ヘルメスの左腕 HERO do not look back
二藤真朱
1
畢竟、それを戦争と呼ぶ。
無秩序が群れをなしたような街だ。
舗装もされていないでこぼこな道を踏みしめながら、そんなことを思う。
いまなおブロックのように無頓着に積み立てられた建物に人が住んでいるなんて到底信じがたい。途中で増改築を放棄されたものも少なくはなく、骨組みだけがぼんやりと立ち尽くすのを遠目に眺める。無愛想なコンクリートが何重にも組まれ、窓やドアがついていない部屋もあるという。しかしここいらでは間違いなく一等地だと鼻高々と聞かされたときのショックといったら、想像を超えたものがある。迷いこめば無事に出てくるのは至難の業だというのは、あながち誇張ではないのだろう。
ねっとりとした風が頬を撫でる。重苦しいだけの軍服なんてさっさと脱ぎ捨ててしまえとそそのかしてくるようだ。が、そこまで開放的な気分に浸れる心つもりにはいますこし足りない。
人工の迷路にも似た建物の合間。大きな布を屋根代わりに広げ、あるいは錆びたトタンを店構えに、いきいきとした生活の音が響きわたる。
乱雑に入り組んだ風景に拒否反応を示さないのは、そういう飾らない自然さのせいもあるのだろう。
刺激的な香辛料や目にも鮮やかな色の果物、魚や野菜といった食材のほか、店先の大鍋や
衛生概念にたっぷり毒された都市住民が見たら卒倒するに違いない。
想像にかたくないそれを胸の内にかかえながら、紙袋いっぱいの食料を買いこんだ神崎に連れだって、独自の雰囲気漂う市場を歩く。
道中どうしても軍服にとげとげしい視線が突き刺さるのだが、先導する神崎は素知らぬ顔を貫きとおしていた。どうやらそれにもすっかり慣れているらしい。天谷などは首筋に刺さるひりひりとしたそれについ気後れしてしまうのだが、弱音でも吐けば神崎は鼻で笑うにちがいない。そこまでわかってしまうから、喉元までこみ上げた文句はなんとかかみ砕く。
どうせ暇だろうからついてこいとなかば無理矢理引っ張られてみればこれだ。なんとなくわかってはいたが、こうも当然のように引っ張り回される身にもなってほしい。
行き先は、尋ねてもはぐらかされた。これもいつものことだ。困ったなんて感覚はとっくに麻痺している。なんせ士官学校のときからこの調子だ。いくら諫めたところで右から左に聞き流し、問答無用で前回以上のもめ事に巻きこんでくるのだからいい加減諦めがつく。
とはいえ、剥き出しの敵意に等しい視線にさらされ続けるのはさすがに居心地が悪い。
咳払いをしながら、軍帽を目深にかぶり直す。
詰め襟の軍服をきっちり着込んでいるせいだろうか。じりじりと照らしつける太陽がずっしりと重くのしかかる。時節柄仕方ないと自身に言い聞かせてはいるものの、神崎はとっくに上着を脱ぎ捨て、シャツの袖をまくっている始末だ。隊舎ならこれだけで容赦なく違反対象として罰則をかせられるところだ。これではどちらが上官なのかわかったものではない。が、今更指摘するのもいろいろ面倒だ。
ひとり軽快な歩調を貫く神崎の陰を踏むようにして続いていると、やがて半分崩れ落ちた教会にたどり着いた。広場には十数人のこどもたちが集まっていて、それぞれ自由な時間を過ごしている。どの子も着の身着のままといった
その彼らに向かって、神崎がひらりと片手を挙げる。と、それに気づいた何人かがこちらに駆け寄った勢いそのまま、神崎に盛大なタックルをかましてきた。無邪気さゆえなのだろうが、元気いっぱいのそれは威力も高い。さすがの神崎もそれにはいってえ、とのけぞったものの、その程度で音をあげるような半端な鍛え方はしていない。
「おー、今日も元気だなチビども」
「……いつの間にそんなに仲良くなったんですか?」
怪訝の色がにじむアイスブルーに、神崎はいっそ素直なまでに口をへの字に曲げた。
「別にサボってたわけじゃねえよ。なりゆきだなりゆき」
とは言うが、彼が時間を見つけてはふらりとスラムへ足を運んでいることを知らないわけがない。あれだけ堂々とやっておいてよくいうものだ。デスクワークを放り投げただけならまだしも、会議まですっぽかしていればいやでも気づく。おかげで上官からまったく無意味な忠告を受ける羽目になった身にもなってほしい。
