はんてんっ!~幼馴染への好感度が反転する病にかかり、全てが壊れてしまった女の子のお話~
くろねこどらごん
第1話
俺の幼馴染である
小さい頃は何もないところで転んだり、忘れ物をしてくるなんてしょっちゅうで、周りの友達からはドン臭いやつだと思われていたと思う。
その証拠に、祥子と一緒に遊ぼうとするやつは少なかった。
祥子は人懐っこい性格をしていたが、皆の輪に混ざって遊ぼうと声をかけると、露骨に嫌な顔をされることも多かったと記憶している。
まあ、そりゃそうだろう。おいかけっこをしていて勝手に転ばれるだけでも気まずくなるのに、その上さらに泣かれたら、先生に叱られるのは祥子ではなく自分達の方なのだ。
いじめてるわけでもないのに大人に怒られるなんて、誰だって嫌に決まってる。
別に祥子を嫌っていたわけではなかっただろうが、それでも距離を置かれるのは仕方ないことだと今では思う。だって、それが普通のことなのだから。
「ぐすっ、また転んじゃった…」
「おい、大丈夫か。祥子」
―――そんななかで、敢えて祥子に関わっていた俺こと
文句を言いながら、倒れている祥子に向かって、俺はいつも手を差し出していた。
「あ、慎太郎くん…」
「ほら、手を出せ。まったく、お前ってほんとドジなやつだよなぁ。なんにもないところで転ぶなよ」
「う、うん…」
振り返って考えてみれば、自分でも随分な世話焼きだったと思う。
家が近かったというのもあって、幼稚園に入る前から顔見知りではあったのだが、やたら転んだりドジをする祥子が心配で、気付けば目を離せなくなっていたのだ。
なるべく一緒にいるようにして、転ぶ前に支えるようにしたり、小学校に上がった時には登校前に忘れ物がないかチェックして、それから一緒に登校していたりしたものだ。
遊ぶのも買い物に出かけるのも、俺たちはいつも一緒だった。
「あ、ありがとうね。慎太郎くん。私、ほんとドジで駄目だから…」
「お礼を言うならしっかりしろよ。そうじゃないと、そのうち俺以外に友達いなくなるぞ。悪いと思ってるとこをちゃんと直せば、きっと大丈夫なんだからさ」
「う、うん、頑張る…ねぇ、慎太郎くんは、ずっと私の友達でいてくれるよね?」
「あ?そんなの当たり前だろ?お前って危なっかしいから、目を離したらどうなるか分からないやつだしなぁ。明日のお祭りも一緒にいってやるけど、俺から離れるんじゃないぞ。お前って目を離すと、すぐ迷子になるからな」
祥子は祥子で俺に懐いていたし、本人にも悪気がないのがわかっていたから、俺がしっかりしていればいいだけだと思ってた。
それに―――
「本当に、ありがとうね。慎太郎くん。大好き!」
「…………おう」
こんなふうに真っ直ぐな笑顔でこいつにお礼を言われるのは、悪い気はしなかったから。
そんなこんなでいつも一緒にいた俺たちだったが、それは中学生、そして高校生になった現在でも変わらなかった。
中学の頃には以前のドジだった祥子はすっかりナリを潜めており、運動、勉強ともに結構な成長を遂げていた。
それは能力的なものだけでなく、容姿も含まれており、以前はショートカットだった髪も背中まで伸ばして、すっかり女の子らしくなっていた。
顔立ちも昔から整っていたけど、成長したことでさらに綺麗になっていて、今では街を歩けば男に声を掛けられたり、学校で男子が学年で一番可愛い子は誰かという話になれば、一番に祥子の名前が挙げられるくらいになっている。
そのことに少し胸がざわつく気持ちが湧き上がるのは…俺もいつの間にか祥子のことを、ひとりの女の子として意識するようになっていたからかもしれなかった。
「どうしたの?慎太郎くん」
ふと物思いに耽っていると、隣から俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
釣られるように目線を向けると、そこには幼馴染である祥子の姿。
この春に入学したばかりの高校の制服に身を包み、彼女は俺を軽く見上げて首を傾げてそこにいた。
「ん、あー…ちょっと考え事してた」
「慎太郎くんがボーッとしてるなんて珍しいね。転ばないよう気を付けないと駄目だよ?」
そう言って祥子はクスリと笑う。
綺麗な長い黒髪がふわりと揺れて、思わずドキリとしてしまうのは、男のサガってやつなんだろうか。
学年一の美少女となった女の子とこうして帰り道を一緒に歩けるのは、あるいは幼馴染としての特権と呼んでもいいのかもしれないが、それはそれとして、こいつにからかわれるのはなんだか癪だ。
「お前じゃないんだから大丈夫だっての」
「そうだよね。慎太郎くんはしっかりしてるし。小さい頃は、いつも私のこと助けてくれたもんね」
つっけんどっけんに返したつもりだったが、祥子は意にも介していないようで、懐かしそうにそんなことを言ってくる。
それはちょうど、俺がさっきまで考えていたことだった。
「別に、そんなつもりなかったし…ただお前があんまりドジだったから、ほうっておくと危なっかしいと思っただけだ」
「ふふっ、それが私にとっては嬉しかったんだよ。本当にありがとう、慎太郎くん」
素直にお礼を言ってくる祥子に、つい気恥ずかしくなり、俺は思わず聞いてしまった。
「いいって、そういうの…てかさ、そういやなんで祥子は髪を伸ばしてるんだ?昔はもっと短かったろ」
俺の質問に祥子は一瞬キョトンとした表情を浮かべ、
「え、慎太郎くんが女の子は髪が長いほうが好きだって言ってたからだけど…もしかして違った?」
そんなことを言ってきた。
「え、いや、好き、だけど…」
「そう?よかったぁ、じゃあこれからも伸ばすね」
「あ、ああ…」
安心したように話す祥子になんと言っていいか分からず、曖昧に頷くも、俺の心中は穏やかではない。
(これってつまり、そういうこと、なのか…?)
