第六膳 前半 『初めてのハンバーグ』

 あのね。

横浜のじいちゃんの家は変わっているんだ。

道に面したおもてかわは白い石壁の異国風、裏っかわはそこいらの家と同じ畳と土間のある家なんだ。ここで昔、じいちゃんとばあちゃんは洋食屋をやってたんだって。

表っ側にある縦長の窓は、真ん中の真鍮の取手を押すとギィって左右に分かれて開く。窓のそばには飴色の机と座るとギシギシ鳴る椅子がふたつ。片方の椅子には座布団が置いてあってじいちゃんはよくそこで新聞を読んでいる。もう片方の椅子には明るい色の羽織がかけてあるけど、誰か座っているところを見たことはない。

机の上にはフチの欠けた薄緑色のギャマンのランプと色の変わった古い写真と、小さな壺にはいつも花が一輪さしてある。いつもピカピカに磨いてあるランプは以前勤めていた横浜の「れすとらん」を辞める時に「れすとらん」の「おーなー」さんからもらったもので、その店でばあちゃんに出会ったんだって。ばあちゃんと二人でやっていたこの洋食屋は、そのギヤマンのランプにちなんだ名前だったって言ってた。


 陽当りのいい大きな部屋なのに、机と椅子と小さな異国風な飾り棚の他になにもなくて、がらんとして寂しげだ。片方の白い壁には恐ろし気な大きなひび割れがある。

「これは前の地震(関東大震災)の時に出来たんだよ。」って、かあちゃんがひび割れをなぞりながら悲しそうな声で教えてくれた。天井には立派なシャンデリアがあったのに地震で落ちて粉々になってしまったって。シャンデリアが落ちた場所を母ちゃんはいつも泣きそうな顔で見る。

ばあちゃんはこの地震で死んだ。その時ばあちゃんと一緒にいたじいちゃんは足に大けがをしてゆっくりしか歩けなくなった。僕はその時まだ二歳になっていなくて、ばあちゃんのこともじいちゃんの怪我のことも何も覚えてない。


 裏っ側につながる壁の飾り棚には額に入った古い写真がいくつか置いてある。「これは東京でのじいちゃんの修業時代」ってかあちゃんが教えてくれた写真には、レンガ造りの大きな建物の前で信じられないくらい若いじいちゃんが髭の外国人と写っている。かあちゃんが僕のほっぺを撫でるときみたいに優しく触れる写真には、じいちゃんと写真でしか知らないばあちゃんと若いかあちゃんが一緒に笑っていた。


 じいちゃんはかあちゃんのとうちゃんだ。

じいちゃんはいつも白い襟のシャツを着て黒っぽいズボンを履いている。寒い時は首に艶々した綺麗なスカーフを巻いて、かあちゃんが持ってる洋服の本に出てきそうな感じだ。

嘉永の生まれ。安政、万延、文久、元治、慶応、明治ときて、今は大正。気が遠くなるほどの長生きだ。背は低くてあんまりしゃべらなくて、しわしわだ。

僕には兄ちゃんとちい兄ちゃんの間に姉ちゃんが三人いる。妹と弟も一人ずついるんだけど、田植えの時、稲刈りの時、じいちゃんの家に預けられるのは僕だけなんだ。

「忙しい時にアンタの後ばかり付いて歩かれん。」っていつも母ちゃんが言う。

僕はひとところにじっとしているのが、どうしてなのか出来ない。気になるものがあると、言いつけを忘れてそっちに行ってしまう。手伝いの最中でもそれをやってしまうので、いつも大人に怒られてばかりだ。


 じいちゃんの家には表っ側にも入口はあるんだけど、僕は裏っ側の土間の方から出入りしている。かあちゃんと来るときはいつもこっちから入るから。

シンと暗い土間から上がってすぐの小さな明り窓の下に本棚がある。その棚を埋め尽くすのは擦り切れた料理本ばかりだ。中にはかあちゃんがたまに買うような写真がある本も混ざっているけど、大半は僕には読めない外国語や古い漢字ばかりの料理本。白黒の絵だけのものもあって、これは何だろう?どんな味がするのだろう?って想像するのが楽しい。僕がいつも料理本を眺めているのはそれ以外の本がないからなんだけど、それだけじゃなくて。そこここにじいちゃんの走り書きがあって頁をめくってはじいちゃんの書きつけを眺めるのが好きなんだ。

 

 「食べたいものはあったか?」

ラジオを聞いていたじいちゃんが、ちゃぶ台からよいこらしょっと立ち上がりながら僕に聞いた。


 僕は小さくうなずくと、一番年季の入った外国語の一冊を取り出した。じいちゃんの一番のお気に入りの本なのか走り書きがたくさんある。中には一度書いたのを消して書き直したものもある。その上綴ってある糸が切れてるもんだから気をつけて開かないと本がバラバラになってしまうんだ。十分注意してずっと気になていた頁をじいちゃんに見せた。

 

 「また古い本を。

ハンバーグステーキか。昔よく作った。」


 じいちゃんはそう言うと、懐かしそうに本を撫でた。

「じいちゃん。コレ読めるの?」

「ああ、料理の手引きだからな。

西洋料理を習うヤツはみんな字引を引きながら読んだもんだ。」

じいちゃんはすごく遠くを見るような顔で、しわに埋もれた目を細めた。

「じいちゃん、本当に本当の料理人だったの?」

「ああ。」

「楽しかった?」

「ああ。」

「美味しく出来た?」

「ああ。」


 「伊作、いくつになった?」 

じいちゃんが、思い付いたように僕に聞いた。

「えーと、とう。」

「そうか、大きゅうなった。なら大丈夫だろう。

おまえ、ひとりで作ってみろ。」

僕はびっくりして、

「僕が?

お手伝いじゃなくて?」

「じいちゃんが手伝うさ。

作り方を覚えて、家でかあちゃんたちに作ってやれ。喜ぶぞ。」

「かあちゃん、喜ぶ?」

「ああ。」

「本当?」

「ああ。」

「伊作、よくやったねって言ってくれる?」

「ああ。」

「僕、ちゃんと覚えられる?」

「しっかり目と耳と手を動かしていれば、覚えられるさ。」

「うん!」


 ハンバーグステーキの材料が揃った次の日、僕はじいちゃんの前掛けを借りて首に巻いた。でないと胸のところを汚しそうだったから。じいちゃんがたすきを持ってきてお腹のところも括ってくれた。なんだか本物の料理人みたいで、じいちゃんと同じくらい美味しいハンバーグステーキを作ることが出来そうな気持ちになった。

 

 じいちゃんのお腹がぐうって鳴って、一緒に笑った。



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