それに、と、天谷は、こみあげてきた苦味をひとり飲み下す。
そうでなければ、いったいどうして軍服姿の神崎が姿を現しただけでこんなにこどもたちが集まってくるというのだろう。
見上げたきびしい日射しが、ずしりと重みを増してくる。何度浴びても慣れないその暑さに、じとりと汗がにじむ。しかしその不快さをおくびにも出さず、天谷はさらりとした言葉を紡ぐ。
「ずいぶん慕われてるようで」
「嫌味か?」
毒気のあるそれを、いえまったく、と笑顔で受け流す。
どちらかといえば本心だ。なんせどうやっても、自分ではそこまで慕われることがない。
そうわかっているからこそ、よりいっそう子どもたちに囲まれる神崎がまぶしく見える。
どこか悔しいような心地で、その光景を眺める。一見平和の象徴ともとれるだろうこの光景は、しかし現実の上澄みでしかなかった。
正義の皮をかぶった劣等感が、口内を蹂躙する。
大義名分と掲げた世界平和はとっくに形骸化している。それどころか人々の生活領域を侵し始め、ついにこの掃きだめのようなスラムに押しこめるまでに至っていた。過去の遺物と化した国家や民族なんてものを高々と掲げているレジスタンスたちのほうが、よほどまっとうに見えるだろう。
そのはずなのに、子どもたちは満面の笑顔をたたえている。そのうえ容赦なんて言葉を知らない彼らは競って神崎の頭をゴールによじ登る始末だ。。いい加減にしろよくそガキども、なんて上官が聞いたらその場ではり倒されかねない暴言が聞こえたが、それには気づかなかったふりを決めこむことにする。
あちこちぞんざいに引っ張られ続ける散々な姿にもかかわらず、神崎はなお言い訳めいたものを口にする。
「菓子でももらえると思ってんだろうよ。前も散々ねだられたからな」
あきれ半分の口調だが、当然それも見越していたのだろう。先ほど購入していた袋いっぱいの果物を年嵩の子に渡してやると、かぎつけたこどもたちがわっとそちらに群がった。まったく現金なことだが、神崎はようやく解放されたとばかり、やれやれと首をまわす。
まともに言葉も通じないくせによくもまあここまでコミュニケーションがとれたものだ。素直に感心した顔をするも、しかし行き過ぎた交流はあまり褒められたものではない。どこか困ったように、静かに視線を落とす。
軍の目的はあくまで都市住民の安全確保のためであり、それ以外の住民に対しては効力を持たない。それがこの世界の鉄則だ。
その証拠に、
それほど都市住民は潔癖だ。その生活がどれほどの痛みのうえに成り立っているのかろくに知らないくせに、スラムの住民をまるで汚物とばかりに嫌悪する。そんな輩の生活を命懸けで守らねばならないというからお笑い草だ。なんて、まったく笑えない冗談を神崎はよく口にするだが、そのたび天谷はなんともいいがたい苦笑を返すばかりとなっている。
それでもスラムの住人が壁の向こう側を目指すのは、そこが平和で安全な場所であるからにほかならない。
やるせなさに嘆息する。それに気づいてか否か、そっと自分の手に触れてきた少女のぬくもりに、天谷ははっと視線を落とした。
好奇心旺盛なアーモンド型の大きな瞳に映し出される。困ったなといいながら、なんとかやさしげな微笑みをつくってそれにこたえる。
そのまま膝を折って抱きあげてやれば、少女はまあるい瞳をさらに見開いて、きゃっきゃと声を上げて笑い出した。その楽しげな声につられるように、神崎を取り囲んでいたこどもたちのうち何人かがおそるおそるこちらにもやってきた。様子見していたのだろう。ぎこちないながらも空いている片手で彼らの頭をそっとなでてやれば、子犬のようにもっととばかりにせがまれる。あっという間に増えていった頭数に戸惑いを隠せず、助けを求めるように神崎のほうを見たが、自分より手荒な歓迎を受けている彼にどうこうできるはずもない。
「死神」なんてたいそうな異名をつけられている男のこんな姿を見る羽目になろうとは思いもしなかった。
じゃれついているのがこどもだからいいが、これが同胞であれば瞬く間に臨時戦闘訓練に様変わりしていたにちがいない。手を抜くどころか実践さながらのそれを不得手とする部下もいるにはいるが、多くはどうにか神崎に土をつけようと躍起になってかかる。つい熱くなりすぎる彼らをフォローしてまわるのも天谷の重要な仕事だ。が、彼らがそれに気づくのはずいぶん先のことだろう。
