ぽんこつパイロットが空に軌跡を残すまで――

防衛太郎

第一部 始まりの青

第一章 青と白。黒と赤。

1-1 青と白

 眼前に広がるのは一面の青であった。


 その色は晴れた日に海が見せる蒼を思わせたが、陽光に輝く水面みなもも踊り立つ波間も存在しない。


 だが、視界のすべてが青に染まろうとする世界に、もう一つの色がった。


 どこまでも続く白い波濤はとう

 雲海。



 青と、白の空間。


 ――――ここは、空の世界。






 高度5000m。

 雲海の上を滑るように飛ぶ、幾つもの航空機が在った。


 鋭い矢じりの形をして飛ぶさまは、高空こうくうを飛ぶ渡鳥にも見える。

 V字陣形。そう呼ばれる編隊は二つ。


 先陣はつばめのように鋭利な外見を持つ戦闘機で構成され、右翼と左翼にそれぞれ4機をつらねる。

 その後方、やや低い位置を飛ぶのは爆撃機の群れだ。エンジン一つで飛ぶ姿は戦闘機に酷似こくじしているが、爆弾を抱いた武骨なおもむきは先の燕たちと明らかに異なる。

 8機の戦闘機と27機の爆撃機は空中という不安定な空間にあっても、不動の大地を駆けるように互いの距離と高度を保っていた。

 しかし、一糸乱れぬ編隊にただ一つのように揺れる機体が見える。

 

 爆撃機隊の最右翼、そのコックピットに収まるパイロットは、緊張と焦燥しょうそう只中ただなかにあった。


「お願い! 真っ直ぐ飛んで……!!」


 絞り出したような心の叫びは、口をおおう酸素マスクを通り抜けて窮屈きゅうくつな操縦席に独白どくはくとなって消える。

 

 鮮やかな茶色タンニンに染まるなめし革の飛行帽をすっぽりと被り、そこから僅かにのぞかせる毛髪はつややかな銀髪であった。視線をさえぎらない程度に切り詰めた前髪の下、青い双眸そうぼうまたたく。

 身を包むカーキ色に染まった飛行服のサイズはまるで合っておらず、明らかに大きい。兵站へいたん科の手配違いかと疑われても致し方のない様相ようそうにあっても、身体のところどころで描かれる曲線は女性特有の柔らかさをたたえている。

 

 空にかせて輝く硝子ガラス玉のような彼女の瞳は今、苦渋の色をにじませていた。


 その理由は操縦席の煩雑はんざつさにあった。

 

 まず彼女の目に入るのはびっしりと並んだ計器とスイッチだ。数にして計器18個、トグルスイッチ12個、レバー3個。両膝の真ん中には操縦かんが延び、左手の位置にはスロットルレバーと二つの爆弾投下スイッチの計3つ、足元にはラダーペダルが置かれている。

 細かい部分を省略してもでこの有り様だ。加えて座席左右の壁面にも操作盤がずらりと占めていた。

 

 彼女にとってここは操縦席というより、無数の歯車と複雑怪奇ふくざつかいきな部品が詰め込まれた懐中かいちゅう時計の腹の中だった。


 

 もう一つ、彼女の焦燥を駆り立てる要因があった。それを理解するには、プロペラ機の構造について順を追って見る必要がある。


 機首に設けられ轟轟ごうごううなるエンジンはプロペラを鋭く回して大気を切り裂き、細切こまぎれにした空気のかたまりを後方に投げ飛ばして推力すいりょくへと変え続ける。

 推力の一部は翼によって上下に引き裂かれながら揚力に変換され、4トン近い機体を空中に留め続けるが、右に回るプロペラは強烈な反作用となって彼女が操る愛機を左にじり上げた。


 反トルク。

 この力が機体の進む方向を勝手に左上へと押し流していた。彼女はこの力を抑えようと必死だった。


 対策なしには一秒たりとも真っ直ぐに飛べないのが、プロペラを回して飛ぶすべての航空機が持つ宿命であり、彼女の機体も例外ではない。


 機体を真っ直ぐ飛行させるためには、反トルクに対して機を反対に向ければ解決するが、飛行中ずっとこの操作を続けるのは手間になる。航空機技術の向上と共に飛行時間が伸び、手間は無視できない負担となった。


 操縦系統から手足を放しても真っ直ぐ飛べるようにして欲しい――こうした多くのパイロットの要望から生み出されたのが上下ピッチ左右ヨーを調整できる「トリムタブ」で、これは彼女の機体にも装備されている。座席の左側だ。

 トリムタブの見た目はただの小さなハンドルで、機体の偏向へんこう調整はこれを回すだけなのだが……その内包ないほうは困難の連続だった。


 操縦かんわずかに右前方に倒し、足元のラダーペダルをそっと右に踏んで機体が真っ直ぐに飛ぶ位置を探る。この二つの微妙な力加減をしながら、左手をスロットルレバーから離して、トリム適正値を探し出し、これに合わせる――。

 

 この複雑な操作は、空を飛び始めて間もない彼女に動揺どうようを与えるのに十分であり、パイロットの挙動きょどうを忠実に拾う愛機の軌跡きせきは、文字通り乱れた。

 太陽光の熱を受ける大地が放つ輻射熱ふくしゃねつ恩恵おんけいから遠い空にあっても、飛行服の中がじっとりと汗ばみ始めていた。


 僚機りょうきに無線でトリム適正値を聞き出すことも考えたが、作戦行動中の無線封鎖を破る内容でないのは明らかだった。頼れる者がいない空中でたったひとり、何度も何度もハンドルを回し続ける。

