眼鏡なんか貸したって意味がない

尾八原ジュージ

眼鏡なんか貸したって意味がない

 シローくんは眼鏡をかけない。似合いそうな顔立ちなのにもったいないなと思いつつ、彼は全盲なのでたぶん必要に迫られることがないのだろう。いつも両目をぴたっと閉じていて、そのせいか彼は、何でもないときでもちょっと笑っているみたいに見える。

 シローくんとは『ぺんぎん』で知り合った。わたしの住むアパートにほど近い居酒屋で、行きやすいし雰囲気がいいのでちょくちょく顔を出す。よく見る常連客の中に彼はいた。

 はっきり言って目立つひとだ。三十一歳のわたしと同年代らしいのに、おじいさんみたいに真っ白な髪を伸ばして後ろでひとつに結んでいる。いつ見てもラフな格好をしていて、堅気に見えないけれど何かしら仕事はしているらしく、ただ何をして生計を立てているひとなのかまったく見当がつかない。彼が白杖をつきながら入ってくると、店主も慣れたもので、すぐに「カウンターの端が空いてるよ」などと声をかける。シローくんは目が見えないなんて信じられないくらい、スムーズに指定された席を探し当ててしまう。人懐っこくて、妙な愛嬌があって、いつの間にか会えば話をするくらいの仲になった。

 ある晩、わたしが『ぺんぎん』に足を踏み入れると、カウンターに座っていたシローくんが振り向いて、「マコさん」とわたしの名前を呼びながら手を振った。

「なんでわかったの?」

 たまたま空いていた彼の隣に座りながら聞くと、「足音と雰囲気。あとそろそろ会える頃合いかと思って」と言われた。

 シローくんは異様なほど勘が鋭い。「なんか嫌なことあったでしょう」と言い当てられ、実際その日仕事で結構なやらかしをしたわたしは驚きながらもなんだか悔しく、おどけ半分で「何でわかるんだよチキショー」と言ったら「ボクはこういうのわかる方だよ」と笑いながら一杯奢ってくれた。

 ひとしきりしゃべってヤケクソで笑って、同じタイミングで店を出て、ひとりになるのが寂しかったので「うちで飲まない?」と声をかけたときのわたしは、それ相応に酔っ払っていた。シローくんはシローくんでわりと酔っていて、「じゃあマコさんち連れてってよ〜」と言いながら左手でわたしの右肘を軽く掴んだ。

 全盲の彼からしてみれば、知らないところに行くのに誘導を求めるのは普通の行動で、もちろんそれはわたしもわかっていたのだけど、突然だったし、昼間色々あってセンチでもあったので、腕を触られただけなのに妙にどきどきした。他人にこんなに身を委ねられることってある? とも思って、なんだか嬉しかった。わたしの歩くところになら、彼はどこにでもついてきてくれるような気がした。

 春の、まだ寒い夜だった。コンビニで安いワインを買ってアパートに行き、炬燵にあたりながらお酒を空けているうちに、わたしは何だかこの目を閉じたまんまのひとが、やけにかわいいものに思えてきてしまった。わたしはかけていた銀縁眼鏡を外して炬燵の天板に置き、「今眼鏡外した?」と言ったシローくんからコップを取り上げ、あれ〜わたしこの先どうしようとしたんだっけと今更のように思いながら、酒に浮かされた心もとない視力でぼんやりとした彼の睫毛あたりを見ていた。勘のいいシローくんは、わたしの位置を探るように右手を伸ばし、左頬を長い指で撫でて唇にキスをした。


 わたしたちの関係が変わったことは、『ぺんぎん』の店主には早々にばれた。店に顔を出す頻度が減ったからだ。

 その頃わたしたちは、頻繁にわたしのアパートで会っていた。シローくんの住むマンション(なぜか一人で広い2LDKに住んでいる)の寝室にはおよそ照明というものがなく、光源を必要としない彼にはそれでいいけど、わたしにとっては不便だった。

「別に悪いひとじゃなさそうだから、いいけどさ」と、『ぺんぎん』の店主は無精髭を撫でながらわたしに言った。「シローくん、あれで色んな子としょっちゅうくっついたり別れたりしてるっぽいよ」

