2-1
一度は死んだと思ったのだ。
あてもなく暗闇をさまよいながら、ついにやったかと自嘲する。
遅かれ早かれ決まっていたことだ。死なない人間などいはしない。まして軍人なんてものは、死ぬときは異様にあっけない。しかもいい奴ほど余計にはやい。なんせ昨日までともに肩を並べていたはずの戦友が、次の日にはいなくなっていることが日常でさえある。
だからいつかこうなることは、わかっていたのだ。
無心に足を動かし続ける。こう殺風景だと見知っただれかが道案内にでも来てくれればいいのだが、悲しいことに人望がなかったらしい。
もしくは、まだ来るなとでも言われているのか。
いや、とひとり首を横に振る。ただでさえ「死神」なんて揶揄されていたような人間だ。喜びこそすれ、拒絶されるようなことはないはずだ。
それに生き急ぐなとあれほど天谷に叱責されていた人間が、いまさらどんな顔をすればいいというのだろう。
力なく笑う。もうそうすることしかできなかった。
あのとき爆弾に気がつけたのは、まったくの偶然だった。
なんとなく嫌な予感がしたのだ。だから考えるよりも先に体が動いた。ただそれだけのことだ。後悔もなにもない。
ただひとつ気がかりがあるとすれば、あの白紙の遺書を天谷に読ませてしまうことだ。
ほかに渡すべき身内はとっくにいない。となれば、天谷の手に渡るのはもはや必然だ。
本人はまったく不本意だろうが、これも規則だ。さらにあの理不尽なものに則るならば、次あの部隊を率いるのは神崎の副官である天谷になる。
暗がりにずぶずぶと足をとられる。まるで底なし沼に引きずりこまれるような感覚だ。これが死かと思うよ、やはりいささか気味が悪い。
だんだん全身が重くなってくる。手足を動かすのも、考えるのも億劫になる。
もういいか、と思った。これでも十分頑張ったほうだ。迷惑もそれなりにかけたが、そればかりでもなかったはずだと信じたい。
……悪いな、と口を動かす。せめて天谷だけでも、と願いを託すが、どうなったかはさだかではない。天谷は自分とちがって日頃の行いがいいから、もしかしたら助かっているかもしれない。
苦笑する。そしてゆっくり、目を閉じる。
そのまま闇に沈んでいくかと思われた神崎の体に、無数の白い手が伸ばされる。暗闇の底から押し上げるように、あるいは、上へ引っ張るように、支えられる。
その慈しむような手のぬくもりを、しかし神崎自身は、おぼえてはいなかった。
目を開ける。
射しこむ忌々しいほど清々しい朝日に、クソッたれ、と悪態つく。
ひどい寝汗だ。全身がべたついて気持ち悪い。不快感はそれだけに留まらないのだが、すべてを言葉に表すにはずいぶん難しい。
起床時刻を告げるけたたましいラッパに代わり、おはようございますと降りかかる明るい声に訝しげな視線を投げる。プライバシーが尊重されないことに対するささいな反抗だ。それでも看護師は慣れているとばかり、ベッドに横たわったままの神崎につくりものの笑顔を向け、てきぱきと栄養バランスのとれた小綺麗な朝食を並べていく。当然拒否することもできたが、その場合は点滴を増やすことになりますという脅迫を受けてからは渋々食べることにしていた。白衣の天使が聞いてあきれると不服を述べても、彼らは朗らかに笑うばかりで話にならない。いっそそういう対応マニュアルでもあるのかと疑ったほどだ。どいつもこいつも仕事熱心で結構なことだ。次々こみ上げてくる文句をなんとか押しこめ、がりがりと寝癖のついた髪をかき上げる。
――空っぽの左袖を、ぷらぷらと揺らしながら。
意識が戻ったのは三日前だ。
はっと開いた視界に映る見知らぬ白い天井。それににぎょっと飛び起きて、ちょうど様子を見に来ていた看護師に慌てて制止される。
「まだ安静にしていてください! 手術を終えたばかりなんですよ!」
手術、とやけにおぼつかない単語を繰り返したところで、鈍痛が遅れてやってくる。
思わず顔をしかめるもどうしようもない。苦痛にあえぐうちに積まれたクッションにおとなしく背中を預け、されるがままかんたんな意識レベルの確認を受ける。
