第5話 おでかけとちらし寿司


 朝起きて『おはよう』のあいさつをするのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。


 朝ごはんを人のために作ったのも久しぶり。

 今日の晩御飯はなに? なんて聞かれたのも久しぶり。

 なにが食べたい? そう聞くのも久しぶりだった。


 そして返ってきた答えに固まったのも久しぶりだった。


『ちらし寿司』


 それがリクエストだった。お、おう。ちらし寿司ね。

 なかなか渋いリクエストで。

 まぁ寿司よりはハードルが低いか。いや、むしろ高いか?

 どの程度本格的に作るかにもよる。

 そもそもちらし寿司っていろいろ種類があり過ぎるし。

 とにかく見た目はきれいに仕上げたいところ。


 と、そんなわたしの胸中を知るはずもなく、期待に目を輝かせて見上げてくる。

 その様子からして、ちらし寿司には何やら思い入れがありそうな様子だった。


 そういえば、ちらし寿司を作るなんて何年ぶりだろう?

 そもそも具材は何を入れてたんだっけ?

 刺身系の具材は大丈夫なのかな?

 これだけ頭を使う料理も珍しい。


 そうだ。それをいっぺんに解決する方法があった。


「よし、今日は一緒に買い物に行こうか!」



 📞 📞 📞 📞



 うっすら予感はあった。このに長居することになるぢゃろうと。

 けして、三度の飯につられたわけではないぞ。あれをいやしき妖と、かろんじ見くびるのであればおおきな間違いぢゃ。人間なんぞに解せよというのははなから無理かも知れぬがの。


 それにつけても、朝から手を抜かずきちんと旨い料理を献じてくるとは感心よ。すまし汁のたてる湯気にも清きこころばえが匂いたつようぢゃ。

 晩にはなにが食えるぢゃろうかとつい想像をふくらませてしもうたとて、いたしかたあるまい?

 しかしまさか、何がよいかと問われるとは思わなんだぞ。

 さらには一緒に買い出しへ行こうなんぞと。



 市場はにぎやか。年を重ねるにつれこのくにが栄えてゆくのはまこと可賀めでたい。活気あふれる市を見られて、吾もうれしい。

 ひとつ気に喰わぬのはこの男、さっきから吾の手をしっかと握ってひとときも離そうとせぬ。もし手を離さば、すぐにも駆けて、どこぞで迷子になるとでも思っておるようぢゃ。

 吾をわらべと心配するのであろうが、吾がそこいらのわらべとは異なることに、そろそろ気づかんものかのう。最近ようおとのうてくる、あのの子のこともな。こやつ、料理のうではたいしたものぢゃが、人に対してはどこか抜けてて鈍いのぢゃな。


 今日は数ある祝いの日のなかでも、こやつが初めて料理をした日。もう幾年いくとせ経ったか知れぬほどむかしの話、ぢゃがあれがこの者の進む道を定めたきっかけのひとつに相違ない。

 祝いにちらし寿司をりくえすとしたのを、むろんこやつは気づいておらぬ。


 頭のなかはすっかり料理でいっぱいになっているのぢゃろう、真剣な目で食材を吟味しておる。

 玉子を指しては、あれるぎいはないかと問い、椎茸を手にとっては、食べられるかと問う。

 どこまでも吾をわらべと見よって、やはりこやつは、人への観察力をちと鍛えなおすべきぢゃな。


 しかしこの男のつくるちらし寿司はたのしみでならぬ。

 玉子はありかなきかの薄さで焼いて、ほそくちいさく割いて敷く。ぜんたいをやさしく見まもるよう、出しゃばり過ぎぬよう。

 椎茸にはたっぷり出汁の味をしみこませて、噛んだしゅんかん、じゅわあっと幸福がひろがるように。

 祝いの飯は、こうありたいもの。


 あの子とこやつが出逢った日も、ふたりにとって祝福であればよい。吾はその日を胸に記して、いつか祝いの飯をまたりくえすとしてやるとしよう。ふたりがその日を憶えておく必要はない。日々はそのように流れて、知らずと一年すべての日が、祝いの日の朱に染まるのぢゃから。


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