第八膳 前半 『孤独を癒すラーメン』

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むかしむかし。

これはのちに室町と呼ばれる時代のお話し。


 京のはずれ、比叡の山を眺める山裾に臨乗寺という寺がありました。古くは歴代の法王の山荘があったところを半将軍と呼ばれた管領・細川 政元ほそかわまさもとが十一代将軍足利義澄のため寺に改めたものでした。将軍ゆかりの寺になったために寄進も多く、あちこちに多くの荘園を持っておりました。臨乗寺では東班衆と呼ばれる経営専門の僧を派遣して各荘園を管理しておりました。

また寺のなかには玲蔭軒と呼ばれる足利義澄のための禅室があり、この玲蔭軒の管理を任された者は軒主と呼ばれておりました。歴代軒主は日々を記し、その記録は『玲蔭緑記』と呼ばれています。


華やかな東山文化の終焉の始まりの頃でありました。


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 フーフクピョ キヨキヨ


 ああ、蔀戸しとみどの向こうで春鳥子うぐいすが鳴いておる。


 はゆるゆると八重畳やえだたみしとねから起き上がるとふすまを身に纏い几帳きちょうの陰から蔀戸を薄く押し上げた。薄暗い室内に早春の光が射し込み、暗く沈む板間に一条の白い帯を描く。戸を支える老いてかさついた白い指先に、吹き込む風が僅かに梅の香を届けてきた。そうか、そろそろ冬も終るか。

坪庭の梅の木で、人来鳥うぐいすが「キヨキヨ」人が来るよと鳴いておる。もう誰も来もしないのに。

満開の梅の香に、そういえばと色あせた思い出が綻ぶ。遠い昔。まだこの指先が淡く色づいていた頃。あれも、梅の頃のことであった。


   ~~~~~~~~~


 それはが居寮、玲成院れいじょういんの坪庭の梅がすっかり花を散らした日のことであった。玲成院は、八瀬にある臨乗寺の塔頭のひとつ。山近くにあるゆえに冬の訪れは早く、春はなかなかやっては来ぬ。

そうしてやっと訪れた春も足早に通り過ぎていくのだ。梅が早々に散ってしまったように。


 梅に寄り添うもみじの葉が赤く染まり始めた季節に現れた明国帰りの若い僧梵済は、梅の花とともに消えてしまった。

月もなくただ梅の香りだけが広がる黄昏れの薄暗闇。名を呼ばれその声に歩を止めたきざはしで、吾が衣の裾を抱き取り苦し気に何度も何度も吾の名を呼んだは。あれは、別れの言葉であったのか。

の者の明るい声で満たされていた部屋は、すっかり空虚うつろな空間に戻ってしまった。凍てつく夜のあの温もりは、吾の夢にすぎなかったかもしれぬ。

まだこの指先はの肌を覚えているというのに。


 『大事なものとは、失わねばわからぬもの』


 「わかっておったわ。」

はここにいつまでもるような者ではない。」

そう自らを慰めてみても、悲しみ沈む心はまるで塗篭ぬりごめの部屋にいるように光も風も感じることはない。ただただ時が移ろうだけであった。

そうだ。あれは、梅の頃であったの。


  ~~~~~~~~~~~~~


 「軒主様、軒主様。」

ためらいがちの呼びかけが耳に届いた。

「軒主様、もう日が暮れまする。

冷えますのでどうかお部屋へお戻りを。」隠侍いんじの声で、思い出に付き合って半日ばかりぼんやりしていたことに気づかされた。 

几帳の奥には灯明がすでに灯され、ゆらゆらと部屋の中に影を作っている。供の手を借り強張った足をゆっくりと進め、円座についた。

吾が座るを待って、典座てんぞの者が膳を運んできて廊下で隠侍に引き渡した。

「本日は寒うございますので、温かい経帯麺ラーメンにいたしました。」

「経帯麺か。」

「はい。」 

「そうか。」

温かい出汁の香りが胃の腑を呼び起こす。小さく鳴った吾の腹の音に、供の者が下を向いて顔を隠した。


   ~~~~~~~~~~


 そういえば、とまた思い出が浮かんでくる。

若い梵済はいつも空腹そうであった。自らそう口にすることはなかったが、よく腹を鳴らしておった。いつのことであったか。湯漬けを出した時は遠慮がちに二杯めを欲しがった。そうだ、初めて経帯麺を出した折には、「これは何なのか?出汁は何を使っているのか?麺は何で出来ているのか?どうしたらこのような食感になるのか?」矢継ぎ早に典座に詰めよっていた。話しをしつつも早々に食べ尽し、名残惜しそうに椀を眺めておった。まことに美味しそうに食べる様子に、吾の椀を勧めたくなるほどであった。

あぁ、そういえば。吾の居寮には唐菓子もよく届けられていた。梵済は、だから居着いたのかもしれぬの。

椀の水面にぽつりと水の輪が生まれて消えた。


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 「軒主様、お客人がお見えにございます。」

食事が終わるのを待っていたかのようにしとみの向こうから声がかかった。

手燭にみちびかれ広縁を進む。

庭はすっかり宵闇に紛れ、吊り灯籠の僅かなな明かりでは木々の輪郭すら定かでない。

庭の梅の香りが少しばかり強くなったようだ。


 出向いた表の間には既に人影があった。

灯明の薄明かりのなかに漂う沈香の、いやこれは伽羅か。深く少し苦味をも感じさせる伽羅の香り。その香りが客人の軽らからぬ身分を物語る。平伏する黒衣の人影がゆっくりと身を起こす。


 ふと。

その姿にもう顔も定かでない若い僧が重なる。


「……梵済よ。飢えてはおらぬか?」


吾の口から思うより先に、言葉がこぼれ落ちた。

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