押せば何でも思った通りになるボタン

夏目一馬

本文

 私と関わった人間の多くは、私をつまらない男だと評した。異を唱えたいわけではない。事実私自身そう思うのだから仕方がない。また、別の言葉で、まじめだと評されることもある。つまらなさとまじめさは表裏一体だろう。それを良いものとして捉えるか悪いものとして捉えるかの違いでしかない。不純な行いはしたことがない、学生時代は一度も欠席をしなかった、仕事もやれと言われたものは全てこなしてきた。確かにそういう人間はまじめと評価できる一方つまらないだろう。私はそういう人間だ。

 あなたの一番大切なものは何ですか、というよくある質問に対する答え方を知らない。私を構成するものはおおよそ三つしかない。勉強と、仕事と、金。この三つの中から一番大切なものは何であるか考えてみる。勉強というのは、仕事を生み出すものだ。仕事というのは、金を生み出すものだ。となると畢竟私が勉学に励む学生の時から仕事に励む今まさにこの瞬間までの間に真に目指しているものは金ということになる。私にとって一番大切なものというのは金なのだろう。そう結論付けてみても、まるで他人事のようで実感が湧かない。きっと本心では金でさえどうでもよく、本当は大切なものなど私にとっては存在していないのだろう。ただ敢えて考えてみると出る結論が金というだけのことだ。

 そういう性質の私がこのような自分自身と無縁なことを考えているのはおかしな話であるのは明らかだが、つまりは内発的動機づけによるものではなく、外部から私にこういった思考を強いるものがあったからのことなのである。

 仕事からの帰り道、電車を降りて暗い路地を歩いていた。月のよく映える夜だった。人も車も通らないような時間帯であるから、前を見ずに月をぼうっと眺めながら歩いていたのだが、特にこれといった理由もなく視線を下界に戻したときに、月の下に、その真っ白なのとは対照的に、まるで影そのものであるかのように真っ黒な猫がいるのに気がついた。月と同じ色の瞳がその影に浮かんだ時、初めて今まで私に対して背を向けていたらしいことに気がついた。猫の瞳は美しいと予て思っていた。人間とは違うのだ。人間の瞳は濁ったような白目が目立ちすぎている。加えてその白目に気味の悪い血管が走っているのだからまったくもって美しくはない。きっと欲望を満たしてくれるものを探すために血眼になってあたりに薄汚い視線を飛ばしているからあれほど醜いものになるのだろう。だからこそ、気まぐれに明後日の方向を見つめている猫の瞳というのは美しいのだ。目というのは本来獲物を見定めるために生まれた器官なのだろう。しかし却ってその本来の役割を忘却していればいるほど、目というのは綺麗なものになるのだ。

 暫くその猫と見つめ合っていると、おもむろにこちらに歩み寄ってきた。屈んで撫でてやろうと思って顔を近づけると、突然何かが違うような異質な感じに襲われた。不吉な予感が背筋を寒くした。


「突然のこと、失礼を承知で申し上げますが、少しあなたに話があります」


 私は突然聞こえてきたその声にぎょっとした。間違いなくこの猫のいる方向から声がした。若い、二十代くらいの男の声であった。


「あなたには、叶えたい願いがありますか」


「なんの、話だ?」


 現実味のない状況にうろたえてしまい、嚙み合っていない返答をしてしまった。屈んだ体勢のまま動けなくなる。

 言葉の通りです、と、その猫は再び同じことを繰り返した。「あなたには、叶えたい願いがありますか。」


「願い、というのは、まあ、欲望か。欲望なら、まあ、ある。そりゃ、叶えたいことくらい」


 自分の口から明らかに冷静さを欠いたような声が出たのを聞いて、なんだか滑稽に思い、それがきっかけとなり少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。


「具体的な願いを訊きはしません。ただわずかでも欲があることがわかればいいのです」


 話の向かう先がわからず返答に困る私を置き去りにし、その猫は「これを」と言ってとあるボタンを私に渡した。古めかしい皮の本のような台座に、場違いに赤い円がついている。その赤い円がボタンとしての押すべき部分だ。一体なんのボタンだろうか。そこまで考えてから、その猫がどうやって私にこのボタンを手渡したのかという疑問が背筋を凍らせた。まさか肉球でこの大きさのものを掴んでこちらに寄こしたわけがないだろう。確かに人間の手によって渡された記憶がある。しかしそれがどういう手だったか、袖はどういう服であったか、そういったことは全く思い出せない。ちょうど、夢の中で出会った人物の顔を思い出せないのと同じである。疑問に思ったところで、その猫は私に質問をする隙を与えない。


