2-2

  *




 煙草が恋しい。

 病人らしからぬ思考が頭を埋めつくして、やがて耐えきれず大きく息を吐く。

 ニコチン不足にこの小綺麗な環境は素直にきつい。新手の拷問だと訴訟を起こしてもいいくらいだ。以前天谷にぼやいたときはなんとも形容しがたい目を向けられたのだが、小言がやってくることはなかった。言いたいことがあるなら素直に言えと思ったものの、それで容赦ない正論をまくしたてられたらそれこそ寝こんでしまいかねない。

 ともあれ、こんなところで気軽に話し相手になるような人間もほかにいない。しつこくはびこる苦虫をなんとか噛みつぶし、かわりばえのしない窓の外をぼんやりと眺める。

 まだ安静に、と繰り返す看護師の声にもいよいよ飽きた。なんせ病室から出るどころかベッドから這い出ようとしただけで鬼の形相ですっ飛んでくるのだ。白衣の天使もこれでは形無しだ。そのくせしたいことがあればなんでも言ってくれていい、とは言うが、馬鹿正直にいちいち呼びつけるのもはっきりいって面倒だ。左腕を失ったとはいえほかは健康そのものなだけに、入院生活もすっかり持て余している。

 いっそ迷惑だと真正面から苦情でも突きつければいいのかと考えたのは数え切れないほどある。患者にも最低限の権利はあるとでものたまえば、それなりに聞こえるだろう。もっともそのせいで、よりいっそう厳しい監視下に置かれては元も子もないが。

 さて今日はどうやって抜けだしてやろうかと策を巡らせていると、ノック音が室内に響いた。

 珍しいこともあるものだと首をかしげる。回診ならば先ほど終えたばかりだ。なにか懸念事項でもあったのかと思ったが、わざわざ伝えるために戻ってくるような大事なことを忘れるはずがない。見た目こそ気弱そうだが、その実したたかなところのある医者だ。ああいう輩こそ敵に回すと面倒だということは、自身の副官を見ていればいやでもわかる。

 そうして顔を出してきたのは、やはり見慣れない男だった。

「神崎透中尉、でいいのかな?」

 よれた白衣の袖には軍医を示す腕章がかろうじてつけられてるが、その下はどう見繕っても上等とはいいがたい白シャツにスラックスだ。臨時で雇われた町医者と名乗られたほうがまだピンとくる。そもそも本当に軍医ならば軍服の着用が義務づけられているはずだが、それを強制されていないとくればの線がはるかに高い。そのうえこの暑いのにきっちり詰め襟を着こんだ軍人を三人も引き連れ、なおのらりくらりと自身のペースを崩さないあたり、厄介な人種であるのは一目瞭然だ。

 いったいどういう了見だと訝しげな視線を制服連中に投げつける。しかし目深に軍帽をかぶりこんだ憲兵たちは、友好的に対応するつもりは一切ないらしい。あろうことか敬礼のひとつさえなく、黙って応対しろとばかりの横柄な態度に、は、と吐息で笑う。

 戦場に立ったことのない後詰めのくせに、プライドだけは人並み以上にあるようだ。

 場外で苛烈な火花がばちばちと散る。しかし白衣の男はそれにはまったく興味がないのか、なおへらへらとした笑みを浮かべるばかりだ。この険悪な空気のどこを見てそんな顔ができるのか、いっそ不思議でならない。

 それどころかただでさえ淀みきっている雰囲気をさらに混沌とさせようと、一石を投じてくる。

「そう警戒しないでくれ、と言いたいところだが、僕もこの通り少々訳ありの身でね。気軽にドクターとでも呼んでほしい」

 ますます胡散臭い。そう眉間に皺を寄せるも、このドクターはまったく気にも留めていないようだ。それどころかいそいそと断りもなくベッド横の椅子に腰掛け、持参してきたカルテらしきものに目を走らせている。いったいどこからそんなものを持ち出してきたのだろう。場合によっては訴えてもいいくらいだ。

 その不穏な考えを先回りしてか、制服組がよりいっそう圧をかけてくる。なかば殺気にちかいそれは、要人警護ばかりにいそしむ壁向こうの軍人崩れにしては悪くはない。それに免じて見過ごしてやるほどのお人好しでもないのが残念だ。

 そう告げる代わり、ふんと鼻であしらう。

 心臓の弱い患者がいたらそのまま卒倒しかねないほどのひりつく空気が病室に充満する。個室を与えられてよかったとこれほど思ったのは今日がはじめてだ。これほど悲惨な光景を何も知らない赤の他人に見せる蹴るのはいかに神崎といえどさすがに心苦しい。

