浮き上がる前には一度沈むのだ
私とミツキさんは毎週末、だいたい土曜日、たまに日曜日に水族館でデートをする仲になった。デートって言ってもまあ、クラゲの展示室でぼーっとしながら世間話をしたり、ちょっとうとうとしたり、それからカフェテリアでご飯を食べたりするくらい。水族館以外の場所にはまだ行ってない。なんとなく行く気になれなかったっていうか、なんというか、ミツキさんには水族館が似合うなと思って、そんな気分で。
ミツキさんはずっといい匂いがする。
それは私が匂いフェチとかそういう話じゃなくって、匂いがわかるくらい近くに寄ってくる、ってこと。パーソナルスペースは狭い方らしい。多分整髪料の匂いなんだろうその香りに包まれて、ミツキさん自身の体臭はよくわからない。合わせて私も体を前より念入りに洗うようになったし、シャンプーも変えてみた。髪が長かった時のヘアケア用じゃなくって、今の短髪スタイルに合わせて、頭皮のあぶらを落とす方向のやつ。ミツキさんは髪をバッサリ切った私を見て、ちょっと目を丸くして、そのあと「触っていい?」って遠慮がちに訊いてきた。わかるよ、刈り上げたばっかりのちくちくするとこ、触り心地いいもんね。
ミツキさんと私は声を潜めて話をする。ミツキさんはクラゲが好きで、ブックカバーの収集家で、でも小説はあんまり読まなくて、大学は行ってなくてアルバイターで、歳は私と同じで、映画はたまに見に行くし、音楽は気に入りのを数曲だけずっとリピートする派だし、それで、手をつなぐのが好き。私はクラゲが好きで、それ以外はあんまりミツキさんと共通事項は無くって、ただスキンシップは嫌いじゃないよって言ったら、ミツキさんは嬉しそうに鼻から息を吐いた。
で、セックスはしていない。
したいのかな。それもわかんない。元彼はめちゃくちゃしたがっていてキスはしなかったけどセックスはめちゃくちゃ本当にしたがっていて、だから私も頑張って男同士のやり方を調べちゃったりしたんだけど、実践しちゃったりしたんだけど、私自身からやりたいって思ったことはあんまりなかったような気がするし、今もミツキさん相手にムラムラしたりとかはしない。ドキドキはものすごくしてるけど。ミツキさんの方はどうなんだろうか、やりたがってるかな?出会ってまだ二ヶ月経つか経たないかぐらいの関係じゃ、その辺の機微までは読み取れない。ドキドキしてそうなのはわかる。たまに私の目とか顔とかをジーっと見て、ニコーって顔して笑ってるから私のこと好きなのは間違いないんだけど、整髪料の香りが性欲の香りをわからなくしてる。どうなんだろうか。マスクの下はもう見たことあるし、ちっちゃい口のさらさらしてそうな見た目の唇をチラチラ見て、私はキスしたらどうなるんだろうってちょっとだけ、ちょっとだけ思ったことがあるけど、ミツキさんの方はどうなんだろう。
セックスするならミツキさんを水族館の外へ連れて行かなきゃいけなくって、それが私にとっての一番の障害だった。あの人を水族館の外へ出すことの想像が全然つかなくって、なんか、ミツキさんには水族館が似合うのだ、とても。クラゲの展示の仄暗い灯りに照らされるあの髪の色とか、たまにクラゲの種類が変わってるネイルアートとか、いつもスキニーで隠されてる細い脚とかを、そのイメージをあの施設に閉じ込めておきたいと私は思っていて……ここまでつらつら考えたけど、要は私はミツキさんのことをかなり好きで大事にしたくて大事にした過ぎてちょっと怖がっているってことだ。
まあキスはしてみたいなと思っている。
***
「ミツキさんは、なんで私のことが気になり始めたの」
デートの回数が片手で数えられなくなって、そのあと数回デートして、私はようやくその質問を舌にのせた。少しの沈黙を破るように。繋いでいる右手がほんのり湿っている。クラゲ展示室のベンチの周りには誰もいなくって、いたとしてもきっとこの声の小ささじゃ誰にも聞こえてないし、薄暗くて誰にも見えていない。ミツキさんの髪の毛が揺れる音を、私は神経を研ぎ澄ませて感じている。
「言ってなかったっけ」
「言ってたっけ……覚えてないです」
「そっかあ」
ん、と少し溜めるような喉の音。ミツキさんの癖だ。何か考え事をしていたり、話すことをまとめたいときにそういう音が鳴る。普段暗いクラゲ展示室にばかりいるせいで、視覚に頼らないでミツキさんを見る癖がついているのだ。ミツキさんは私とつないでいる左手を少し動かして、私の右手の手の甲にある中指の付け根の骨をこりこりと撫でる。くすぐったいので、握る力をちょっと強めてみた。
ミツキさんは声を出す前にすっと息を吐く癖もある。
「んー……前に言ったのは、ほら。ミハルが来るとこの辺のクラゲが喜ぶから」
「あー、そうでしたっけ……」
「そう」
「クラゲが喜んでるとかって、ミツキさんわかるの?私長い事クラゲ見に来てるけど全然」
視線を肩越しに背後に向ける。二メートルほど後ろの水槽にはウリクラゲの仲間がいて、ほんのり虹色に光っているのだ。いつもこの子たちはこんな感じだけど、私がいないときは様子が違ったりするんだろうか?
「あー、そうだね、うん……そうだね、ミハル、多分僕らの認識、違ってる」
「え?」
「違ってて当然っていうかわかるわけない話なんだけどさ、えーと、どうしようかな……」
こり。右手の中指の骨がまたくすぐったくなる。右肩に体重が乗って、カーディガン越しに体温が伝わる。首筋に整髪料のほんのちょっとのべたつき。鎖骨のあたりがかゆい。ミツキさんのマスクがそこにあたっている。どうしようかな、ともう一度呟いたミツキさんが、何を迷っているのか私にはわからないでいる。知り合って二ヶ月経っていないから、心の中を察せない。どうしようはこっちのセリフでもあるんだけどな。心臓の音、多分聞こえてるだろうからちょっと恥ずかしいんだけどな。
「ど……どうしたのミツキさん」
「あー、うーん……信じるかな、ミハルは……あのね、……」
「…………あの……」
「ああ……面倒くさいや、もういいか。ちょっとマスク外すね」
へ? という声が出る前に、私の目の前はスパークした。
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