初めて違和感を覚えたのは、そのときだった。
左半身が妙に軽い。麻酔がまだ効いているせいだろうか、熱に浮かされているような感覚に襲われながら、看護師の話などうわの空に、左腕に手を伸ばす。
そこに当然あるべき腕は、肘より少し上のあたりからばっさりと失われていた。
顔が引きつる。目の前が真っ暗になる。何故、という疑問すら浮かばずに。
それに気がついてだろう。落ち着いて聞いてくださいね、とまるで子どもを諭すかのような口調で、淡々とした事実を告げられる。
過激派の強襲にはじまる時限爆弾による無差別テロ。騒ぎにかけつけた応援部隊が重体の神崎と天谷の両名を発見。そのまま病院へ救急搬送したものの、神崎の左腕は再起不能と判断されたのち、やむなく切除。天谷については脚の治療のため、同病院にて入院中。
そんな一連報告のなか、ふと思い出したように口を開いた。
「……チビたちは?」
切り出されたそれに、看護師の顔が思わず曇る。
それだけで十分答えたようなものだ。
力なく虚空を見上げる。
なにもできなかったのだ。あれだけ彼らのために心を砕いてきたつもりで、実のところ救えたものはなにもない。ただ自分と天谷だけがのうのうと生き延びた。
畜生、と低く呻く。それと、とさらに気まずそうに、看護師の男はもごもごと口を動かす。
それに再度、神崎は耳を疑った。
「…………解散?」
まるで信じられないとばかりそれを口にする。あまりの衝撃で、一瞬にして頭の奥が真っ白に染まる。
ええ、と肯定する彼も同情的なのか、渋い表情をのぞかせる。
「もう外はもぬけの殻らしいですよ。ちかくすべて撤去するとか」
言葉が濁るのは、愕然とする神崎に対する哀れみだろうか。
そうであれば、怒りの矛先を彼個人に向ければいいだけだ。それを向けるべきは自分ではないと激情のまま突き返せばいい。
しかしきまりの悪そうな声色に、むき出しの感情を押しつけることはどうしてもできなかった。
残念です、と力なく続いた言葉に、ただ呆然とする。
またしても彼らは生活圏を奪われたのだ。ほかならぬ恒久平和を高々と掲げる軍によって。
ただ普通に生活したいというささやかな願いすら叶わず、蹂躙される。それがどんなに悲痛であるか、壁の内側でのうのうと暮らしている彼らには永遠にわからないのだ。悲鳴も嘆きも聞こえない。そのまま平らにならせば、はじめからそんなものはなかったとすり替わる。
たやすいことだ。けれど無くなった左腕よりもずっと、その喪失が深く胸を抉りとる。
爪が白くなるほど握りこまれた拳を、ベッドの上に叩きつける。
「無茶苦茶だろ……っ!」
「僕もそう思います。でも、そんなこと上層部にはどうでもいいんですよ」
なんたって、あのひとたちは自分たちのことしか見えていないんですから。
思い浮かぶまま罵詈雑言を吐き散らしたかったが、その前に体が限界を叫ぶ。ひくりと喉をひきつらせて咳き込むと、どうぞ、と手際よく水差しが差し出された。おとなしくそれをくわえて、生ぬるいそれをなんとか飲み下す。
ぐらぐらと床がゆがんで見えたのは、術後の高熱のせいだ。
介助されるままベッドに戻されて、引導のように降りかかる慰めの言葉をかみ砕く。
「お大事になさってくださいね、中尉」
なすすべもなくシーツの海に沈んでしまう自分が、どうしようもないほど非力で憎ったが、どうして力が入らない。抗えないほど弱り切っていることを認めたくはなかったが、さすがに限界だ。
遠のいていく意識のなかで、畜生、と再び怒りの言葉を吐き捨てる。
おめおめと生き延びたことを呪い続けてすでに三日だ。
消えてなくなるどころか、よりいっそう色濃くわだかまるそれを忘れ去ることなどできるはずもなく、こうしてベッドに縛りつけられている。
かろうじて無事の右腕は点滴のために人質にとられていたが、脱走しようと思えば存外楽にできたのかもしれない。けれどもその先のビジョンはどうしても描けなかった。亡霊のように徘徊するのは論外だ。心穏やかな入院患者ばかり眺めていたら、こちらの気が狂ってしまいかねない。
