1-2 黒と白

 冬の訪れを告げるものは何か。


 この国に生きる者にたずねれば、皆一様に雲海と答えるだろう。


 北方より現れる広大な層積雲そうせきうんは、空に漂う晩秋の残香ざんこうを追い出すように大陸へ迫ると、雲海となってその天上てんじょうを支配した。

 触れば水がにじみ出そうな雲は低く垂れ込め、やがて地上のすべてを覆い隠そうと白銀の雪を振り撒き始める。


 大陸は、長い冬を迎えようとしていた。




 

 緩やかな起伏がどこまでも続く、雪を運ぶ雲海。

 その上に、もう一つの雲があった。


 直線的な白い帯―—飛行機雲コントレイル


 蒼空に白の彩りを加えるのは、戦闘機と爆撃機の群れだ。厳格なV字陣形を成し、これを乱す機体は今や存在しない。

 

 いずれの機体も白を基調に塗装され、灰色のまだら模様を全身にまとう。そこには一片のつやもなく、光を強く反射することはない。

 輪郭のすべてを雲海に溶け込ませて飛ぶ彼らは、地上で創られたのではなく、まるで雲の合間から生み出されたような印象すら受ける。


 35機が蒼天にかたどるのは、一辺が200mを超える白の大三角。

 この鋭利な頂点にあって、爆撃機隊を率いる機体――大隊長機の翼が左右に鋭く振られたのは、離陸してから距離180kmの地点に差し掛ろうとした時だった。

 翼を振る動きは後方へ波のように広がり、やがて編隊全機へと伝播でんぱしていく。




「……? みんな……何してるの?」


 彼女が周囲の変化に気付いたのは、皆の翼が振れ始めて暫くした時だった。

 

 ここは編隊の最右翼―—コックピットの中で未だに焼き菓子を頬張る新米パイロットに足らないのは、マスクを外している事による酸素欠乏ではなく、危機感と緊張感なのかも知れない。


 翼を左右に振る動きが「バンク」と呼ばれる空中機動の一つであることに気付き、これが挨拶や何かのに多用されることを思い出す。

 怪訝けげんに思った彼女は、手帳からブリーフィング内容を書き留めたページを開いた。


「離陸してから30分後、作戦空域に近づいたら無線通信が入る……」

「大隊長機がバンクで合図するので、これを見たら無線機のスイッチを入れること……!」

 文字を追う顔に隠し切れない喜びの色が浮かぶ。離陸してから続く孤独がじきに終わるという想いが気持ちをはやらせる。


「なるほど! じゃあ早速、無線機の電源を……」


 出発前に小隊長がコックピットに来て、電源を入れるだけで済むように無線周波数を事前に合わせてくれた事に感謝しつつ、トグルスイッチを弾いた。


「―—うわっー! えええぇ!? ちょっ……ちょっと待って!」

 

 無線機が最初に発したのは、強烈なホワイトノイズであった。鼓膜を突き破らんばかりの大音量に驚き、くわえていた焼き菓子が座席の下に転がり落ちる。

 飛行帽子に一体となったヘッドセットはすぐには外せず、彼女は耳を押さえて悶絶した。


 先に無線機を調整すべきか、愛しい焼き菓子を救出すべきか、狭い操縦席に小さな混乱が渦を巻く。


「もー! ほんっと! うるさぁーい!!」


 鼓膜を圧迫する雑音から対処する事にした彼女は、無線機の音量ダイヤルを荒々しくひねった。


 勢いに任せたこの操作はダイヤルを最大音量に引き上げてしまい、声にならない悲鳴が上がると、彼女の機体は再び木の葉のように揺らいだ。


 焦りながらダイヤルを正しい方向に回すと、ようやく耳の痛みから解放される。

 しかし、ヘッドセットからは変わらず雑音だけが続く。無線機の故障か、周波数が違うのか、トリム調整の時に間違って触ったのか……あれこれと不安に駆られ始めたその時――荒れ狂うノイズの海に変化が訪れた。


「……大隊…機より……各……へ」


 酷く不明瞭だが、それは確かに人の声だった。音量をやや上げつつ、彼女は耳に神経を集中させる。


「――大隊長機より各機へ、繰り返す……」


 今度こそ聞き取ったのは、先頭を飛ぶ大隊長の声だった。待ち焦がれた声が聞き慣れた大隊長のそれだとしても、彼女の小さな感動は揺るがない。


「皆、聞こえてるな? 先ほど空中観測班からの暗号通信を捉えた。解読した内容を通達する」

「概要、目標、空域の順に伝える。よく聞け」

 

 もっと会話らしい交信を期待していた彼女は、あまりにも淡々と話される内容に愕然がくぜんとする。


「――概要を伝える。味方の防衛線に敵機甲部隊が接近中だ」

「これに対し、砲兵が阻止砲撃を開始。歩兵、装甲車両を多数撃破するも、敵重戦車二十二輌は残存。防衛線に向けて依然進攻中」

「司令部は地上の装備では重戦車を阻止する手立てはないと判断――我々に攻撃命令が下りた」


「次に目標を指示する。進攻中の敵重戦車。味方防衛線に踏み込まれる前に、これを叩く」

 

「空域についてだが……これは――戦闘機隊から直接の打電だ。読み上げる」

 大隊長の声色に微かな愉悦ゆえつの色が混ざる。

 

「《空域に風雪ふうせつあれど敵機なし》だ。彼らの奮闘により、現時点での制空権は確保された」


 雲海の下を飛ぶもう一つの戦闘機隊が、先んじて空域を制圧していた。

「地上の天候は雪、風向は北東。最大風力は10。観測班からの通信は以上だ」


「防衛部隊は国境を守り、戦闘機隊は道をひらいた。今度は我々が役目を果たす」

 

 大隊長が吠える。

「全機、突入隊形へ!!」


 この言葉を聞いた時、彼女の心臓は大きく跳ねるように強い鼓動を打った。


 実戦。


 どこか遠い事のように思っていた――いや、思おうとしていた二文字がすぐそこまで来ている事に、短すぎる訓練を経て空を飛ぶ若いパイロットは身を震わせた。


 逃げ場を探すように、彼女は眼下の雲海に目を落とす。

 優美さをたたえた白い水平線はたけり狂う荒波に見え、頭上の深い藍色の高空はどこまでも黒く映った。





 黒と、白の空間。


 ――ここは、戦争の空。

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