つい点を仰いでいると、どこか複雑そうな表情の大人たちがちらちらとこちらを伺っているのが目に入った。この子たちの親なのだろう。こどもたちがひとりまたひとりと手を離れ、ぱたぱたとそちらに駆けていく様子を微笑ましげに眺めるも、強ばった顔を大人たちは我が子の手を掴むと足早に去って行く。まだ遊びたいと騒いでもおかまいなしだ。
先ほどまで賑やかだった広場が急にしんと静まりかえる。その呆気なさに、天谷もちいさく肩を落とした。
どこに行っても軍人は嫌われ者だ。
こればかりは仕方がない。何度となく言い聞かせてきたが、こうして直視するとなんともしがたい感情にさいなまれてしまう。
かすかに残る少女のぬくもりをかみしめるように、指先をこすり合わせる。
「ひどい目に遭ったな」
無邪気な攻撃から解放されたばかりの神崎が、胸ポケットから取り出した煙草に火をつける様子に、天谷はかすかに目を細めた。
「また煙草ですか」
「うるせえ」
まったく、と小言代わりのため息をつく。
再三禁煙を進言してはいるのだが、神崎から煙草を奪うのは至難の技だ。何度か強硬手段として取り上げたことはあるものの、いつの間にやらすっかり取り返されている。その執念をもっと別のところでいかせばいいと、口に出すことすらもうばかばかしい。
癖のある紫煙とともに、神崎は忌々しげに言葉を吐き捨てる。
「こうでもしなけりゃ、お互いやってけねえだろうよ」
痛烈な皮肉をはらんだそれに、天谷はそっと、唇を噛んだ。
評議会のおかれた各都市区画とその外側では、世界は文字通り一八〇度ひっくり返る。
軍の保護対象から外れるのがいい例だ。評議会の決定は、それが置かれる各都市にしか影響力を持たない。つまりそれ以外の地域に関しては無関心ということだ。切り捨てた、といってもいい。
だから耳障りのいい正義や平和なんて言葉に守られたエリアに住む市民たちは、その外側でどんな惨い事態が起きようと目もくれない。
評議会の連中はそれをいいことに、戦地の拡大と転換を粛々と繰り返している。点在するレジスタンスや過激派を一層するためと息巻いてはいるが、どれほど本気かはさだかではない。世界を盤に終わらない陣取り合戦でもしているようなものだ。それに実際どれだけの人命が巻きこまれているか、素知らぬふりをして。
ニュースでは毎日のように戦況が読み上げられるも、せいぜい十数秒だ。それさえまともに耳を傾けている市民はほとんどいないだろう。
あの高いセキュリティーの壁に阻まれて、外側での現実は虚構に成り果てる。
いつまでたっても紛争が終わらないのはそのせいだ。むしろこれを商売チャンスと睨んだもののなかには、いっそ終わらないでほしいと願う不届き者すらいる。恒久平和を唱える側にいるくせに、その恩恵に報いるようなまねはしたくないらしい。
こうなると人道に外れているのはどちらかわかったものではない。
そんな本音をどうにか飲み下すのにも、ついになれてきた。
それでも都市にほど近いスラムに住む彼らは、表だって石を投げることがないだけまだましだ。そんなことをすれば、すぐさま警備に引っ立てられて二度と壁を拝むことすらかなわなくなる。それがわかっているから、彼らは安易に行動することはない。侮蔑と憎しみをこめた目で、この軍服を睨むことはあってもだ。
知らないうちにつくっていた行き場のない拳に、神崎の冷ややかな視線が降り注ぐ。しかし彼は、なにを言うまでもなく紫煙を燻らせ続けた。
何度となくそんな目に遭おうとも、神崎はスラムに足を運ぶ。何度配置換えをされようと、戦場を転々としても。ともすれば宿舎にいる時間よりも、外にいるときのほうが長いことすらある。
こちらのほうがはるかに息がしやすいのだと笑う神崎に、天谷は返す言葉を知らなかった。
「……そう、ですね」
「珍しく素直に聞いたな」
「一応言っておきますが、それと貴方が禁煙できないのとは別問題ですよ?」
どうしてか心底いやな顔をされたが、それに関しては訂正するつもりは毛頭ない。
毅然とした態度を貫くも、神崎はさも面倒だとばかりいやな顔をしてみせる。
「おまえ、そういう頭かたいところほんとどうにかなんねえの?」