「あー、そんな感じすると思った」

 表面上は平気な素振りをしてみせたけど、ちょっとショックだった。あいつ、あんなホイホイ女についてくのが平常運転なんかい。わたしだから特別なんじゃなかったんかい。とはいえ屈託なくマコさんマコさんと呼ばれると、わたしは結構弱い。

 何度かふたりで会って過ごして、わかったことがあった。シローくんは惚れっぽいのではなく、寂しがり屋なのだ。十代の頃に事故で光を失ったという彼は、突然他人を視認できなくなったということへの不安がいつまでも拭えないらしい。わたしの顔の形を確かめるようにひたひたと触り「マコさんじゃなぁ」と呟く。髪に顔を埋めるように匂いを嗅いだり、体をぎゅっと抱きしめたりしてまた「マコさんじゃなぁ」と呟く。こういうとき、彼はどこか西の方の訛が出る。誰かとこういうコミュニケーションをしたいがために、彼はわたしとこういう関係になったんだろうな、とわたしは悟った。

 たぶんシローくんは、別に相手がわたしじゃなくたっていいのだ。わたしのことはたぶん「赤の他人よりは気に入っている」くらいで、わたしは彼の恋人ですらないのだということが、一言もそういうことを言われないうちにわかりつつあった。

 そもそも男女の関係になった後も、わたしはシローくんのことをよく知らない。職業も、正確な年齢も、出身地も彼は教えてくれないし、わたしもあえて聞かない。問い詰めたら離れていってしまう気がして聞けなかった。ただシローくんのシローは名前じゃなくて苗字だということだけがわかった。それくらい知らないことだらけだった。わたしは彼と会えば会うほど寂しくなっていった。


 よく晴れた日曜日の朝には銀縁眼鏡がよく似合う。うすぼんやりとした裸眼でも、わたしの眼鏡がナイトテーブルの上で、朝そのものみたいに輝いているということはわかる。

 その日、先に起きていたシローくんをベッドに呼び戻したわたしは、「ちょっと動かないでよ」と言いながら、自分の眼鏡を半ば強引に彼にかけさせた。

「サイズ合ってないけどこれ大丈夫? どっか歪んだりしない?」

「いいから」

 何しろ、ぜひ一度かけさせたいと思っていたのだ。シローくんの眼鏡姿は、残念ながら裸眼ではぼんやりとしか見えなかった。でも「似合うよ」とわたしは言った。

「ほんとに? ボク見えないからなぁ」

「実はわたしもよく見えてない。でもたぶん似合ってるよ」

 わたしは彼の顔から眼鏡を回収し、自分の顔にかけた。

「マコさん、今のなに?」

「別に」

 ただやってみたかったのだ。似合うだろうなぁとは思っていたけど、それとは別に、わたしの命綱みたいなものをきみに預けてみたかったのだ。でもシローくんにはそんなこと全然意味のないことで、いわばわたしの独り相撲みたいなものなのだ。

「わたしたち別れましょう」

 少し改まってそう告げた。シローくんは一瞬ぴくっとしたけれど、すぐに笑った。

「なんか、そういう気がしよった」

「なんだそれ」

「勘。あとボクなぁ、女の子と付き合っても長続きせんのよ」

 朝の光の中で、両目を閉じた男はへらへらと笑った。

 わたしはアパートの出口まで彼を見送った。

「今度はぺんぎんで会おうね。気まずくなって来なくなるとかナシだよ。店長に悪いから」

「わかったわかった」

 そう言ってわたしたちは別れた。白杖をつきながら、もう慣れた道を遠ざかっていく後ろ姿を見ていたら突然胸が苦しくなって、わたしは部屋に駆け込み、ひとりぼっちで泣いた。やっぱり一応は恋だったのだなと再認識しながら、あいつも泣けよと思った。

 自分から約束したのだから、『ぺんぎん』には今も行く。シローくんもやっぱり常連のままで、だから時々顔を合わせてしまう。

 わたしはなるべく前と同じように話しかけ、シローくんもそんな感じに振る舞う。でもわたしはもう彼の隣が空いていても座らないし、誰がそこにいても気にしないようにしている。もちろんどんなに酔っ払っても、二度と銀縁眼鏡をかけてやったりなんかしない。

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