ひとり歯噛みする。つられるように、そこにない左腕がじくじくと熱をもつ。
くわえて、しつこい頭痛が回復の邪魔をする。しかし気晴らしに一服なんて許されるはずもない。ただでさえここは病院なのだと口を酸っぱくして説教してくる連中が多いのだ。それだけでも煩わしいのに、こちらのすることなすことにいちいち目くじらを立てられていてはこちらの神経がもたない。
これならば野戦病院に送られていたほうがよほどましだったかもしれない。すくなくともいまより退屈しないことは確実だ。いい歳の男どもが痛みと迫り来る死の恐怖に泣き叫ぶ地獄絵図ではあるが、この調和のとれたきれいなだけの空間に押しこめられるよりはよほどストレスと縁遠い。
深いため息を吐く。それから諦めたようにスプーンを手にとり、味の薄い病院食を機械的に流しこんでいく。
なにもかもが単調だった。味覚どころか色味すらぼんやりと薄い。いつの間にかすべてがとけてなくなってもおかしくない。
いっそ全部が夢であったなら、とまるで無意味な空想を重ねる。そうでもしなければ、とてもではないがやっていけなかった。
なにより気がかりなスラムに関する情報は、いまだに収穫がない。
皆口をそろえて、よくわからないと言う。そう答えるよう指導されているかのようだ。おおよそ慈悲深い彼らの長が、患者に心労をかけるべきではないと先回りしているのだろう。まったく余計なことをするものだ。口出す代わり、真新しいシーツに意味のない深い皺を刻みこむ。
たったひとつの汚点も許さないような白ばかりがこの空間を作り出す。
まったく反吐が出そうだ。そうこぼすだけで、どこからか聞きつけた看護師がそれは手厚いケアを申し出てくれる始末だ。もちろん丁重に断ったが、いつでもお声がけくださいと返されるとどうして苛立ちが加速する。
ぶり返す腹立たしさに舌打ちして、使い勝手のよくない右手を強く握りこむ。
一口サイズに切り分けられ、やわらかく煮こまれた具材ばかりが皿に鎮座する。すこしでも食べやすいようにと配慮されているのだろう。こういう細やかな気遣いがなおのこと気に障るのだが、善意で行っている彼らがそれを理解することはこの先一生ない。
ふつふつと湧き上がる憤りの正体を、こどもじみた対抗心で咀嚼する。
この件について、軍のほうでも調査が始まっていた。まだ万全にはほど遠いにもかかわらず、当事者から直接話を聞きたいと背広組が顔を出してきたばかりだ。どことなく看護師のあたりがきついのは、それに嫌悪感を示しているせいかもしれない。なんせ、未来の幹部候補生様だ。どう取り繕ったところで傲慢な態度は隠しきれない。
これにかこつけて神崎をやたらと敵視する上官たちは、ここぞとばかりに後方へ回れと言ってくるだろう。ひとりふたりだけならまだ聞き流してやれるが、ああいう輩に限ってその他大勢を味方につけることばかりうまい。そのまま退けと真正面から啖呵を切ってくる度胸もないくせに、ひとの足を引っ張ることばかり得意なお偉方だ。はなからわかり合えるはずもない。
すっかりふぬけた温野菜をフォークで突っつき回す。本当にこんなところで寝ている場合ではないのだが、抜け出すのもなかなか手強い。どうしたものかと思案する。
「機嫌悪そうですね。透」
唐突にかけられた声にはっと視線を上げる。
そろそろ寝飽きてきたが、その声の主がわからないほど耄碌はしていない。
「類ッ――」
しかしその先の光景に、さすがの神崎も思わず言葉を失った。
天谷はいつもどおりの穏やかな笑みをたたえていた。ここまで車椅子を押してきてくれた看護師にかんたんな礼を言うと、今度は自力でベッドの傍に車体を転がしていく。
まるではじめから、それが自身の脚の代わりであったかのようだ。
絶句する神崎を安堵させるように、天谷は努めていつもどおりを貫いた。
「思ったより快適なんですよ、これでも」
冗談めかして言うが、正直まったく笑えない。
場を和ませたいならもっとほかに言いようがあったろうに、しかしそのままそれを飲み下す。