 ひとしきり調整を終えた彼女は、意を決して操縦かんから震える手を離す。

 これが何度目の挑戦か、最早もはや数えている余裕はない。

 恐々きょうきょうとする胸中をよそに機体は傾くことも左に曲がることもなく、愛機は今度こそ素直な機動を空に描いた。


 見開かれた青い瞳に、ぱっとかがやきが戻る。


「やったぁああ! 真っ直ぐに飛んだぁ!!」


 かかげた両手がコックピットをおおうガラスに当たるのも気にせず、童心どうしんが抜け切らない彼女はパタパタと足も動かして喜びをあらわにする。


 しかし、鼻唄混じりで視点を前方に移した彼女は再び慌てることになった。

 

「け……煙が真っ黒!?」


 機首の左右に穿うがたれたエンジン排気管からは酷く濃密なすすが噴き出し、時折小さな炎も見え隠れしている。

 この原因に思い当たるまで数秒を要した。

 

『高度を上げれば酸素濃度は薄くなる。これに見合った燃料を送らなければ、エンジンは機嫌を損ねて――やがて停止する』

 

 座学ざがくの時に語った教官の言葉が脳裏のうりに浮かび、特に『停止する』の一言が何度も反芻はんすうされる。

 

「……燃料が濃すぎるんだ」


 原因は分かったが、燃料濃度をどのくらい下げればいいのか思い出せない。

 だぶつく飛行服の太ももに設けられたポケットから手帳を取り出すと革手袋を口にくわえて外し、急いでページをめくる。

 今堕ちるわけにはいかなかった。眼下の雲海を突き破るのは、まだずっと先なのだから。


「あった! えっと……高度5000mの気圧は地上の約半分で……酸素濃度は55%……燃料濃度は60%~70%か。よしっ!」


 文字を追いながら燃料濃度をしぼると、排気からすみのようなどす黒さが消え、思わず小さく拳を握る。

 併せて離陸してから全開のまま放置していたラジエーターの通風孔を半開まで閉じると、空気抵抗が減って機速きそくが僅かに上昇した。

 左手でスロットルをやや落として、編隊飛行速度の時速350kmを維持する。


「油圧よし、油温よし、エンジン温度は……ちょっと高いけどよし、残りの燃料もたくさんあるから、多分よし!」


 全ての計器を一つずつ指をさして機体が正常のいきにあることを確認すると、彼女は酸素マスクの中で深く安堵あんどの息をつき、アルミニウム製の椅子にドッと沈み込む。

 

「疲れたぁ……。まだ空を飛んでるだけなのに……」


 ――空を飛ぶ。ただそれだけのことでも、彼女にとっては重労働だった。


 反トルクに苦しみ、トリムタブに翻弄ほんろうされ、酸素濃度との戦いにからくも勝利した彼女は、忘れていた感覚がじわじわと胃に広がっていくのを感じていた。


「……おなか空いた」


 戦うために作られた航空機の内部とは思えない、なんとも気の抜けた空気がコックピットに漂う。初出撃というこの日、重圧が食欲を奪い去り水もロクに喉を通らなかったことを思い出した。


 左前方20mを飛ぶ小隊長機をちらりと見て、その視線が前方に向けられているのを確認すると、彼女は座席下のパラシュート格納部から細長い包みを取り出した。機内持込みを認められていないであろう茶色い油紙をいそいそとめくると、そこにはキツネ色の焼き目が印象的な角柱状の焼き菓子が現れる。


 トウモロコシ粉を主原料に蕎麦そばの実と大麦を混ぜ、仕上げにとろとろの水飴をたっぷりと塗って焼き上げた素朴な菓子だ。熱を加えられた水飴はキャラメル色のコーティングとなって陽光ようこうつややかに反射している。

 これに負けないくらい瞳を輝かせた彼女は手早く酸素マスクを取り去ると、緩み切った口角とそこに覗かせる大きめの八重歯犬歯あらわになる。


 焼き菓子を噛んだ瞬間、口内を砂糖の甘味かんみが電撃的に広がった。ここにトウモロコシが持つ素朴な甘さの支援砲火が加わり、った蕎麦そばの実が放つ香ばしさと大麦のモチモチとした食感の同時進攻がこれに続くと、ここまで彼女が募らせた苦労を完膚かんぷなきまでに吹き飛ばした。

 

 もくもくと頬張る彼女の顔に、大輪の華が咲き乱れる。

 

 狭いコックピットで続く緊張からようやく解放された彼女は、視線をプレキシグラスキャノピー越しの外へ向ける。


 普段なら頼りない印象しか持てない薄いキャノピーに、この時ばかりは感謝していた。薄いが故に視界の歪みも少なく、見上げる空のいろどりを鮮やかに透過とうかしてくれるからだ。


 頭上のはるか高空は黒みを帯びた深い藍色あいいろに染まり、視線を落とすにつれてあわ群青色ぐんじょういろへと変化していく。

 そして、眼下にはひたすらに続く雲海が水平線のように伸びる。


 地上では決して見ることができない情景に、彼女は思わず目を細めた。

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