 とはいえ至極居心地の悪い病室のなか、ひとり素知らぬ顔を貫き通すこの男もどうかしている。ふむ、となにかに納得したかのような声をあげてようやく視線を上げたドクターは、さも当然とばかり要望を口にした。

「左腕の具合を診せてもらっても?」

「……初対面の人間相手にずいぶんな挨拶だな」

「気を悪くしないでほしいなぁ。医者と患者なんてそんなものだろうに」

 突き放したところで別の面倒事が増えるだけだと察するのに、さほど時間はかからなかった。

 ちらりと憲兵たちの出方をうかがう。仏頂面の彼らが懇切丁寧に状況説明してくれるなんて夢にも思っていないが、それにしても言葉が足りなさすぎる。エリートを気取るくらいならそれ相応の態度を見せてほしいものだが、その願いが通じることはどうしてない。

 これだからえらそうな奴は嫌いなのだ。おおげさなため息をついてみせたところで、自分たちに非があるとはすこしも思わないのだろう。いっそ見習いたいほどの図太さだ。なんて、天谷が聞いたら途端に顔をしかめそうな感想を胸に抱く。

 仮にも病人相手に現役軍人を三人も引き連れてきたあたりでこちらに選択肢などないに等しいのだが、そういう気遣いができるようであればそもそも軍人になどなっていないのだろう。

 やれやれとばかりに肩をすくめる。

 天谷がいればうまく対応してくれただろうに、今日に限ってまだ顔を出していなかった。可能な限りはやく車椅子を卒業すると宣言する元気があるくらいだからほいほいやってくればいいものを、現実はどうしてうまくいかない。

 返事の代わりに舌打ちし、いやいやながら左袖をまくり上げる。

 そこにあるべき左腕ものがないという現実はとっくに受け入れていたつもりだったが、こうも注視されるとやはり気まずい。見物料でもせしめてやりたいほどだ。そんな神崎の心境などつゆほども知らないドクターが、ほう、と目を細めて了解もなく患部に触れてくるのにはさすがに辟易したが、その程度で音を上げる弱腰と思われるのも癪だ。

 沸騰するような腹立たしさを歯ぎしりして耐えること数分、ひとり満足げなドクターがうんうんと頷いた。

「これなら、存外綺麗にくっつくだろう」

「……勝手に話を進められちゃ困るんだが?」

 腹に据えかねた言葉をなんとか吐き出すと、ドクターはさも驚いたとばかり目を大きくさせる。

「これは失敬。先走りすぎてしまうのは僕の悪い癖でね」

 問題はそれ以外にもおおいにあるのだが、この調子では問いただしたところで悪気はないとかぬかすにちがいない。それならばと監視役の詰め襟どもをぎろりと睨むも、任務の範囲外だとばかりの鉄仮面をかぶり続ける始末だ。まったく話にならない。これだから中央勤めは勝手がきかなくて困るのだと、本日二度目の盛大な舌打ちをこぼす。

 それでもなお脳天気なドクターは自身の白衣をごそごそとまさぐって、なんとか発掘した文書をここぞとばかりに掲げてみせる。

「評議会から通達が来たんだ。君に、僕の義手をつけてほしいと」

 思いもしない提案に、第一耳を疑った。

 ついで、は、と情けない言葉が滑り落ちる。

 にわかに信じられないと、奪うように文書を手に取る。そこには先程の言葉と同様の文字列が並んでいるうえ、ご丁寧に総司令官の署名捺印つきときた。これで偽造ならばよくもまあここまで手のこんだまねができたものだと感心するところだ。

 驚く、というよりは理解しがたいそれについていけず、神崎ばかりが目を白黒させる。

 ――なんせあの退屈極まりない議会の連中が、自滅に近い負傷兵ごときにわざわざ心を砕く理由がない。

 なにかの間違いだと考えるのが当然だった。しかしその動揺を見透かしたように、訳知り顔のドクターはにたりと口角をつり上げる。

「僕の義肢は少々でね。誰彼構わずつけるわけにはいかないんだ」

 だが君なら、申し分ないだろう。

 ひとりご満悦なドクターは、そうして颯爽と立ち上がる。

「気が向いたらここのスタッフに声をかけてくれ。本格的な処置はそれからにしよう」

「ずいぶん前向きなんだな」

 まるで神崎が断るとはみじんも思っていないようなもったいぶった口ぶりだ。とっさに皮肉めいたものしか返せない神崎にさえ、ドクターは当然とばかりの笑みを浮かべてみせる。