……そもそも責められるべきは、天谷ではなく自分自身だ。
むかむかした感情が、胃の奥からこみ上げる。
あの爆発物は天谷からはちょうど死角にあった。そのせいで反応が遅れた天谷をなんとか庇ったにもかかわらず、あまつさえ自分さえ利き腕を使い物にならなくしたのだから、ばかばかしいどころの話ではない。
どれほど武功があろうが、親友ひとりまともに守れないとは情けないにもほどがある。
神崎の苦い表情からそこまで読み取ったのか、天谷はなお穏やかな口調をしてみせる。
「しばらくリハビリしたら卒業できるそうです。ご安心を」
「……そう、か」
しかし動揺を隠せず沈黙してしまう神崎に、天谷はああ、と声をあげて笑い出す。
さすがに怪訝な目を向ければ、すみません、とまるで悪びれないものが返ってきた。
「あなたもそんな顔ができるんですねぇ」
「馬鹿にしてんのか?」
まさか、とやや大げさな身振りをした天谷は、それから静かなアイスブルーの瞳をかすかに伏せる。
「こういうときくらい素直になっても、罰なんて当たりませんよ」
怪訝な表情をつくると、天谷はちいさく首を横に振った。
自分を責める必要はないとでも言いたげだ。しかしそれを直接口にすることはしない。
そういう男だ。天谷は、いつも相手の意図をきれいに汲み取っていく。なんでもないかのようにするものだから、つい勘違いしてしまう輩も多いのだが、天谷はその相手すら律儀にこなすだけの器用さも兼ね備えている。リップサービスもほどほどにしろと散々忠告してはいるのだが、はたしてどこまで聞こえているのかはまったくわからない。
ともあれこうなってしまえば同じ穴の
「ひとのこと心配してられるくちかよ」
うんざりしながら、がりがりと前髪をかきあげる。いつもおさえている軍帽がない分、いちいち落ちてきて邪魔で仕方ない。
どいつもこいつも、しみったれた空気で窒息しそうだ。そういわんばかり、乱暴に窓の外へ視線を逃がす。
それでも一人前にいたたまれなさを感じるのは、天谷の生まれにも一因がある。
天谷は軍人一族の出だ。父も祖父も相応数の勲章をぶら下げて退官し、いまは壁の奥で悠々自適な余生を送っている。幼いころからそうなるべくして育てられたおかげだろう。座学は常にトップを修め、実技もなんやかんやいいながら神崎についてくる。同期たちにはもうおまえらふたりだけでやってろと呆れられたほどだ。
だから天谷が副官に任命されたときも、さほど違和感はなかった。妥当だと納得すらされたほどだ。天谷のほかに神崎の隣におさまるようなものはいないと暗に言われているようで、どこかばつが悪いような気はしたが、それも数日のうちに消えた。
それどころか同期だからこそあるだろういざこざも特になく、神崎のような破天荒な人間がのうのうと部隊を任せられている。無論それには天谷のバックアップが不可欠で、彼がいなければとてもではないがまともに機能していなかっただろう。だれより部下に慕われているという自負こそあるが、それだけでやっていけるようななまやさしい職種でもない。
車椅子に座る天谷に改めて視線を投げる。
痛々しくギプスが巻かれたのは右足だ。リハビリすれば、という言葉どおり、治る見込みはあるのだろう。
自分のように、再起不能の烙印は押されていない。
それには正直安堵した。自分の無鉄砲さはよく理解している。そうであるからこそ、天谷のそれを運がよかっただけで片付けるのはあまりに短絡的だった。
「…………痛みませんか」
やけに心痛な面持ちでそう言われると、かろうじて残っていた良心が痛まないこともない。
悩みに悩んでそれかよ、と内心で苦笑をこぼしながら、神崎はひらひらと右手を振る。
「よくわかんねえ」
ごまかし半分だったが、それで十分だったのだろう。そうですか、と天谷はどこか悲しそうに微笑む。
それでも、安易な哀れみの言葉をかけられるよりよほどましだ。
耐えきれず、げんなりと息を吐く。