「自分の胸に手をあててよく考えてみたらどうです?」
こんなところで気を遣う必要もないとあってか、互いの口調に遠慮が欠けていく。こどもたちもいないとなればなおさらだ。
「そもそもそれだってどこから手に入れたんですか」
支給品に煙草はあるが、いまや御偉方の嗜好品に肩を並べつつある高級品だ。いくら神崎とはいえ、そうかんたんにくすねられるはずがない。
あー、と言葉短く唸った神崎は、それからばつが悪そうにがりがりと頭をかいた。
「駄賃代わりにもらった」
「はい?」
「ちょっと元気持て余してる野郎の相手してやったら、その礼だって押しつけられたんだよ」
「…………透」
幾分低い声に、げえ、と神崎は眉をひそめる。
「だから今日はおまえにも声かけたんだろうが」
「そういう問題じゃありません。よりにもよって一般市民に手をあげたんですか?」
「暴動一歩手前だったぞあれ」
「だからって、あなたがその中心にいてどうするんです」
聞いているだけで頭が痛くなってきた。今のところまだ騒ぎにはなっていないはずだが、耳の早い連中ならぱっと浮かぶだけでも数人はいる。スラムでのいざこざは日常茶飯事ではあるが、その場に軍人がいたとなってはさすがにきまりが悪いどころの話ではない。
まったく、とこの日だけで何度目かになるため息をこぼすと、それを嘲笑うかのように神崎が口を開いた。
「
思わず口をつぐむ天谷に、神崎は安心しろとばかりにひらひらと片手を振る。
「全員救おうとか、そんなたいそうなことは考えちゃいねぇよ」
そうぼやく神崎の横顔に、どこか渋いものがのぞく。そのいたたまれなさに、天谷はそっと視線をそらした。
「大厄災」と呼ばれるその日。かつてナショナリズムと声高に叫ばれていたものが、息の根を止めた日。
世界は、空中分解するようにあっけなく崩壊した。
悲鳴は淘汰された。その暇すら与えられず、北米の地方都市がまるまるひとつ、地図上から姿を消した。
過激派はテロリズムに傾倒し、抗う力を持つものたちすべてが蜂起した。
――力のないものは容赦なく踏み潰されても、だれひとり目もくれず。
国境線は白紙に戻され、人々は自衛のためだと当然のように銃火器を手にする。
自分以外に自身を守るものは、だれもいない。
その結果が、このざまだ。
広がり続ける荒野と、拡大するスラム。その向こうに要塞じみた都市に引き籠もる人々の群れを仰ぎ見る。さらにその上を、戦争反対なんてプラカードを掲げる博愛主義者たちが浸食していく。せめてこどもたちだけでも都市へ、なんて涙ながらに願いを口にする善良な市民は、いまなおメディアで定期的にもてはやされる。が、戦場に立つ身からすればはっきりいって偽善でしかなかった。彼らはただ、一時的な感情に突き動かされているにすぎない。その証拠に、彼らのなかでひとりでも都市部から外へ出てみたことのあるものはひとりとしていない。
所詮そんなものだ。ただだれかを慈しみ、手を差し伸べる自身に酔いしれているだけ。まるで聖人にでもなったつもりで、だれかを救ったという虚構に満足感を得る。
こどもを引き取るでもなく、知識を与えるでもない。戦争孤児の数を減らしたという表面的な事実をかみしめる程度のことで、どれほど世界平和に貢献しているのか。そんなことは、天谷にはまったく理解しがたいことだ。
立ち上る小さな竜巻を眺めながら、天谷が静かに口を開く。
「……私たちは、万能ではありません」
「知ってる」
なんとか吐き出したそれを、しかし神崎はたやすく受け止める。
「だから俺は、好きでやってるんだよ」
軍人は、どこまでも嫌われ者だ。
せっかくの休日だというのに宿舎から出てこようともしない同胞たちの気持ちもわかる。こちらが命を賭したところで、すべてが報われることはない。当然だ。彼らの見る世界と、軍が描く未来は違う。
すべては、恒久平和のために。
その大義名分を振りかざし、戦地を拡大する。
そんな軍が、評議会が信じられなくて当たり前だ。
そこまで理解してなお、神崎はこうしてスラムに赴いている。ただ贖罪のため、というよりは別の意味があるのだろう。どこか遠くを見つめるような神崎に、天谷はかるく肩をすくめた。
「……あなたはそういうひとでしたね」