俺のために髪を伸ばしてるってことは、要するに…
「慎太郎くん」
「お、おおう?」
「これからも私達、ずっと一緒にいようね」
戸惑う俺をよそに、綺麗な笑顔で祥子はそう言うのだった。
「……あまり眠れなかった」
翌日。
目を覚ました俺は早々に頭を抱えることになっていた。
理由は言わずもがな、昨日の祥子との会話にある。
「あんなこと言われたら、ますます意識しちゃうだろうが…」
最近はますます可愛くなっている幼馴染にあんな笑顔を向けられたら、意識するなというほうが無理ってもんだ。
文句を呟きながら下に降りると、親はどうやらもう仕事に出ているらしく、テーブルの上にラップをかけられた料理が並んでいた。
「いただきますっと」
リモコンを操作してテレビをつけると、ニュース番組にチャンネルを合わせ、俺は椅子に座ってひとり朝食を食べ始めることにした。
特に美味くもないが不味くもない料理で腹を満たしていると、とある事件のニュースが耳に飛び込んでくる。
「―――では、次のニュースです。昨夜未明、マンションの屋上からの飛び降り事故がありました。被害者は10代の女性と思われ、警察では現在身元の確認を急いでおり―――」
「またか」
思わず呟きが漏れた。最近、この手のニュースがやけに多い。
同年代くらいの女子による事件や事故が多発しているのだ。
その全てが恋愛絡みによるトラブルらしいのだが、数がどうにも尋常ではないようで、ニュースで報道されない日はほぼないと言っていい。
発生した県や場所もバラバラで、事件そのものに繋がりはないと断言してもいいのだが、似たようなケースが多いことからいつしかネットでこれらの件にとある噂が流れるようになっていた。
「好感度反転症候群、ねぇ…」
思春期の女子のみがかかる病気で、両想いの相手がいて強い感情を抱いていればいるほどその感情が反転して攻撃的になり、人格に影響を及ぼしてしまう、現代の奇病。
症状は数日で完治するが、対象である異性の前でだけ症状が表に出るため、周囲からはその変化は分かり辛く、発見も遅れてしまうため、この症候群に罹患した者とその対象者には、必ず悲劇が降りかかる―――確か、そんな内容だったはずだ。
「ばっかばかしい。んなもんあるはずないだろ。どんな病気だよ、それ」
勿論、俺はそんな都市伝説を欠片も信じちゃいなかったが。
いくらなんでも突飛すぎる発想だし、どう考えたってオカルトの域でしかないからだ。
おおかたこじつけが好きな連中が、ネットに適当に書き込んだホラ話なんだろう。
今はたまたまこの手の事件が続いているだけで、そのうち収まったら噂も風化していくに違いない。
そんなことを考えながら、俺は食べ終わった昼食の皿を片付け、歯を磨いて玄関に向かう。
開けられた扉の先には既に祥子が待っていて、一緒に学校へ向かうのだ。
それが俺たちの日常。これから先、ずっと続いていく毎日。
そうなることを、俺は理由もなく信じていた。
だけど。
「……あれ?」
いるはずの幼馴染が、何故かそこにいなかった。
「ふぅ、間に合った…」
数十分後。俺は教室にある自分の机へ突っ伏していた。
遅刻寸前のところを教室に駆け込むことでなんとかなったが、朝から全力ダッシュはやはり堪える。
勢いよくドアを開けたことで注目も浴びたし散々だ。
呼吸を整えながら、僅かに顔を上げるのだが、視界の隅に長い黒髪をした女子の後ろ姿を俺は捉えた。言わずもがな、その女子とは幼馴染である祥子である。
(なんだよ、あいつ。先に学校来てたんじゃないか…)
今更語るまでもないと思うが、俺が遅刻しかけたのはズバリ祥子を待っていたためだ。
勿論ただ待っていたわけじゃなく、スマホに連絡もしたが既読も付かず、それならと家にまで直接出向いてみたが、チャイムを鳴らしてみても反応がまるでない。
