間だと急かされてもなお喋り続けようとするのだが、どういう風の吹き回しだろう。まさかいい加減観念したわけではなかろうに、とかく時間を気にしているのは妙だ。
そそくさと立ち去ろうとするその去り際、ああ、と思い出したとばかりドクターが振り返る。
「自慢ではないが、僕の『腕』ほど君に相応しいものはないと自負しているよ」
言うだけ言って満足したのか、それでは、と颯爽と去って行くドクターの背中に向けて、うんざりしたように息を吐く。
最後までとんだ自信家でなによりなことだ。そうしてようやく、愛しのベッドに沈みこむ。
なぜだか今日はずいぶんくたびれた。カウンセリングで受けた疲労のほうがリハビリのものをはるかに陵駕しているのは本当にどうかと思う。やはり体調不良とぬかしてキャンセルすればよかったといまさら臍をかむ。
それもこれも、あの『腕』のせいなのかもしれない。脳裏に焼きついた『左腕』の幻影を、苦々しくかき消す。
まったく非科学的だが、どういうわけかこの手の感覚はよく当たる。所謂第六感とかいうやつなのだろう。これのおかげでいままで数々の死線をくぐり抜けてきた。正直馬鹿にできない。
起き上がる気力もなくそのまましばらく唸っていると、いつの間にか意識を手放していたらしい。再び目を開けたときには、すでに夕暮れにさしかかろうという頃合いになっていた。思ったより眠っていたらしい。寝返りを打ちながらぐるりとあたりを見回すと、ベッド脇に松葉杖が立てかけられていた。そのまま上げた視線の先に、本を片手にした天谷を認める。
不意にぶつかった視線に驚きもしない天谷は、寝起きの神崎にいつもどおりの柔和な笑みをのぞかせた。
おはようございます、と時間帯をまるで無視した言葉がかけられる。生返事でそれにこたえ、ほうぼうの
どうやら宣言どおり、無事車椅子は卒業できたらしい。
真面目な性分はそんなところにまで顔を出してくるようだ。羨ましいを通り越していっそ呆れてしまいかねないのだが、すまし顔の天谷にそんな嫌味を投げつける気力も残っていない。
どうした、と視線で尋ねる。すると天谷はしばしあたりを気にするようなそぶりを見せてから、どこか困ったような顔をしてみせた。
「義手の件、どうにかなりませんか」
どこか気難しいものを浮かべていると思えばそれか、と神崎はつい苦笑する。笑い事ではないんですよ、と生真面目なそれにさらに笑みを深くすると、天谷はまったく、とため息をついてみせた。
それからややあって、いつもよりかすかに低い声を出す。
「あの男は信用できません」
「知ってる」
間髪入れないそれに、多少は面食らったのだろう。だがすぐにそれをかき消して、天谷は言葉を重ねてきた。
「あの申し出だって、あなたのためじゃない。自分の利益のために利用しようとしてるかもしれないんですよ」
「だから、だろ。類。ちょっと頼まれてくれねえか」
含みのある物言いにぴんと来たのだろう。かすかに目を見開くと、それから天谷はいつもどおりの綺麗な笑みをのぞかせる。
本当に察しがはやくて助かると、神崎はちいさく息を吐いた。
「いつの間にあなたの嫌いな軍の狗に成り下がったのかとひやひやしましたよ」
「そんなわけねえだろ」
むっと顔をしかめるものの、はいはいと右から左に流される。騙されているわけではないとわかって安堵したのだろうが、それにしても言い方がある。ついでに苦言でも呈してやろうかと思っているうちに、どさりと重そうなファイルがふとんの上に乗せられた。ご丁寧なことに、表紙には赤文字で機密文書、なんて銘打ってある。どこからそんなものを、と言いたげな瞳を向けるものの、当の天谷は涼しい顔をしたままだ。
「軍の情報機関を当たってみましたが、彼と合致する軍医は登録されていませんでした」
仕事がはやくて助かるが、それにしてもいったいどこからこんな情報を仕入れてきたというのだろう。ほんとうにこの男だけは敵に回したくないと切実に思いながら、ぱらぱらとファイルをめくる。