「なんだそれ」
「それくらい事務仕事も熱心にやってくれれば、言うことなしなんですが」
「はあ?」
「デスクワークも立派な仕事ですよ、神崎中尉」
正論を告げれば、不機嫌そうな舌打ちが返ってくる。あんまり正直な態度に、思わず天谷は苦笑した。
これでもずいぶん丸くなったほうだ。士官学校時代、素行不良を理由に罰則ばかり食らっていた神崎はそういう意味で有名だった。同時に、戦闘実技においては右に並ぶものがいないほど突出していたことも。
思い返せば思い返すだけ話の種はあるのだが、こんなところで花を咲かせても、という気もある。ついこの間も同期の訃報を聞いたばかりだ。なにかと神崎を目の敵にするような気概のある男だったが、不発弾処理に携わった部下をかばって散ったという。
知らせに、神崎はただそうかとこぼしただけだった。たしかに犬猿の仲ではあったものの、まったく関心がないわけではなかったはずだ。そう不思議に思っていたのだが、ようやく合点がいった。
おそらく自分でも気がついていないが、いささか気弱になっているらしい。こうして感傷がわだかまるのはそのせいもあるのだろう。歳は取りたくないものだと苦笑しつつ、今夜あたり酒でも用意しようかと考えたその矢先。
――鼓膜を突き破るような爆発音が、その日常をひっくり返す。
「クソったれッ!!」
「透!」
罵声とともに駆け出した神崎の背中を反射的に追いかける。
天谷のポテンシャルではそれだけで精一杯だ。もくもくと黒い煙のあがる方向を視認したと同時に猛スピードで来た道を戻る神崎は、天谷も当然その背を追っているものと確信したように振り向かない。信頼の証拠だと思う反面、配慮のひとつもないとなるとこちらも全力にならねばならない。
耳を疑うほどの砲撃が、二度三度と繰り返される。
びりびりと地を揺らすようなそれに、先ほどまでの喧噪はすっかり縮み上がってしまったようだ。逃げ惑う群衆に、無数の泣き叫ぶ声が折り重なる。ここまで命からがら逃げてなお、戦火は彼らをもてあそぶように忍び寄ってくる。それがどうして信じられないのだろう。
まったくだと同意しつつ、険しい顔つきのまま、人の波をかきわける。
狭い路地を右へ左へ曲がり、時に障害物を蹴飛ばして戦地に様変わりしたスラムを駆ける。
こんな道まで知り尽くしている神崎には正直閉口ものだが、こうなっては話が別だ。
片手で制止を求めた神崎に従い、物陰に身を潜める。あれだけ複雑な路地を走り抜けてきたくせに、神崎は呼吸を乱すどころか口元にうすい笑みをたたえていた。
「こんな近くでやるかフツー?」
「すくなくとも、正気とは思えませんね」
「あっちからすれば、俺たちも十分狂ってるんだろうけどな」
皮肉めいたそれに複雑な表情を返す。それに薄ら笑いのようなものを浮かべた神崎は、しかし一瞬でそれを拭い取る。
「民間人の避難誘導頼む」
「どうするつもりですか」
尋ねるも、すでに安全装置を外したハンドガンを手にした神崎を見れば、なにをしようとしているのかなんて明らかだ。使い慣れた獲物を片手に、神崎はふと口元を緩める。
「黙ってやられてんのは気にくわねえ」
「無茶です」
「ならどうしろってんだよ」
ぎろりと睨まれるも、この程度でたじろいでいてはこの男の副官なんて務まるはずもない。そう自身に言い聞かせ、神崎に向き直る。
「応援が来るはずです。ここからなら隊舎も近い」
「それまで黙ってやられてんの見過ごせってか?」
そういうつもりではない、が、そうとられても仕方のないことだ。
つい押し黙る天谷に、神崎は苛立ったようにぐしゃりと前髪をかきあげる。
「責任なら俺が取る」
「私はちゃんとした策を練るべきだと言っているんです」
「あのチビども放っておけねえだろうが!」
やはり、そうなのだ。
ぐっと唇を噛みしめる。
そんな綺麗事を言って、戻らなかった仲間を何人も見ている。
冷たくちいさなドッグタグだけが無言の帰還を果たす。それに涙を流してやれるほど純粋な感情はすでに底をついていた。代わりに砂を噛んだような後味の悪さばかりがつきまとう。それにほとほと疲弊して、除隊を申し出る同胞も少なくない。
それでもなお戦場に立ち続けるのには、それなりの理由がある。
「副官としてじゃない。あなたの友人として、止めているんです」