「それは、押せばなんでも思った通りになるボタンです。しかしそれを押すと、代わりにあなたにとって一番大切なものが消滅します。もう一度押せば二番目に大切なものが消えます。三度目には三番目に、四度目には四番目に」


「は? それはどういう」


「疑問に思ったところで事実は事実です。訊いたところで意味のないことですよ。言葉の通りです」


 なんだかおちょくられているような気がして腹が立ったが、私がなんとか言う前にその猫は姿を消してしまっていた。仕事で疲れているから変な幻覚を見るのだろう。乱雑に仕事鞄に押し込んでから、家に帰った。改めてそのボタンを取り出して、枕元に置いて眠りに就いた。

 目が覚めても件のボタンは枕元に存在した。顔を洗って戻って来ても確かに在った。今日は休日だ。時間にゆとりがある。昨日の疲れを洗い落とすような気持ちでシャワーを浴びて部屋に戻ったが、相変わらずそのボタンは枕元に存在していた。いよいよもって現実として受け入れなければならないと思った。

 押せばなんでも思った通りになるボタン。しかしその代わりに私にとって一番大切なものが消滅する。そこで先に述べた思考に至るのだ。金が消えるのかと納得した私は、試しにボタンを押してみた。どうせそんなことは起こらないだろうと考えての軽はずみな行動だった。「何を望みますか」と昨夜の猫の声が聞こえた気がして驚いた。まさか、と思って、とりあえず私はリスクが発生しないように、「金を稼がなくても暮らしていけるようにしてくれ」と答えた。すると、猫の気配が消えたような感覚があった。一体何なんだ、と肩の力を抜いた私はそのボタンをテーブルに放った。しかし肩はすぐに再び緊張することとなった。

 その時、つけていたテレビから緊迫感に満ちたアナウンサーの声で臨時ニュースが流れた。某有名銀行が複数同時に経営破綻したとのことだった。それらはすべて私が金を預けている銀行だった。本当に代償として私の金が消えたのだろうか。しかし私はこうなることを予期して金を稼がなくても生活できるようにと願ったから問題はないはずだ。そう思っていると、携帯電話が鳴った。画面を見ると故郷に住む母親からだった。感情的にだらだらと話す母親のことだから、話は必要以上に長くなったが、要約するとこうだ。宝くじが当たったが、私たち夫婦のような年寄りにこんな大金は使い道がない。そこで唯一の子どもである私に七割ほど譲ってくれるのだという。しかし七割とはいっても充分働かずとも食っていける金額であった。私はこんな荒唐無稽なことがあるだろうかと思いながら電話を切った。

 休み明けに、私は辞表を上司に手渡したが、契約の関係上すぐさま辞めることはできない。しかし私にはどうでもいい話であったから、その日から仕事をするのを辞めた。会社からの電話は全て無視した。私はこんな不真面目で冷淡な人間だったかと少し疑問に思ったが些細なことだった。

 自由の身となった私は例のボタンを鞄に大切にしまうと手に提げて、特にこれといった理由もなしに散歩に出かけた。そこでとある中学生くらいのこどもを見た。セーラー服を着て学校に向かう少女だ。私は大人になってから、女性と深くかかわることは何度かあった。しかしそのどれもが相手に真に心を許したと言えるものではなかった。そういった心の壁が表に現れ、相手にやりづらさを感じさせてしまい、今まで短い付き合いを繰り返すこととなってしまったのだろう。真に心を許せなかったのは彼女たちの純真さの無いことが原因だ。いろいろなことを知ってしまっている。知っているから取り繕っている。女は綺麗な服を着て体を隠し、化粧をして顔を隠す。既にそういった壁を私に向かって作っているのだから、私の方からそれに対して壁を作ってしまうのも無理はないような気がした。ただの神経質だろうか。

 だからこそ、対岸を歩いている少女には憧憬の念を覚えた。制服というものを無条件に着ているから彼女の身体は精神的な意味で隠されていはいない。もし私服姿であったならば大人と同様隠されているのかもしれない。しかし現にこどもは制服を主に着る。当然化粧などしてはいなかった。着飾りもせず顔も飾らないのだから、単純な視覚上の美しさでは劣るだろう。それは私も認めていることだ。しかし、それとは違う魅力を確かに感じるのだった。屈託の無さ、無邪気さ、そういったものが私を魅了する。

