プロローグ ②〈原因はプロペラ〉

 せわしなく操縦桿を左右に振り、ラダーペダルを何度も荒く踏み込む――。

 そのさまは経験に乏しいパイロットのように見え、実際ユモはの新米パイロットだった。


 初等訓練の途中で実戦に放り込まれた彼女にとって、今回のように燃料・弾薬を満載した状態での操縦経験は一度も無い。飛行に安定を欠いてしまうのは無理もない事かも知れない。


 しかし、ユモの乗る爆撃機が左右に蛇行するような動きにおちいっている主な理由は、また別に在る。


「機体の傾きが直らない……どんどん左に曲がっていく……」


 ――この状況を理解するためには、爆撃機プロペラ機の構造について触れておく必要がある。彼女を苦しませている原因は、機体の中に存在しているからだ。


 回転するプロペラは大気を切り裂き、空気を後方に吹き飛ばしている。その際に発生するを使って、飛行機は前へと進む事ができる。

 この力は「推力」と呼ばれ、生み出された推力の一部は主翼によって上下に引き裂かれ、『揚力』を発生させている。


 4トン近い爆撃機が空を飛ぶことが出来るのは、「推力」と『揚力』が作用しているためで、これらはプロペラの回転によって生み出されている。


 そして、プロペラは1000馬力以上の猛烈な力で右に回っている。この時、プロペラは強烈なを発生させているため、彼女の機体は左方向へとじり上げられしまう。


 これが「反トルク」と呼ばれる厄介な力で、ユモの飛行が安定しない原因の正体である。

 機体が左に回転し、進行方向が左上へと流れてしまう力に、彼女は必死に抵抗していた。


 意外なようだが、プロペラを回して飛ぶすべての航空機は、何の対策もしなければ、という宿命を背負っている。当然、設計者は様々な方法で対策を行ってきた。


 その一つが「トリムタブ」と呼ばれる操舵装置だ。上下ピッチ左右ヨーを調整する舵の一部分を、任意の角度に調整することが出来る。これはユモの乗る爆撃機にも装備されている。座席の左側だ。


 トリムタブの調整は二つの小さなハンドルを回すだけなのだが……その内包ないほうは困難の連続だった。


 まず、右手で操縦桿を握って機体が真っ直ぐに飛ぶ位置をさぐり、左手でハンドルを回して飛行のクセを修正する――。


 この複雑な操作は、空を飛び始めて間もない彼女に動揺を与えるのに十分であり、パイロットの挙動きょどうを忠実に拾う愛機の軌跡は、文字通り乱れた。


 僚機りょうきに無線でトリム適正値を聞き出すことも考えたが、作戦行動中の無線封鎖を破る内容でないのは明らかだった。

 頼れる者がいない空でたったひとり、何度も何度もハンドルを回し続ける。

 これが何回目の挑戦か、最早もはや数えている余裕はない。


 再びトリム調整を済ませた彼女は、意を決して操縦桿からゆっくりと手を離していく――。


(今度こそ……今度こそ上手く飛んで……!)


 恐々きょうきょうとする彼女を余所よそに、手放しの状態となった機体は傾く事も、左に曲がる事もなかった。ユモの愛機は、遂に素直な直線機動を空に描いたのである。

 

「やったぁああ! 真っ直ぐ飛んだぁぁああ!!」


 青い瞳が見開かれ、ぱっとかがやきがよみがえる。

 かかげた両手がコックピットをおお窓ガラスキャノピーに当たるのも気にせず、童心どうしんが抜け切らない彼女はパタパタと足も動かして喜びをあらわにする。


 双尾翼ツインテールの方向舵がこれに連動し、機首が左右に動き回って爆撃機は踊るような挙動を示した。


 安堵あんどしたユモは目に溜め込んでいた涙をぬぐい、酸素マスクの下で満面の笑みを浮かべた。


 それは、離陸してから初めて見せた笑顔だった。

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