珍しく本音をあらわにした天谷に、神崎はちらりと目を向けた。
らしくねえなと笑われる。それでもかまわなかった。そうでもしなければ後悔するのは自分だと、わかっていた。
――いまここでひとり立ち向かえば、神崎は戻ってこない。
確信めいたそれをまるきり否定することはできなかった。所詮自分たちは軍人だ。一度戦場に出れば、生死なんて紙きれ一枚で事足りる。
いずれ自身もそうなるのだろう。それはかまわない。ここまで生き抜いてこられただけでも十分運がいいほうだ。いまでこそ神崎の隣に収まっているが、そこを離れたが最後、自分はあっけなく死ぬ。そう悟っている自分は、たしかにいる。
だが、彼は違う。
こんなスラムの内戦じみた混乱のなかで散るなんて、あっていいはずがない。
エゴだと笑われてもかまわなかった。それで神崎が思い直すなら、いくらでもそうすればいい。
しかしその願望を、神崎はかんたんに捨ててしまう。
「悪いな、類」
こんな時でもそうして笑えるこの男を、どうして見捨てることができるのだろう。
透。そう叫びたいのを必死でこらえる。
手を伸ばしたところで引き留められるはずもない。
すでに神崎は戦地と化した街へ飛び出してしまっていた。追いかけるまでもない。否、それは神崎の意に反している。いくら同期といえど上官だ。天谷には、その命令に従う義務がある。
ぎちりと歯噛みしたのは一度だけだった。それから深く息を吸い、再び開けた瞳は覚悟の色に染まっている。
敵影がないことを確認しながら、注意深く今来た道を戻る。
これだけ派手な砲撃の音ならば、隊舎に引きこもっている同胞も無視はできないはずだ。ならばやはり、自分にできることは民間人の避難誘導にほかならない。この騒ぎにかこつけてスラム住民の一斉排除を、なんて無茶な命令を下す指揮官が出てこないことを祈るばかりだ。
まったく、と天谷は嘆息する。
次顔を合わせることがあったら、一発くらいは殴ってやらなければ気が済まない。
「悪いなんて言うくらいなら、こんな役回りさせないでくださいよ……!」
そんな悪態がつけるくらいならまだいけるだろう。そう笑う神崎の声がどこからともなく聞こえてくるようだ。
こんな無謀に身を投じているあたり、すっかり神崎に毒されてしまっているのだろう。不意にこみ上げる笑みを、しかし一瞬のうちにかき消して。
おびただしい銃声がこだまする。慣れたくもない戦場という現実に、引き戻される。
――これが、彼らの生きる戦場だ。
開戦の狼煙のような黒煙を、じっと睨む。
最悪だ。そう言う代わり、盛大な舌打ちを漏らす。
ハンドガンのグリップを強く握る。物陰から敵方を伺おうとするだけで、乱射される銃弾が鼻先をかすめていく。
あちらはずいぶんやんちゃらしい。単身乗り込んできているこちらを煽るようなスラングまでもが漏れ聞こえる。正直腹立たしいが、それにのっては元も子もない。クソったれと吐き出すだけでなんとか耐える。
おそらくあちらは、神崎が軍人であることに気がついてはいない。
そのほうが正直都合がよかった。ああいう力に個室した輩は、所詮弱いものいじめを楽しみたいだけだ。まだこちらを侮ってくれているならば、短銃ひとつでもどうにかなる。
やれやれと肩をすくめる。その間さえ、銃弾は雨のように降りそそぐ。
敵はふたり。左右から挟みこんで、どちらが先に仕留められるか競争でもしているのだろう。ハンティングでも楽しむかのようにじわじわと責め立てる方と、そうして這い出したところを狙い撃ちにしようとする他方。どちらもそこまで腕は悪くない、が、仮にも戦場でゲームに興じるような心づもりはあきれてしまう。
すこしは骨のあるやつが相手に来るかと思っていたが、これでは興ざめもいいところだ。
大きく息を吸って、勢いよく吐き出す。銃撃を慎重に見極めながらそのときが来るのをひたすらに待つ。
やがて充填のために攻撃が緩んだその一瞬のうちに、表へ躍り出る。
相手もまさか軍服姿の男が潜んでいたとは思ってもいなかったのだろう。その隙に、片側のゲリラ兵の手元を狙い撃つ。反射的に銃を取り落とした男の顔面に鋭い突きを食らわせ、ひるんだところでさらに顎に強烈な追撃を与える。情けない仲間の悲鳴に驚いたのだろう。のこのことやってきた二人目が状況を把握する前に襟首を掴みあげ、背負い投げてそのまま地面にねじ伏せる。男はじたばたともがいていたが、手加減は一切しない。やがてばきりといやな音がしたかと思えば、男はそのままおとなしくなった。