 それが今までの私の抱く感情であったはずなのに、何故だかこの時はそういった思いを想起しなかった。不思議に思ったが、それはこういった非現実的な出来事の数々が私の感覚に一時的な麻痺を引き起こしているだけなのではないか、と思い、とにかく今までの私ならどうするだろうか、と考えてボタンを押した。また猫の声が、何を望むか尋ねた。私の二番目に大切なものは仕事のはずだ。仕事なら既に自分から辞めている。問題はないはずだ。


「あの子を私のものにしたい」


 おかしい、と、次の日の朝私は隣で眠る少女を見ながら思った。共に過ごしたところで一切幸福感が湧かなかった上、私はこのような倫理的におかしい行動を取るような男であっただろうか。こういう疑問を抱いたときにようやく寒気が体を襲うのだった。感覚の一時的な麻痺だと適当に片付けていいようなことではないと思った。私は怖くなって家を飛び出した。しかし念のためボタンは外套のポケットにしまっていた。嫌な夢を見ているとしか思えなかった。

 おかしくなってしまった自分自身が怖くなり、私は息も切れ切れに当てもなく走っていた。自分自身から逃げたいのだろうか、しかし自分は自分なのだから逃げようがない。原因は不確かなまま、逃げたい、逃げたいという感覚だけが単独で私の中を占領していた。何かに追われているような恐怖がつきまとって苛々した。電気屋の前で体力が限界を迎え、走るのをやめた。肩で息をする。呼吸を整えなければならない。その電気屋の入り口に置かれたラジオが何やら喋っていたが、聞いてみると現実味の無いおかしな内容であった。


『本日は飛行機雲の出来やすい気候です。大気が不安定になり航空機が墜落する恐れがありますが、危ないですので、外出の際は帽子をかぶるようにしましょう』


 何の話をしているのかがよくわからなかった。私は怖くなって、そのラジオの音から逃げるように駆け出した。きっと悪い夢を見ているに違いない。こんなことは現実的にありえないはずだ。何かがおかしい、しかし何がおかしいのかがわからない。そういう不安感が、行くあてもないまま私の足を突き動かす。ただ得体の知れない何かから逃げたかった。

 空はいつの間にか夕焼けになっていた。却って昼間よりも眩しく感じる茜色が目を刺し視界を塞ぐ。遠くで大きな音が鳴った。近くでも大きな音が鳴った。きっと飛行機が次々と墜落しているに違いない。近くの音は振動を伴った。漏れ出た燃料の燃えるような熱さも伝わってきた。墜落する飛行機の直撃した家屋、ビルが次々と崩壊していく。あたり一面が炎に包まれる。日本の空はこれほど夥しい量の飛行機が飛んでいただろうか。まさかそんなことはあるまい。ただ助けてほしいという一心でボタンを押した。


「助けてくれ」


 壁や天井、机、椅子、全てが真っ白な会議室のような部屋の真ん中の椅子に私は座っていた。ホワイトボードの前の机上に、例の黒猫が座っていた。


「助けてくれ、何が起こってるんだ」


 癇癪を起したかのように切羽詰まって言う私を無視し、黒猫はただ短く関係の無いことを言った。


「コギト・エルゴ・スムと唱えてみてください」


「え? コギト・エルゴ・スムだって?」


 言葉自体の意味は分かるが、それをここで言わせようとする意図がまったく読めないためについオウム返しに口に出してしまった。それを引き金として、感覚の麻痺だと思っていた、失った感覚が一息に私の脳内に押し寄せてきた。私は本来自分の属するコミュニティに迷惑をかけるような人間ではない。しかしそれをしてしまったことへの良心の呵責。私は本来先のような倫理観を欠いた行動をするような人間ではない。またしても良心の呵責に襲われる。自分自身に嫌気が差して虫唾が走った。どうしようもないもどかしさに襲われて、ボタンを握る手に力を込めるが、我関せずといった調子で続ける。


「もっともあなたはオン・ム・パンスに近い状態だったといえるのかもしれません。そもそもあなたは一番大切なものというのを理解できていない。あなたは一番大切なものというのを自分の外に見出してしまったようだが、そもそもそれを見出しているあなたが存在しなければ外の世界の大切な物など見つけようがない。認識は存在に先立つ。つまりあなたにとって一番大切なものというのはあなた自身であったのです」