「君だって、いつまでも片腕そのままでいるつもりはないんだろう?」

 その余裕綽々といった仮面を剥ぎ取ってやりたくなった。が、そのいらだちに似た感情をあっさり手放す。

 ただの道化かと思ったわりに、存外痛いところを突いてくるものだ。そうして口を閉ざした神崎に、そうだろうとわかったような言葉が降り注ぐ。

「僕の義手ならば間違いなく戦線復帰できる。無論うまく適合すれば、の話ではあるけどね」

「適合?」

「言っただろう。僕の義手は特別なんだ」

 ドクター、と憲兵から鋭い制止の声がかかる。どうにもこの場で詳細を話すことには問題があるらしい。余計なことを、と憲兵を睨みつけたが、うんうんと片手を挙げてこたえたドクターは、気だるさ漂う白衣を翻す。

「それではお大事に。神崎透君」

 粘着質な呼び方に、ついぞわりと背筋を震わせる。それだけでひとを不快にさせるなんてよほどがあるにちがいない。

 くだらないことを考えながら、去って行く彼らの背中を見送る。

 文字通り嵐のように来てそのまま去って行ってしまった。唐突すぎる展開についていけず、いまだ呆然とベッドの上で目をしばたく。

 白い病室は、何事もなかったかのようにしんと静まりかえっている。

 やがて気が抜けたように、ぼすんと枕に倒れこむ。変な連中の相手をして気疲れでもしたのだろうか、どこかぼんやりとした頭のまま、天井を見上げる。

 挑発するような態度をとればすこしはが出るかと思ったのだが、そうかんたんにはいかないらしい。

 あちらも大概馬鹿揃いではないということだ。最近ろくでもない指令ばかり届いていたから、つい試してみたくなったのだ。なんて、ずいぶん勝手ないいわけをひとり並べ立てていると、再び控えめなノックがこだました。

「透?」

 やってきた天谷に、片手をあげてこたえる。浮ついた表情になにか不穏なものでも感じ取ったのか、急に真面目な顔をした天谷が余計におかしくて、さらにけらけらと笑い出す。

 そのまま面白半分に顛末を話すと、天谷は予想どおり険しい顔つきをのぞかせた。

「正気ですか」

 もっともだ。ほら、と先程見せられた書面を顎で示す。それをしげしげと何度か読み返しては渋面をつくる天谷につい苦笑をこぼすと、笑い事じゃありません、ととげのある反論が返された。

「なんですかこれ」

「評議会からの通達だっつってんだろ」

 それが信じられないのだと顔に書いてあるのがまたおかしくて、にやにやと口元を緩めれば茶化している場合じゃないんですよと珍しく噛みつかれる。

「人体実験もいいところじゃないですか」

「……おまえ、めちゃくちゃ言うようになったな」

 天谷にしては乱暴さが目立つ言い方だ。学生時代ではまったく考えられなかった語気の強さに、どうして愉快さを感じずにいられるのだろう。

 とはいえ、天谷もそれなりに混乱しているようだ。らしくない切羽詰まった顔つきを横目に、やれやれと肩をすくめる。そんなものでごまかされるとはつゆほども思ってもいないが、安っぽいアピールでもまったくしないよりはいくらかましだ。

「まさか承諾するわけじゃありませんよね?」

「するに決まってんだろ」

「……透」

 地の底から響くような声色にこらえきれずちいさく吹き出すと、じとりと睨み返された。

 元気そうでなによりなことだ。これならたしかに車椅子からの卒業も時間の問題なのだろう。真面目な天谷のことだ。熱心にリハビリに励む姿が容易に想像できる。

 そんな神崎とは正反対に、まったく、と天谷は頭を抱えるようなそぶりをする。

「まだあの騒ぎから一週間も経ってないんですよ?」

「わかってるっつの。ほんとうるせーな」

 まるで不出来な息子を叱る母親のようだ。しかしそれを口に出したが最後、笑顔でねちねちと小言を連ねてくるのが目に見えている。

 想像しただけで気分が悪くなってきた。誤魔化すように、がりがりと前髪をかきあげる。

「このまま引き下がるつもりはねえって言ったのおまえだろうが」

「そういう意味で言ったんじゃありません」

 じゃあどういうつもりだったんだよとへりくつを捏ねる。当然ながら言い淀む天谷に、神崎はさらに畳みかけた。

「俺にこのままでいろってのか?」

「透、」

「除隊するつもりはねえんだよ、俺は」

 まったく狡い言い分だ。押し黙る天谷を見ながら、自分でもそう思う。

 そう言えば、天谷が言い返せないと知っている。

 左腕欠損を理由に除隊なんてとんでもない。それは神崎の本心だ。口にこそ出さないだけで、天谷もそう願っていることくらいとっくに知れている。庇われたという引け目を抜きにしても、相棒として背中を預けてきた片割れをこうもあっけなく喪ってしまうのはどうにも惜しい。