手応えのない、と残念に思うものの、しつこい三下に興味はない。
武装兵が所持していた小銃から手榴弾に至るまでしっかり確保し、同時に強奪した通信機器を耳に当てる。大量のノイズに混じって、罵声と雄叫びのような現状報告が次々挙げられていく。くせはかなり強いが、一応英語だ。かろうじて聞き取れる単語を拾い集めながら、脳内にざっと戦況を描いていく。
市街戦を選んだわりに指揮系統がうまく機能していないようだ。
どの隊も自分たちの好きなように攻撃を繰り広げている。まるでこどもの怪獣ごっこのようだ。制圧が目的というよりは、単純に自分たちの武器を披露したいだけにも見える。単純な思考回路で結構なことだが、あまりにお粗末だ。
多方面に展開しているが、すでに軍のほうも動き出しているらしい。畜生、と罵る声にざまあみろとほくそえむ。
天谷を引きずって来て正解だった。あれは軍人にしてはまともなほうだから、民間人の避難誘導もうまくやってくれる。自分の尻拭いばかりさせて心苦しいこともあるが、こういうときに頼りになるのはまず間違いない。
こうなれば後は時間の問題だ。
ひらりと瓦礫を飛び越える。それを巡回のゲリラ兵にうっかり目撃されてしまったのは、まったく運が悪いとしかいいようがない。いけね、と口だけ動かして、慌てて隠れ場所を探すものの、マシンガンの音に呼び寄せられて四方から次々と伏兵が現れる。まさに絶体絶命もいいところという状況下にもかかわらず、神崎は恍惚と笑みを深くする。
「大歓迎じゃねえか!」
銃声とともに、最大限の皮肉を叩きつける。
剥き出しの敵意をひりひりと肌に感じながら口角をつり上げる。
その姿は悪魔よりもなお恐ろしく、彼らの脳に刻まれることになる。
かろうじて生き延びた彼らは口をそろえてこう言うのだ。
まるで死神のようだった、と。
*
くすぶる戦火を尻目に、大きく息を吐き出す。
あらかた目処もついただろう。転がるがれきを足で払いのけ、袖でかるく汗を拭う。
せっかくの休日が台無しだ。この事態に評議会は強く抗議するだろうが、それはせいぜい壁の内側にある守られるべき人命が脅かされたためにほかならない。あるいはなおはびこる過激派への反感を強めるのが目的かもしれないが、どちらにせよ褒められたやり方ではないのはそのとおりだ。
原型のない街であったところを歩く。勘だよりだが、そこまで道はそれてはいないはずだ。
むしろ見通しがよくなったことで、ある程度わかりやすくなったのかもしれない。
再び煙草をくゆらせる。さっきはろくに味わう間もなく放り投げたのだ。これくらいは大目に見てほしい。
やがて見えた教会であった場所の門をくぐり、中途半端にひしゃげた扉をこじ開ける。
スラムの人間にとって大切な祈りの場dえあるここは、同時に彼らの避難所でもあった。特に親と離れたこどもなら、真っ先にここを目指す。
神崎の予想どおり、逃げ遅れたこどもたちはその暗がりにひっそりと身を寄せ合っていた。
「ようチビども。まだ生きてるか?」
トール、とまだ舌足らずのこどもの弱々しいそれに、神崎はただやわらかな笑みを浮かべてみせた。
かたくなに泣くまいと口を結んでいた子らの頭をぐりぐりとなでつけて、傍らに膝をつく。
ぬくもりに、ようやく安堵したのだろう。強ばった表情がだんだんとけて、みるみるうちに泣き声が大きくなる。感情の波に追いつかず、神崎の胸に飛びこんできた子もいたほどだ。それを、神崎はただ静かに受け止める。
どれほどそうしていただろう。いまだ泣きじゃくるこどもたちをあやしながらふと外へ視線を投げると、見慣れた軍服がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるところだった。
「類」
いつものように名前を呼ぶ。まるで何事もなかったかのような態度だが、ここで深く言及しないのはこどもたっちへの配慮もあるのだろう。言葉は通じなくとも、彼らは十分聡い。その場の府に来だけで、ともすればこの世の真実にまでうっかり手をかけてしまう。