 さっきから何を言っているのかがわからないため、先ほどまでの恐怖が今度は怒りに転じて脳を支配した。


「ふざけるなッ!」


 叫びながらボタンを壁に向かって投げつけた。腕を振り抜いた姿勢から視線をもとに戻すと、まず何よりも目に付いたのが鮮烈な赤であった。加えて先ほどまでの会議室の壁ではなかった。自室の壁であった。その壁が一部真っ赤に染まっている。血であった。壁に私の心臓が、投げつけられた形でへばりついていた。まったく予期すらできないような光景を前にして息が止まった。

 私の視線の先に猫が入り込んできて、相変わらず何やらくどくどと語り始める。


「人間は等価交換をする生き物です。しかし『等価』であるならばそこに交換の意味はないはずです。利益が発生していないのですから。しかし現に利益が発生するからこそ人間は等価交換をする、そういうパラドックスを抱えている生き物なのです。しかしそこには確かに筋が通っているはず。その時その時の、その人その人の価値観の違いがあるからこそ等価交換は成り立つのです。例えば、腹が減っているときに金を持っていても食べられないのだから仕方がない。その時のその人にとって金の価値は低くなっているわけです。そこで、金が欲しい人間と市場価値に基づいて交換し、彼は食べ物を手に入れ、もう一方は欲しかった金を手に入れる。人間はそういう一時的な価値観の違いを利用して等価交換から利益を得ることができるのです。ところで、人間は社会的動物である。人間の為す等価交換を捨てるというのならば、それは死を意味することになりますが」


 等価交換という言葉とともに、猫は壁に叩きつけられて潰れた心臓を、相変わらず存在しないはずの人間の手で指さした。


「あのボタンこそ、等価交換そのものだったというのに。ああ、あなたは感覚が消えたと言っていましたが、本来ならあなたは消滅していますよ。願いを叶る対価はあなた自身だったのですから」


「どうしてそんなことを、どうして私自身を失っても、私は完全に消えないんだ」


 冷静さを欠いているせいか詳細に理解はできないが、何か決定的にまずいことをされたという予想は直感的にあった。だから私をこうまで追い詰め、そして消滅したはずの私を存在させている理由がわからず気味悪く思った。


「ボタンを渡したのも何もかも、我々読者の暇つぶしの悦楽のためです。悲劇を自ら経験するなんてことはまっぴら御免だ。しかし他人のものであれば話は別です。見ていると心が満たされるのです。有意義な体験として我々読者の心に残る」


「何を言っているんだ? 読者? それはともかく、暇つぶしの悦楽のために? それが私が完全に消滅しない理由?」


「そうです。私は賭けをして楽しんでいました。願いの対価があなた自身であることに気づくか否か。しかし気づかないまますぐに消滅してしまったらおもしろくない。そこで、まあ、せいぜい肉体的な存在は保ったまま精神的な存在を少し頂いたのです。その結果、外界からの刺激に対してはなんの反応も示さないのに、自分の心の中から発生する刺激や思考に対しては反応する奇妙な状態になりましたが。クオリアの消失でしょうか?」


 核心に近づくにつれ、猫の声の調子が上がっていく。喜びに震える人間のようになっていく。私は時折この猫に人間の腕があるかのように「幻視」する理由に合点がいった。


「吾輩は猫である。観測者というのは残酷に冷淡に対象の言動や感情を眺め、楽しむことができる。それが我々読者なのです」


 猫の言うことの全ては理解できないが、気にかかることがあった。


「じゃあなぜだ、なぜ今失った私の心を返した」


 その声は怒りとも恐怖とも判別のつかない震えを帯びていた。


「そんなもの、単純ですよ、死ぬ直前の人間に自分のキャッシュカードと暗証番号の書かれたメモを渡しても、どうせすぐに死んで返ってくるんだから何の不利益も無いんですよ。ただの気まぐれです。おもしろいと思ったから」


 猫の目は目としての実用から縁が遠いから綺麗なのだと思った。それは事実だ。つまりこの猫の目は猫の目ではない。人間のそれでしかなかった。この猫、いや人間の目は綺麗なわけがなかった。その目で品定めをし、手を伸ばしてくる。そういった欲望を満たすための目でしかなかった。


「まあ対価は最後にはしっかり頂いておきますよ」


 猫ではない別の何かが、あんぐりと口を開けた。鋭利な牙が覗いた。腕を伸ばし、その手指で私の肩を押さえつける。身動きが取れない。視界が暗転する。

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