機械油と錆トタン
狐藤夏雪
機械油と錆トタン
十年ぶりの街は、あい変わらず錆び付いていた。屋根も壁も赤茶けたトタンばかりで、胸焼けするような古い油と鉄の酸いにおいがする。いつもは吸わないきつめのタバコで、吐き気と懐かしさを誤魔化して、くわえタバコにハンドポケットでぶらぶら歩く。
「おっちゃん、久しぶり」
彷徨っていたはずが、俺が歩いていたのは幼き頃に通った道、何度も歩いた玩具屋通りだった。その通りの突き当りにあるのは、おもちゃ屋「安楽堂」だ。
「よう、ハニー」
店構えは少しだけ変わっていた。錆び付きなどはもともとひどかったからわからない。屋根のど真ん中に掛かっていた「安楽堂」という看板のウ冠が消えて「女楽堂」に変わっていた。しかし、店主のおっさんはまったくといっていいほど変わっていない。小麦色の肌に顎の無精ひげ、南国の海より深い青眼、片目を隠す色素薄めの前髪と後ろで一本に結わえた後ろ髪、右肩からは骨を思わせるような鉄の腕をぶら下げていた。
そんな彼は店先の小汚いベンチに座って微笑みながら空を眺めていた。灰色一色のなんの面白みもない空だというのにだ。
「君もタバコを吸う歳になったんだね」
そう言ってマッチで煙管に火をつける。
「都市の若者は健康に悪いって言って、そんなに吸う奴はいないがな」
「ハニーは、結局はここの人間ってわけだ」
煙を吐きつつ豪快に笑う。こちとら笑える問題ではない。おそらく脳内にこびりついたここの瘴気かなんかが、俺をスモーカーにしたのだ。笑ってる彼の影響も否定できない。幼き頃の安楽堂と今を重ね合わせつつ、ウ冠がどこかに行くまでの年月を埋めようと言葉を紡ぐ。
「おっちゃんは俺がいなかった10年何してた?」
「変わらずさ。子供たちと遊んでた。そっちはずいぶんと変わったな」
「そりゃあ歳をとったから」
「デカくなれるってのはいいな。俺はあとは壊れていくだけさ。関節もオツムもどんどん回りが悪くなってきやがる。まあ、仕方ないさ。形あるものそういうもんだ。ところで、座ったらどうだい。俺の隣に座るの好きだったろう? それに互いに積もる話もあるだろうしさ」
ベンチの片側に寄って、空いた場所をぽんぽん叩く。
「昔好きだったことが今も好きとは限らないじゃないか」
どう見てもガキとは言えない体になったが、どうも子供扱いされているようだった。いや、久しぶりに大きくなって会ったと言うのに、扱いが変わらないと言うべきか。しかし、どこか胸に温かみを感じ、俺は言うとおり隣に座った。
近づいて見てもおっちゃんは昔のままだ。義手はほんのりくすんでいるが、よく手入れされていて錆ひとつない。顔にはシワらしいシワもシミもなく、どこか物憂げな微笑みを浮かべている。そして何より濃厚な機械油と鉄のにおいがする。
「なんだい、久しぶりの俺の顔に惚れちまったかい?」
「そんなわけないでしょ」
「そうだよな、もう惚れてるもんな!」
笑い声はベンチを伝って腹にまで響いてくる。内臓が疼くようで少し不快に感じる。だが、その不快さすらずいぶんと懐かしく、胸中の温もりは広がっていく。それも、ここの焼けつくようなにおいでまもなく冷え切る。ここはあくまで俺がかつていた場所だ。
「それでハニーがここに来たのは久しぶりに『整備』してほしかったのかい?」
「いや、ぶらぶら歩いてたらここに着いた」
「それは体が本能的に求めてるってやつさ」
「たしかに、だけど俺はたぶんハルを『整備』したかったんだと思う」
「ほう、おもしろい言い方だね。郷帰り早々孝行ってやつかい?」
「そんな気はさらさらない」
「ああ、なるほどなるほど、遅めの反抗期のほうか」
「まあそんなところだ」
正直、どんな距離感で話をしたらいいかわからなかった。それでも俺には彼と話したかったことがあった。
「でもハルを『整備』したい。いや、ハルをこの体で感じたかったのは本当だ」
「……それは卑怯だろ」
ハルはこれまで見たことのない顔をしていた。俺は都市に出て色々なことを学んだ。それでハルが俺にしてくれた「整備」が、特別な行為であることを知ってしまった。積み重なった知識で浮き彫りになった劣情に戸惑った。あの深い目の底にあったのが、俺への好意だったのか、行為だったのか、何度も問うた。
それでも答えは出なかった。
それでも思い出はあたたかかった。
理由もなく、ただ何となくここに帰ってきたのだと思っていたが多分違う。俺は確かめに来たんだ。ハルが俺のことをどう思っていたのか。十年経ってどう思っているのか。俺自身の想いは何なのか。