 わかっている。だからこそ、だ。

 触れたくもない苦汁を嘗めさせられる。そんなことばかりでまったく飽きないのかと思うほどだ。

 これをのめば、前線復帰は約束されたに等しい。しかし同時に、今後軍からどんな理不尽な要求をされても受けるしかなくなってしまう。

 天谷が危惧しているのはそのためだ。ただでさえ上の命令を素直にきいた試しのない神崎のことだ。事実そんなものに成り下がってしまったらどうしようもない。くわえて、天谷を庇ったがゆえの負傷という自責の念が、邪魔立てしているのだろう。

 真面目すぎるのも困ったものだと、だれにともなくため息をつく。悪いことではない、が、しなくてもいい反省は自身の首を絞めることになる。

 そもそもではどうすればいいのかなんて野暮な言葉で、天谷を惑わせるつもりはない。戦場にありたいとするのは神崎のエゴだ。天谷のためでも、まして都市で健やかに暮らす人々を守るためでもない。

 ――戦場で生き、戦場で死ぬ。

 そう望んだのはほかならぬ自分自身だ。たとえ理不尽に命を落とすことになろうと、なまぬるいこの社会で飼い殺しにされるよりはよほどいい。血の気が多く、喧嘩早い自分にはちょうどいい。

 そんなな動機からスタートしたものが、いまや天職とさえ思うようになるのだから、人生なんてものは不思議でならない。

 しかし話だけですっかり憔悴したらしい天谷は、難しい顔のまま出直します、と言ってそのまま病室を去ってしまった。自力脱出の不可能な神崎には追いかけるすべすらない。相手が車椅子だとて、いまの神崎はまったくの無力だ。

 がらんどうな個室に、空虚さだけが我が物顔で居座り続ける。

 これならば銃口を突きつけられているほうがよほどましだった。

 染みひとつない白い天井を睨む。そこに答えはないと知りながらも、しかしそうするほかやることもない。

 薄手のカーテンが舞い上がる様を眺めながら、ゆっくりと目を閉じる。

 さすがにいささか疲れた。まだ体を休める時期だと説教されるのも道理だ。このざまではまったく否定のしようがない。毎朝顔を合わせる看護師をお節介婆と罵ったことを心のなかで詫びながら、ゆるやかに意識を手放す。

 それからの時間は、ひどくゆっくりと流れていった。

 寝て、起きて、いやいやながら食事を詰めこんで、また眠る。単調で穏やかなの繰り返しのなかでじわじわとなにかが失われ、曖昧さばかりが大きく膨れ上がる。

 そのぼんやりとした流れをき止めたのは、やはりあの男だった。

「やァ神崎君。今朝の目覚めはどうだい?」

 性懲りもなく無表情な憲兵たちを背にやってきたドクターに、どこかうんざりしたように肩を落とす。

 よもや天谷よりも先に顔を合わせることになるとは思ってもいなかったが、あちらも入院中の身だ。毎日顔を合わせないと寂しくて死んでしまう兎のようなけなげさを持ち合わせているわけでもなければ、たかだかそれだけのことで心配してやるような可愛げある男でもない。

「そう簡単に変わってたまるかよ」

「それもそうだ。この手の治療には時間がかかるからね。気長にやるといい」

 僕でよければカウンセリングでもしようか、ととんでもない提案は聞こえなかったことにした。ただでさえ憲兵たちがこうも並んでいては、リラックスなんてできるはずもない。

 相変わらず勝手に椅子を占拠したドクターにはすでにかける言葉もない。口にしたところで、すんなり納得するような人種であるとはどうにも思えなかった。そういう意味ではのかもしれないが、これほど嬉しくもない同類もなかなかいない。

「君はどうして、軍人に?」

 また突拍子もないことを訊くものだ。呆れ半分に笑いつつ、なげやり気味に口を開く。

「ほかにやりたいこともなかったからな」

 振り返れば、あまり褒められた幼少期ではなかった。上級生や他校生とささいなすれ違いから喧嘩や小競り合いばかり繰り広げているうち、周囲はだんだん離れていった。危険分子から距離をとろうとするのは当然だ。白い目を向けてくる彼らに同情しながら同時にその孤立も受け入れ、やがてすべてがどうでもよくなった頃。士官学校への入学案内が目に入った。