ここに運ばれてくる患者のうち、五体満足なものは数えるほどしかいない。軍お抱えの医療施設であるせいもあるのだろう。松葉杖や車椅子を見かけない日はなく、それらが必要のない患者は、おとなしくベッドの上で虚空を見つめている。
――そんな奴らと同列に扱われるなんて、もってのほかだ。
燃え上がる炎のようなそれに、おそらく天谷は気がついている。だから平然としていられるのだ。
「いつもこれくらいおとなしくしてくれると、私も楽なんですけどね」
「言ってろ」
こんなときだというのによく口が回るものだ。つい不機嫌そうな声をあげるも、それで天谷が狼狽えるはずもない。
それからやや躊躇いがちに、天谷はゆっくりと口を開く。
「スラムの件は、聞いてますか」
朝食をつつき回していた手が一瞬止まる。その有様に、天谷は再び目を伏せた。
「……横暴すぎるんだよ」
「それは私も同感です」
思いがけない同意にかすかに目を見張る。と、それを悟った天谷はひとり、柔和な顔つきをしてみせた。
「何年あなたの副官やってると思ってるんですか」
当然とばかりの物言いに、さすがに言葉を詰まらせる。しかし一瞬でそれを飲み下し、は、と乾いた笑いをこぼす。
もっともらしいことばかり口にしていたくせによく言うものだ。と同時、自分についてきた弊害なのかもしれないと不意に思い直して、急に愉快な感情がやってくる。堅物優等生と陰口をたたかれていた男も、ここまで来てまだ変わる余地があったらしい。ほかの同期にも聞かせてやりたいほどだ。録音していなかったことがこれほど悔やまれることもない。
「あなたは間違っていませんよ」
「どうだかな」
無茶をする、と耳にたこだできるほど繰り返すのはほかでもない天谷だ。それを否定するつもりはない。が、改めようという気概はみじんもなかった。
放り投げたフォークがトレイの上にからりと転がる。
スラムでもらった煙草がひどく恋しかった。好き嫌いははっきりわかれるだろうが、息が詰まりそうなこの空気にあのずっしりと重い紫煙はちょうどいい。この味気ない病人食も忘れられる。
「私のほうでも探ってみます。だからいまは、おとなしく療養していてください」
予想外の提案に思わず天谷の顔を凝視すると、平然とした顔が返される。
それどころか、天谷は口元にうっすらと笑みまで浮かべる始末だ。
「このまま引き下がるつもりはないでしょう?」
無論だ。奥歯を噛みしめ、そのまま頼む、とかすかに頷く。
このままでは腹の虫が治まらないのは、天谷もおなじなのだろう。やけに真剣な目を見ながら、そんなことを思う。そうでなくとも神崎は利き腕を、天谷は右脚を犠牲にしている。それをただ受け入れる、というのはさすがに矜持が許さない。
しがらみは、根から絶たねばならないのだ。
そうしているうち、そろそろ、と先ほど天谷を連れてきた看護師が顔を出しに来た。お互いまだ負担を強いる体ではないのだ。左腕を喪った神崎は勿論絶対安静を余儀なくされているが、天谷ばかりが免除されるわけがない。
それでは、と頭を下げた天谷が、去り際思い出したように口を開く。
「自由に動き回れないとはいえ、八つ当たりは駄目ですよ」
「おまえほんとはめちゃくちゃ元気だろ」
「それはもう、どこかの誰かさんよりはまともにリハビリに励むつもりでいますから」
どうやらもう皮肉まで吐ける余裕まであるらしい。おおげさに肩をすくめてこたえると、天谷はさらに言葉を重ねる。
「自分の体を労ってください。私より、あなたのほうが重傷なんですから」
正論すぎてぐうの音も出ない。つい黙りこむと、それがよほどおかしかったのか天谷は声を上げて笑い出した。むっとした視線を投げつけるが、その程度のことで引き下がるほどやわな相棒でないことは、ほかならぬ神崎自身がよく知っている。
だからこそ、こうして背中を預けられる。
まったく、と口のなかで呟きながら、再びベッドに横たわる。
とっくに見飽きたと思っていた白い天井が、そのときすこしだけ、ましに見えた。
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