すこしなんて程度ではないほどに、

明滅する視界の中、私はどうにか拡散した自我の再収集を試みる。散らばった体をどうにか一点に集めて……集めて、集めたところで得た自覚は、私は今ミツキさんとキスをしているということだった。


何故!?


いつの間にか手のつなぎ方を変えられていて、「逃がさないぞ」とばかりに組まれた右手の指が痛いほど握られる。私も痛いほど握る。暗かったはずの室内は今やパステルカラーのミラーボールの中みたいにキラキラ光っていて、私の目も痛い。唇の感覚が嫌でも尖る。思っていたよりもはるかにしっとりとした感触が、そのまま私の唇を押しつぶし、押し開いて、36.6度の空気を押し込んだ。……うそ、うそ、待って、いくら何でも早いって! 私の焦りと裏腹に、少し伏し目がちになっているミツキさんの目元にわずかな皺が寄り、そして、予想に反しての塊は私の中へは入ってこなくて安堵したけど、それとは別のが入ってくる感じがあった。


何?


それは、───それ、としか形容できないなにかは、私の喉を通って体の中に入り、胃には入らず心臓へ向かい、そこから肺へ、背骨へ、首筋の後ろをゆっくり上り、後頭部にたどり着いたかと思ったら目の後ろから外側へぱっと飛び散った。そこで私はようやく息を吸い、今まで息を止めていたことを知る。


「っは、は……は……!? わっ……」

「ごめんねミハル、これしか方法がないんだよね」

「え……!? なん……えっ……」


動揺しきりの私の肩をミツキさんが撫でてくる。ずらされたマスクを直すかどうか迷って、結局直せずにいるうちにミツキさんの口元はもう隠れていた。ちょっとムッとしてしまう。一人だけ先に平常心に戻るだなんてズルいぞミツキさん。まばたきを数回、それでもまだ私の心臓は暴れまわっている。

ていうか、今の話の流れのどこにキスする前兆があったんだろう!? ミツキさんもキスしてみたかったとか? でもそういうのってもうちょっと雰囲気作ってからじゃ、とかごちゃごちゃ頭の中をひっかきまわしているうちに気分が落ち着いてきて、ようやく周りのキラキラした光の正体に気が付いた。さっきから見えてたこの光、私の気分の比喩表現とかそういうのじゃなくて、幻覚じゃなくて、いや間違いなく幻覚ではあった。

クラゲが宙に浮いている。


クラゲが宙に浮いている。


クラゲが宙に、いや何度目をこすっても空中にクラゲが浮いている。


丸い笠、細く伸びるリボンのような足。ナニクラゲ、って名前がわかるわけじゃないけど、「クラゲ」って聞いてまず想像するようなよくあるクラゲの形だ。そういうのが少なくとも私とミツキさんの間に二匹、ミツキさんの肩越しに五、六匹、この展示室内に無数にいる。クラゲはほんのり光っていて、暗いはずの展示室がツートーンぐらい明るさを増している。


「わかる?」


ミツキさんが囁く。ミツキさんの視線は、私から見て右横へ泳いでいくクラゲをばっちり追いかけている。


「わかる……」


わかってしまう。情報量が多くて、脳がパンクしそうで、心の端っこではマスク直さないとなとか誰かここに通りすがったりしてないだろうなとかを心配してるけど、そういうのはちょっと隅っこに放り投げてしまう。わかる。わかった。感覚が物語っている。

これはミツキさんの視界だ。


ミツキさんの視界は光るクラゲでいつも明るい。



***



「僕は生まれた時からクラゲが見えるんだ」


カフェテリアのあるスペースは陽光が射しているのもあって、クラゲの光は目立たない。けれど、左手の甲にくっついた一匹の足がどうもくすぐったいような気がして、無意味にそこをこすってしまう。クラゲは私をからかうようにふわんと手から肩へ移った。注文したカフェラテの白い泡の上には、ミズクラゲを模した模様がココアパウダーで描かれている。


「ちっちゃい頃はみんなにクラゲの話して変な子扱いされたけどね、……中学の頃に初めてキスして、その時にこの視界を他人に移せるって気づいてさ」


ミツキさんはちょっと気まずそうにアイスオレンジティーの氷をストローでくるくる回す。ファーストキス中学かあ。いいなー。私はさっきが初めてだったんだけど、それは言わないでおこうと心の中で決意する。


「あのときは……相手の子をノイローゼにしちゃって。ずっと『変なのが見える』って唸っててすごくかわいそうで……いろいろ試して、どうにかもとに戻してあげられたけど」

「戻っちゃうの?」


きれいだからこのままがいいな、とちょっと思ってたから、戻っちゃうのはちょっと残念だ。それを正直に言うと、ミツキさんは嬉しそうなのになんだか泣きそうな目をしていた。


「そういう人だと思ったから、あなたのこと好きになったんだ」


ミツキさんの頭の上で、ちいさなクラゲが踊っている。


どうやらこのクラゲは近くにいる人の精神状況を反映しているらしい。嬉しい時はぴょこぴょこ動くし、落ち込んでる時は周りに溜まってじっとする。それで私がこの水族館でクラゲ(水槽の中にいる方だ)を眺めているとき、私を中心に渦を巻くようにして回遊していたのだとミツキさんは言った。すごくきれいだったんだって言ってくれた。

ミツキさんの周りのクラゲもずっとミツキさんの髪にじゃれていてすごくかわいいので素直にそう伝えると、私の恋人は眉毛をハの字にして笑った。


「あなたがこれを否定しないでいてくれてうれしい」


私たちを中心にして、クラゲたちは渦を巻く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クラゲの君 定点A @fixedpoint_a

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