ハルもあの行為の意味を俺が知ったことに気づいたのだろう。少なくともその顔には困惑の色が見て取れた。
「もう俺も子供じゃない」
俺はもう大人になったのだから、子供に対してのお茶を濁すような、真実を煙に巻くような、あんな回りくどい言葉はいらない。
「いや、ガキさ」
「でもまったくの無知じゃない」
「いや、無知さ」
「ああ、だから知りたいんだ。ハルの気持ちとか」
「そうかい……」
そう言って彼は機械油の香を誤魔化すように、深く紫煙を吸い込んだ。一息つくと灰を落として腰のベルトに煙管を差す。
「俺もまったくの無知さ。自分の気持ちも君の気持も知りたいと思う。つまり、なんにもわからねえってことさ」
「じゃあ直接的な言葉で言おうか?」
「ん」
「幼かった俺を『整備』だの『愛してる』だの、比喩とか甘い言葉をかけて犯していたのはどういう気持ちだった?」
「わからない」
かつてハルがしていたことは、都市では犯罪だった。幼い者の肉体と性を欲のままに貪り、ただ快楽で満たすだけの行為。無邪気で純粋な子の憧れを欲に染め上げる儀式。倫理的に許されることではない。
「すべて正直に言ってくれ、ハルは子供じゃないだろ!」
「君より大人だから、素直になれないし忘れっぽいんだよ」
未だに自分が大人で俺は子供のような関係を続けようとする。俺は大人や子供なんて陳腐なレッテルはどうでもいい。ただ俺をこんな体にした復讐をしたい。憧れと欲がまぜこぜになって、どうしようもなくなったこの身を解放したい。だから言う。
「じゃあハルより素直だし忘れにくいから言う。俺はハルが好きだ。小さい頃、あの時間が何より好きだったし、こうやって隣で座っている時間なんて今でも好きだ。だけど一方的な恋心は、相手からすれば厄介で迷惑だと思う。ハルは俺のこと、どう想ってる?」
尋ねるとハルは憂いを孕んだ笑みをいっそう深めた。
「都市でずいぶんと色々学んできたみたいだね」
「物覚えはいいからな」
「けど、どこかパーツがいかれてしまったみたいだ」
「それはどういう意味?」
尋ねるとハルはシャツのボタンを外して、胸元をはだけさせ薄明りに晒した。筋肉質ではあるが、骨が浮き出た胸だ。そして右手の鋭い指先で胸の皮膚を切りはじめた。なぜか血は滲みもしなかった。正方形の三辺を切り裂くと、そのうちの縦辺に指を潜り込ませ、めくりあげていく。ビリッミチッと音を立てて剥がれていくが、やはり血の一滴も流れない。
「俺たちは機械なんだ」
露出した胸元は金属光沢を帯びていた。そこには確かに肋骨はあるが、それらは鉛のような、鉄のような、仮にも生物とは思えない質感だった。骨の隙間、奥に見えるのは大量の歯車と棒状のパーツだ。その体勢のままハルが煙管を口にすると、煙は歯車たちの間を渦巻いて、肋骨からまるで溶岩のようにトロリトロリとこぼれ出てくる。
「俺たち?」
「言わなくてもわかるだろう? 子供じゃないんだからさ、ハニー」
自分の胸に手を当てる。心臓の鼓動がゆったり生々しく感じられたはずだ。しかしそれは軽ろやかな金属たちの騒めきに変わっていた。シャツをはだけさせて、試しに胸に爪を立ててみる。これまではこんなに深く指を沈ませたら痛くてたまらなかった。でもそんなのが錯覚だったと思えるほどに、今は何も感じない。爪が骨に当たる。そこから小さく皮膚を引き裂いた。
そこにあったのはハルのと同じ輝きだった。
「俺はもともと戦争用のアンドロイドだったんだ。この中身だけの腕も、戦場で剥ぎ取られたのさ。しかも俺みたいな指揮官クラスのは、生きた判断ために感情を仕込まれてるからな。そりゃあ仲間も作りはじめるさ」
「ということは」
「俺は君のお父さんってことさ」
「俺はハルの子供なのか」
「そのとおり」
「じゃあなんで幼かった俺をなぐさみものにした?」
「生身の人間の気持ちを知りたかった。だから、マネをしたんだ」
「俺の体は機械なんだろう? それなのにどうして成長するんだ」
「ハニーはウチに来てた他の子どもたちのことは覚えているかい?」
「覚えてる。モル、シグマ、サイ、モノ、トリ、他にもみんな覚えてる」
「あの子たちはいまだにあの姿のままだよ。君だけが俺の研究してきた成長できる機械なんだ」
「それでハルは俺のことを人間のことを知るための実験台にしていたのか? それとも別の感情もあったのか?」
「どう思う?」