「代わりに、おそらく同一人物であろうと思われる男を収容所のリストから発見しました」
収容所、という単語に、神崎の眉がぴくりと跳ねる。それを認めながら、天谷は淡々と言葉を紡いでいく。
「たいした男ですよ。弱冠二十歳にして博士号取得。学生時代に得た特許等を担保に起業して、一時は天を衝くような勢いでそのまま業界トップに手をかけようとしたようです」
「それがあのざまってか? とんだ悲劇だな」
茶化すような物言いになにか言いたげな視線を向けられたが、気づかなかったふりを決めこんだ。そんなことで誤魔化されるとは思ってもいないが、わざわざ火に油を注ぐようなまねをしたところでなにも得しない。
「業績不振から脱却するため、あまりよくない輩とつるみだしたようですね。そのせいで評議会からも目をつけられて、強制捜査対象に。当然逃走も試みたようですが、憲兵たちのほうが一枚上手でした」
そのまま収容所へ連行、ということらしい。なるほどとんだ悲劇だと苦笑のようなものを浮かべる。不謹慎ですよと言いたげな視線が向けられたが、片手で払ってそのままだ。そもそもあんな男に同情なんてするほどお人好しではない。それは、天谷もよく知っていることだろう。
それにしても単なる犯罪者としてではなく、思想犯や戦争犯罪者をばかりが集められる場所に押しこめられたとは。そのあたりもなにか複雑な事情が隠されているにちがいないが、手持ちの情報ではそこまで判断しかねる。
「研究さえできれば満足するような男だったら、こんなことにはなってねえんだろうな」
「透」
たしなめるような天谷を一瞥してなお、神崎は皮肉めいた笑みを浮かべてみせる。
「問題は、どうして軍がそんな奴を抱えこんでいるのかってことだろ」
本質を突いたそれに、さすがの天谷も押し黙った。
ファイリングされた資料に目を通しながら、か細い糸をたぐり寄せる。
表向き、軍には犯罪者を匿う必要性がない。軍の掲げる大義名分は恒久平和だ。それをむざむざ放棄するどころか、自らリスクを負うようなまねをするとは不可解にもほどがある。そんなことが公になれば市民の批難を浴びるどころかいまままで築き上げてきた信頼さえすべて水の泡と化すだろう。いまでさえ反戦を声高に掲げる市民団体に手を焼いている状態だというのに、わざわざ自分たちの株を下げるものを抱えこむ理由がない。
そんな厄介の種を神崎の救済措置として差し向ける時点で怪しさ倍増だ。
いつの間になかよしになったのか、という戯れ言すら浮かぶ。理解してやるつもりもさらさらないが、どうせまともな理由ではないことは目に見えている。
そんな苦々しい本音を飲みこんで、神崎はただ、笑う。
「きな臭くなってきたな」
「……そう言うなら、せめて言動を表情を一致させてください」
頭を抱えるような天谷に、おっと、とおどけたように口元に手を添える。
芝居がかったそれに、天谷はまったくとため息をついて見せたがいまさらだ。なんせ神崎の問題行動は学生時代からだ。神崎の女房役、というよりはお目付役としての地位を確立させているに近い天谷にとっては、この程度もはや日常茶飯事に等しい。
まわりでさえそういう認識のもとに成り立っているのだ。天谷の気苦労を考えると正直申し訳ないという言葉では到底足りないのだが、それ以外にふさわしいものもないから困る。
しかしそう思ってもなお、容赦なくそれらをかき乱していくのが神崎透という男だ。
「いままで散々苦労させられてきたんだ。これくらいおもしろがっても罰は当たんねえだろ」
「自分にまで被害が及んでいてはあまり意味がないのでは?」
正論だ。しかしいいんだよ、と片手を振る始末の神崎に、これだからと天谷はかぶりを振る。
そんなあきれかえったようなそぶりをするものの、天谷が神崎を見限らないのは明白だ。
現にドクターに関する情報をこうして集めてきている以上、それを否定できるいわれがない。
これだから天谷を手放してやれないのだ。言わなくてもここまで察してくれるような部下はほかにいない。