 ほかに進学するよりは金も時間も無駄にならない。それどころか将来の道も拓けるとあっては、ここしかないとさえ思ったほどだ。とっくにいない父への恨み言を常々口にする母親の傍にいるよりは精神衛生的にもよほど恵まれている。進学すること自体に一度は渋った母親も、金食い虫にならないことと全寮制であることを全面に押し出せばわりとすんなり了承した。それほど子どもがお荷物であったのかと思うとさすがに寒々しいものをおぼえずにはいられなかったが、しかし堂々と家を出て行けることに胸をはずませたものだ。

 そこから先は、わりにしあわせだったのかもしれない。

 天谷という無二の友人を得、ここまで走ってこられただけでも御の字だ。しかしその本音をドクター相手に晒すことは憚られ、有耶無耶に誤魔化す。あちらもさほど興味はないのか、ああ、と適当な相槌をする。

「僕も似たようなものだったよ。かと言って、ほおかに秀でたところもなかったしね」

 ……仮にも医者になれた身でよくもまあそんな口がきけたものだと、かるく目を見張る。が、言葉に出さなかったことで同意したとでも判断したのだろう。それからああだこうだと不満を並び立てていくドクターに、空返事だけをこぼす。

「ざっと経歴を見せてもらったけれど、実際かなり優秀なほうだろう? これは確かに、手放すのは痛手だ」

「運がよかっただけだろ」

「そうだとしても、ここまで生きてこられたのはそれ以上のなにかがあったおかげだ」

 存外まともなことも喋れるらしい。そうかすかに目を細めるも、つづく言葉にすぐさまそれを撤回する。

「君は、そういう神にでも愛されているのかもしれないね」

 突然なにを言い出すのかとさすがに瞠目する。だがドクターの好奇に満ちあふれた視線を浴び続けるのはさすがに耐えきれないと、乱暴に黒髪をかきあげた。

 それからおざなりに、神崎が口を開く。

「ひとつ聞きたい」

「なんでも。と言いたいところだが、このとおりのある身でね。可能な範囲でお答えしよう」

 言いながら、背後に控える彼らに視線を飛ばす。どうもドクターも煩わしいとは思っているらしい。予想外だった、という本音を口にするのは我慢できたが、表情には出ていたのかもしれない。それでも相変わらず無愛想な能面面を引き下げている彼らは、険のある目でこちらを睨むだけで何も言わない。文字通りその場に立っているだけであればどれほど気楽であろうに、しかしそれは許されないとするのだから意地が悪い。

 そのだけはおおいに買うが、それだけだ。

 言いたいことがあるなら口で言えとでもいいたげに壁際を陣取る彼らを一瞥する。

「あんたの腕があれば、俺はのか?」

 問いかけに、ドクターは当然だとばかりに笑ってみせる。

「――無論だよ。いままでとは比較にならないほどの成果をあげられると約束しよう」

 いったいその自信はどこから来るのか。

 作り上げたその笑みの裏側をどうにか暴いてやりなくなるのを、なんとか堪える。

 いま追求したところで、まともな答えは返ってこない。はぐらかされるのがオチだ。たやすく察したそれに、やはりこみあげてきた苦虫をなんとか噛み砕く。

 とはいえ折り合いの悪すぎる上官たちがさっさと出て行けとせっついてくるのは時間の問題だ。それをはねのけるのはたやすいが、どうせなら完膚なきまでに黙らせたいところもある。

 そもそもあくまで選ぶのは神崎こちらだというスタンスもどこか気に食わない。そうやって気づかぬうちに主導権を握ろうというのだろうか。上層部とのパイプまで匂わせてきた以上、迂闊なまねはするべきではないが、黙って従うのは癪だ。

 あくまで慎重な姿勢を崩さない神崎に根負けでもしたのか、ドクターは仕方ないとばかり手札を開示する。

「僕はこの義手で成果を出さなくてはならない。そのために君が必要なんだ」

 わかるだろう? と小首を傾げるドクターを鼻で笑い飛ばす。

 ずいぶん下手に出てきたものだが、目の奥底にぎらつく光までは隠しようがなかったらしい。否、

 だとしたらまったく度しがたい。が、そうであればこちらにもやりようがある。

 わかった、とひとつ頷く。それに喜色を浮かべたドクターは、背後の制服組などまるでいないかのように文字通り飛び上がって、神崎の右手を力強く握る。

「君の決断に最大の敬意を」

 さて、とドクターはにたりと弧を描く。

「無論リハビリはより過酷なものになるが、構わないね?」

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