隠れていたこどものなかに見知った少女を認め、天谷もつい虚を突かれたような顔をする。少女のほうも天谷のことをおぼえていたのだろう。一目散に飛び出して、天谷の脚にしがみつく。ちいさな体にふさわしくない恐怖に脅かされていたせいもあるのだろう。ロマンス映画さながらの光景をはやしたてるように口笛を吹かれたが、聞こえなかったふりをして、大きな目いっぱいに涙を浮かべる彼女の頭をそっとなでてやる。
正直生きた心地がしなかったが、どうにかなったようだ。
「……本当に、とんでもないことをしますね。あなたは」
「こんな時まで説教やめろよな」
口をへの字に曲げるが、天谷はただいつもどおりにこにこと微笑むばかりだ。それを見て、神崎はさもばつが悪そうに舌打ちをこぼす。
面と向かって文句を並べられるほうがまだましだ。天谷はオブラートにくるんだ表現を好むが、皮肉までこうもきれいに内包されてしまうとうっかり正論と錯覚してしまうからたちが悪い。
それから天谷は、ふとうわべの笑みをかき消した。
「上も民間人の保護には乗り気のようです。門を開けるつもりはなさそうでしたけど」
「ジジイ共にしちゃ上等だろ」
「透」
言葉短く諭すも、素直に耳を傾けるような相手ではない。
こういう男なのだ。本当に手がかかる。ここのこどもたちのほうがよほど聞きわけがいいかもしれない。
ちいさく舌を出した神崎に、天谷はやれやれと肩をすくめた。
「あちらさんも粗方満足したみたいだな」
「ええ。こちらの仕事ばかり増やしてくれたようですね」
「ま、それが目的ってことなんだろうよ」
砂埃を払いながら立ち上がる神崎に、天谷はそっと目を細めた。
こどもたちには見えないところにライフルを放り投げたのは及第点だ。知らない型だったが、どうせゲリラから強奪でもしたのだろう。あの状況では自己防衛のためにもそうせざるをえないにしろ、それを素直に報告書に記載するのはいささか問題がある。
正直に書いたところでただでさえデスクを占拠している始末書の山が増築されるだけだ。とはいえ、ほかにうまい言い訳を考えるのも難しい。
どうしたものかと頭を悩ませる。と、それに真っ先に気がついたのは、やはり神崎だった。
「類っ!!」
珍しく血相を変えた神崎の顔が、見える。
乱暴に腕を引かれる。訓練のときのほうがよほど手加減されていたくらいだ。投げ捨てられるような勢いそのままに倒れこむ、その間際。
カチリ、と。視界の端でなにかが光る。
閃光が爆風を巻き起こす。熱風が肺の奥まで一瞬で焼き尽くす。呼吸が詰まり、反射的に目を閉じる。
同時。これは駄目だと悟った。
爆発物の置き土産なんて、まったく気が利いている。
ともすればこれが本命だったのかもしれない。だからあえて時限式にしたのだ。一区切りついたと安堵したところで、突然街中で火を噴くように。
だとすればあの統率の悪さも納得できる。ただの時間稼ぎならあれでも十分だ。暴れたいだけ暴れさせているうちに、目的の爆弾を街中に置いてくればいい。
焼きごてを捺されたような灼熱に顔をゆがめる。痛みが全身を駆け巡ったのはそれよりあとだ。それでもなんとか状況を把握しようと重い体を叱咤する。
透、と呼びかけて、天谷はそのまま絶句した。
天谷と、こどもたちとを守ろうとしたのだろう。あの光が炸裂するほんの刹那。すこしでも距離をとるために、神崎は文字通り身を挺して彼らをかばったのだ。
ずたずたに引き裂かれた神崎の左腕から滴る真っ赤な血が、みるみるうちに枯れた大地を染めていく。
悲鳴の入り交じった泣き声が聞こえる。こどもたちのものだろう。当然だ。せっかく助かったはずなのに、まさか目の前でこんなことが起きるなんて。
――透。
叫びたいそれすら、しかし言葉にできずに崩れ落ちていく。
這いずるようにして神崎に近寄ろうとするも、意識が飛びかけてうまくいかない。ブラックアウト寸前の自身にふざけるなと腹立ちあらわに、無理矢理体を動かそうと力なくもがく。
朦朧とした意識のなか。最後まで天谷の脳に、はっきりと刻みこまれたのは。
世界を焼くほどの、呪詛だった。
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