そしておそらくそれと似たようなものを、天谷も感じ取っている。
そのままひとり渋面をつくった天谷に、は、と吐息で笑う。
おそらく心中に浮かんだそれは、神崎と同様のものなのだろう。
軍がおかしいのは、いまに始まったことではない。
ある程度まともな神経を持っている人間が聞けば、冗談だと笑うだろう。なんなら憤慨し、その証拠を見せてみろと突き返されるかもしれない。
だが同時に、彼らが正しいと根拠づけるものもどこにも存在しないのだ。
評議会の判断に左右されるまま、戦場で敵を倒す。それだけであればいい。だがその彼らにも仲間があり、家族がある。壁の内側の連中は、それを平気で踏みつけて平和を叫んでいる。それがどうして正しいのか、判断する物差しを彼らはどこで手にしているというのだろうか。
いつの時代も戦争は悪だが、それをだしにうまい汁を啜る連中はより害悪だ。
まったく馬鹿馬鹿しいにもほどがある。それを平然と隠している上の連中も、それに気がつかないほかの人間もみんな同罪だ。
なんせ小綺麗な顔をした正義だけで平和が維持できるなら、そもそも戦争になんて至っていない。
盛大な舌打ちがこぼれたが、そんなことをいちいち諫めていてはきりがないのだろう。天谷はなにも言わなかった。
そもそも軍人なんてものは所詮使い捨ての駒にすぎない。見てくればかりいい勲章や階級なんてもののために命を賭けられる人間がそういるわけがないのだ。だれも皆、自分と自分のまわりの大切なものを守るだけで精一杯のはずだ。他人のためにその身をなげうってやれる博愛主義者なんて幻想にすぎない。
そんな成人君主ばかりいるならば、この争いはいったいなんだというのだろう。
まったくなにもかもが馬鹿馬鹿しい。寝起きで乱れていた髪をぐしゃぐしゃとかきあげる。
それを見ていた天谷は、ふとまるでいいことを思いついたとばかり、いやに明るい声を上げた。
「あとで私の散歩にでも付き合ってください」
「はぁ?」
脈絡のまるでない申し出に、さすがに素っ頓狂な返事をする。しかし天谷はそれを気にもとめず、満面の笑みを浮かべていた。
……ろくでもないこと思いつきやがったな、とさすがの神崎も閉口する。
「看護師の方にはうまく言っておきますのでご心配なく。あなたの気晴らしにはちょうどいいでしょう」
そのまま善は急げとばかりに颯爽と去って行く天谷を、なかば呆然とした心地で見送る。反論の機会どころかこちらの意見に耳を貸すそぶりすらなかった。そういうことはたまにあるのだが、まさかこんなところで発揮されるとは思いもしなかった。
ひとしきり静かになった病室で、ようやく流れを把握したようにくつくつと喉を鳴らす。
あれも自分のせいでずいぶん悪くなったものだ。融通のきかない堅物優等生がまるで嘘のようなかわりようだ。学生時代しか知らない連中が見たら腰を抜かすにちがいない。いや彼らの場合、まだ自分と天谷がつるんでいることに薄ら笑いを浮かべてそのまま消えていなくなりそうだが。
久しく連絡すら取っていないが、彼らもどこぞの戦場に駆り出されているのだろう。そしてその多くはそのまま戻らない。
開け放たれた窓の外から、冷たい空気がひっそりと忍び寄ってくる。
仕方のないことだ。そのままゆっくりと、目を閉じる。
戦場に神などいない。いるとすれば死神だろう。神崎自身がそう呼ばれているように。
まったくひどい呼び名だ。そう思う反面、それ以上に自分に相応しいから度しがたい。
ともあれ、あんな機嫌のいい天谷を見られたのはよかったのかもしれない。
看護師たちを納得させるのはかなり骨が折れる作業になるはずだが、そこは天谷の腕の見せ所だ。あれはとかく口がうまい。神崎でさえ騙されないようにするのがせいぜいだ。ここの看護師たちがどう出るか、高みの見物をさせてもらうのも悪くはない。
そんなことを思いながら、神崎は再びするりと意識を手放したのだった。
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