プロローグ ③〈……お腹がすいた〉

 帰ったらトリムタブの調整値をメモして、次はちゃんと飛べるようにしよう――そう考えながら視点を前へ向けた直後、彼女は目をき、座席の上で飛び上がった。


「け……煙が真っ黒!?」


 機首の左右に穿うがたれた12本の排気管から濃密な煤煙ばいえんが噴き出し、時折大きな炎が見え隠れしている。

 すっかり動揺したユモは、この原因に思い当たるまで数秒を要した。


『高度を上げれば酸素濃度は薄くなる。これに見合った量の燃料を送らなければ、エンジンは機嫌を損ねて――やがてする』


 座学ざがくの時に語った教官の言葉が脳裏のうりに浮かび、特に『停止する』という一言が何度も反芻はんすうされる。


「……燃料が濃すぎるんだ」


 原因は分かった。が、燃料濃度をどのくらい下げれば良いのか思い出せない。

 だぶつく飛行服の太ももに設けられたポケットから手帳を取り出すと、革手袋を外して急いでページをめくっていく。

 今堕ちるわけにはいかなかった。眼下の雲海を突き破るのは、まだずっと先なのだから。


「あった! えっと……高度5000mの気圧は地上の約半分で……酸素濃度は55%。燃料濃度は――60%~70%か。よしっ!」


 文字を追いながら燃料濃度調整のダイヤルをしぼると、排気からすみのようなどす黒さが消え、思わず小さく拳を握る。

 併せて離陸してから全開のまま放置していたオイルクーラーの通風孔を半開まで閉じると、空気抵抗が減って機速きそくが僅かに上昇した。

 スロットルをやや落として、編隊飛行速度の時速350kmを維持。


「油圧よし、油温よし、エンジン温度は……ちょっと高いけどよし、残りの燃料もたくさんあるから、多分よし!」


 全ての計器を一つずつ指をさして機体が正常のいきにあることを確認すると、酸素マスクの中で深く安堵あんどの息をつき、アルミニウム製の椅子にドッと沈み込む。


「疲れたぁ……。まだ空を飛んでるだけなのに……」


 ――空を飛ぶ。ただそれだけのことでも、彼女にとっては重労働だった。


 反トルクに苦しみ、トリムタブに翻弄ほんろうされ、酸素濃度との戦いにからくも勝利した今、忘れていた感覚がじわじわと胃に広がっていくのを感じていた。


「……おなか空いた」


 戦うために作られた航空機の内部とは思えない、なんとも気の抜けた空気がコックピットに漂う。初出撃というこの日、重圧が食欲を奪い去り、水もロクに喉を通らなかった事を思い出した。


 左前方20mを飛ぶ小隊長機をちらりと見て、その視線が前方に向けられているのを確認すると、彼女は座席下のパラシュート格納部から細長い包みを取り出した。茶色い油紙をいそいそとめくると、そこにはキツネ色の焼き目が印象的な角柱状の焼き菓子が現れる。


 トウモロコシ粉を主原料に蕎麦そばの実と大麦を混ぜ合わせ、仕上げにとろとろの水飴をたっぷりと塗って焼き上げた素朴な菓子だ。熱を加えられた水飴はキャラメル色のコーティングとなって陽光ようこうつややかに反射している。


 これに負けないくらい瞳を輝かせた彼女は手早く酸素マスクを取り去ると、緩み切った口角とそこに覗かせる大きめの八重歯犬歯あらわになる。


 焼き菓子を噛んだ瞬間、口内を砂糖の甘味かんみが電撃的に広がった。ここにトウモロコシが持つ素朴な甘さの支援砲火が加わり、った蕎麦そばの実が放つ香ばしさと、大麦のもちもちとした食感の同時進攻がこれに続くと、ここまで彼女が募らせた苦労を完膚かんぷなきまでに吹き飛ばした。


 もくもくと頬張る顔に、大輪の華が咲き乱れる。

 狭いコックピットで続く緊張からようやく解放された彼女は、視線をキャノピー越しに外へ向ける。


 普段なら頼りない印象しか持てない薄いプレキシグラス(アクリル樹脂の一種)のキャノピーに、この時ばかりは感謝していた。薄いが故に視界の歪みも少なく、見上げる空のいろどりを鮮やかに透過とうかしてくれるからだ。


 頭上のはるか高空は黒みを帯びた深い藍色あいいろに染まり、視線を落とすにつれてあわ群青色ぐんじょういろへと変化していく。

 そして、眼下にはひたすらに続く雲海が水平線のように伸びる。


 地上では決して見ることができない情景に、思わず目を細めるのだった――。

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