ただあの快楽だけがハルとの思い出ではない。いや、あの快楽も感情とか人間性が生んだ錯覚だったのかもしれない。だとしても、隣に座ってゆったり遊んで過ごした日々は、いや、あれも人間性のための実験というやつだったのだろうか。それになぐさみものにしていたのは俺だけだったのだろうか。他の成長できない機械たちにもしていたのか。そうだったら、ただの実験台だ。でも、思い出せばハルの隣はいつも俺の特等席だった。ハルはいつも他の子供たちにおもちゃを、俺に場所を与えた。つまり俺だけが特別なのか。しても、特別な実験台だったのか、特別な感情の対象だったのかわからない。
考えるほどに答えから遠のいていく気がする。疑いと可能性がとめどなく湧いてくる。だから湧いてきた思考を剥ぎ取って、素直に素朴に答えた。
「別の感情もあったと信じたい」
「そうか」
ボソッとつぶやいた口は、ゆるく結ばれていた。右手を握ったり開いたりして、カシャカシャ音を立てながら、関節の具合を確かめている。
「俺たちの感覚や感情は幻なんだ。俺も初めは痛みを感じていたが、戦場で傷つくほどに自分は機械だって、痛みなんて存在しない無機物だって思って、消えていった。おかげで、ほとんど何も感じなくなったよ。こんなの人間らしくない。俺は人間になりたかったんだ。この感情は人間のやつの模造品だからこそ、人間たちが人間らしくありたいとか、人間臭いのがいいなって思うのと同じなんだろうな。しかも戦争が終われば、それの道具はいらなくなって、棄てられるだけさ。だから別の道具か、道具を使う側にも憧れててね。それで失った分の感覚を取り戻したくってな。人間が感じうる様々なものをね。それで、そう、なぜか快楽だけは感じられたのさ。否定しきれなかった。君との交わりだけが人間性の証だったんだ」
「俺のいなかった十年はどうしてた?」
「子供たちを文字通り整備して、親子の愛とかそういうのに浸っていたよ」
「本当か?」
「勘弁してくれ、俺は一途だよ、ハニー?」
パッと胡散臭くも明るい笑顔を見せる。
「人間性に一途なんだろ」
「もっとも人間に近くて俺にも近い、それに顔も俺好みに作ったんだから、君以外じゃダメなんだよ」
「君以外じゃダメってわかるということは、俺以外の奴とヤったんだな?」
「それは、その、経験さ。人間は恋愛でもなんでもいくつも経験を得て一人前になっていくだろう?」
「つまりヤったってことなんだな」
「それは、まあ、うん」
「『整備』されたことは?」
「ない」
その言葉を聞いて安心した俺がいた。だが、心は安らかではなかった。熱くのぼるような駆動の高まりを感じていた。心臓がないはずなのに、大きく脈打つ何かを感じる。気がつくと俺はベンチから立ち上がっていた。ハルの手を引き、店の奥へといざなう。
「ハニー、どうしたんだい?」
「言葉はいらないだろ、行こう」
「いや、ちょっと待ってくれよ、俺だって心の準備が……」
「人間を知りたいんだろう? これまで知らなかった『整備』される側の快楽を知れば、もっと人間に近づける」
「にしても年寄りをいたわってほしいね」
「だから『整備』が必要だろう? それとも人間と触れ合って来て最も人間らしい俺にしてもらうのが、イヤなのか?」
「イヤじゃないけどさ」
「安心しろ、都市で人間たちから色々教えてもらってきたから」
「もしかして、俺以外と『整備』したのかい?」
「ひみつ」
「ええ!」
「いいから、されたいのかされたくないのか、はっきりしてくれ」
「それは、されたいさ」
錆と油のにおいは強くなっていく。かわりに失った感覚が戻っていく。指先が鉄の冷たさを覚え、露出した肋骨が風に冷えていくのを感じる。じんわり痛みも感じるが、傷のひどさほどではない。
「さあシよう」
「はじめてなんだ、優しくしておくれよ」
「約束できない。ハルが俺にしてくれたようにするからな」
つまり欲しいままに求めるということだ。
「ハル、今日子供たちは?」
「なんだか君が来るような予感がしてさ、遊園地のロキに世話を頼んだよ」
「じゃあ、これまで会わなかった分をすべて埋めよう。お互い飽きて痛みが戻るまで」
「どうやらお互いパーツがどこかいかれちまったみたいだね」
「機械としてイカれてても、人間としては上等だろ」
「まともなのは君だけさ。俺はどこまで行っても人間に使われるだけの機械だよ。創造主は被造物を必ずしも愛さず、被造物はたいてい創造主を愛す。ただそれだけのことよ」
ハルの手を引き店の奥の闇に紛れる。一瞬、俺の心に浮かんだのは幼き頃の記憶、心地よい機械油と錆トタンのにおい、ハルに連れられ味わった快楽と形なき温もりだった。
機械油と錆トタン 狐藤夏雪 @kassethu-Goto
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