第五膳 前半 『おでかけとちらし寿司』

 「兄上、おはようございます。

もう朝稽古はお済みなのですか?」

「ああ、おはよう。」

表にある道場から戻って来られた兄様あにさまは道着の襟元を寛がせて首すじを手拭いで拭きながら、以前と変わらぬ笑顔をこちらへ向けられました。

「おや、礼子。ずいぶんと早起きだな。

珍しくもう顔を洗ったのかい?」

「もう!礼子はそんな子どもではありませぬ!」

「あはは、悪かった。」

こんなふうに兄様に朝のご挨拶をするのはずいぶんと久方ぶりのこと。こんなふうに笑いあうのも。兄様のために朝餉のお手伝いをすることも久方ぶりです。

「今日の味噌汁はなに?」などと尋ねられたのも久方ぶりです。

 

 上様の護衛で上洛をされていた兄様がやっと江戸に戻られたのは、五日も前のこと。

そのあとも大御番士の方々とか講武所の方々とか、お弟子さんたちやら父上様のお付き合いやらで家でゆっくりする間もなく慌ただしく過ごしておられました。

それが今朝やっと朝餉をご一緒出来るのですから、わたくしの心が浮き立つのも仕方のないことです。


 兄様は、私の本当の兄ではありません。

この家は御徒士おかち、刀で上様にお仕えする家です。それも少し特殊で、流派を守るために血筋ではなく門弟から腕がたつ者を宗家の当主として迎える家訓がございます。

前当主、兄様の今は亡きお父上も養子として当主になられ、その次期当主として選ばれたのが私の父上だったのです。

本来ならば兄様は叔父上様なのです。でも年も近いし兄でよいと仰いまして、ありがたく「兄上」とお呼びしているのです。


 その兄様が久方ぶりに今宵は家で夕飯をお召し上がりになるとのこと。

「兄上、なにがよろしゅうございますか?」

こうお尋ねするのものも、久方ぶり。

そして返ってきたお答えにどういたしましょうと困りましたのも、久方ぶりのことなのです。

『ちらし寿司』 

それが兄様のご希望でした。


 桃の節句もずっと前に終わりましたのに、兄様が召し上がりたいのは『ちらし寿司』。

こんな夏にと思いますものの、正月に上京されやっと七月にお戻りになって、雛祭りの『ちらし寿司』を食べていただけなかったことを思いますと、兄様のお望みならばなんとかせねばならぬと気を取り直します。

兄様ご贔屓の料理屋とまではいかないまでも、せめて見た目はきれいにして兄様の目を楽しませてさしあげたい。

「おや、礼子が作ってくれるのかい?

そいつは楽しみだな。」

そんな私の胸のうちを知るはずもなく、兄様は期待に目を輝かせてこちらをご覧になりました。その様子からして、ちらし寿司には何やら思い入れがありそうなご様子でした。


 でもちらし寿司を作るのは桃の節句くらいで、しかも常なら母上が差配して実際作るのは女衆。

そもそも具材は何を使いましたかしら?

兄様は食いしん坊で舌が肥えておいでだから生半可な材料では喜んでくださらない。

さて、どういたしましょう。

ああ、そうですね。


「兄上、買い物にお付き合い願えますか?」



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