この時点で俺は既に、祥子は俺を置いてひとり学校に行ったのではとの考えが頭をよぎっていたのだが、昨日の会話を思い出し、まだ寝ているのかもしれないという可能性にかけてギリギリまで粘ってみることを選んだのだ。
(結果、見事に外れたわけだが…それなら連絡のひとつもくれて良かったろうが。こっちは心配してたんだぞ)
そんなことがあったわけだから、思わず半目で睨んでしまうのも仕方ないと思う。
向こうは一瞥も俺に目もくれていないが、なんで先に行ったのか、休み時間になったら問いただそう…そう思った瞬間。
「――――」
ふとこちらを振り向いた祥子と、目が合った。
「っつ!」
それはほんの一瞬の出来事。
直後に担任が教室に入ってきて、すぐに祥子は視線を外して前を向く。
本当に、なんてことのないように。だけど、
(なんだ、今の…)
肌が泡立っていた。鳥肌が止まらない。背中を妙に冷たい汗が伝う。
視線が合った時、息が止まるような感覚に襲われたからだ。
俺のことを見る祥子の目が、今まで見たことのないほど冷たいものだったから。
「ちょっといいか、祥子。話があるんだけど」
HR直後の休み時間に、俺は祥子に話しかけていた。
「…………」
「その、なんで先に学校に来てたんだ?俺、お前を怒らせるようなこと、なんかしたか?」
内心では未だ動揺していたが、会話しないことにはなんであんな目を俺に向けてきたのか知ることもできないからだ。
知らない間に祥子を怒らせるようなことをしていたのだったら、その理由を知りたかった。
だから机に座る祥子へと問いかけたのだが、
「…………」
「……祥子?」
何故か彼女は、無言を貫いていた。
いや、それどころか、カバンからスマホを取り出すと、そのまま画面をタッチしていじり始める始末。
まるで、俺の存在を無視するかのように―――頭がカッとなってしまい、俺は思わず祥子の肩を掴んでいた。
「祥子!俺の話を聞いて――」
「うるさいよ」
バシリと、手が払いのけられる。
同時に飛んできたのは、ひどく冷たい声。
「君の声くらい聞こえてるよ。その上で無視してるの。そんなことも分からないの?」
「え、あ…」
うんざりしたように話す声色は、聴き慣れた響きのはずなのに、誰から発せられたものなのか、俺は一瞬理解することができなかった。
「わかってないんだ。はぁー…ほんと最悪。こんなのが私の幼馴染なんて…」
ただ戸惑うだけしかできない俺の耳に飛び込んできたのは、ため息混じりの呆れ声。
心の底から今の状況を嫌がっているとわかる、そんな……
「君、邪魔なの。ほんと、一言だって話したくもない。今すぐ私の目の前から消えて」
「しょう、こ?」
「何度も言わせないで。消えて。私の視界に、もう二度と入らないで」
睨むように俺を見上げつけるその瞳は冷たさと、そして言葉では言い表せないほどの憎悪が宿っていた。
それから、数日。
学校のある、平日の早朝。俺は今日も、祥子の家の前に立っていた。
7時30分を過ぎた頃、ギィッと僅かな音を立て、家のドアが開かれる。
それを見て、俺は出てきた人物―祥子へと近づいていく。
「んっ、しょっと…はぁ、重…まったく、なんでこんなゴミを溜め込んでたんだか…」
「祥子!」
「……チッ、また君なの?これでもう何度目?いい加減しつこいんだけど」
声をかけると、露骨に舌打ちをして顔を歪める祥子。
数日前、俺に対する態度が急変してから、祥子はずっとこんな感じだ。
周りの友達からはちょっとの間喧嘩しているだけと思われているのが不幸中の幸いだったが、このままだと俺たちの関係が悪化していることがバレるのにそう時間はかからないだろう。
そしたら、祥子を狙う他の男たちが、チャンスとばかりに彼女に近づくかもしれない―――そう思うといてもたってもいられず、確実に会話のできるタイミングである朝の登校時間を見計らい、俺はこうして接触を続けていた。
「なぁ、ちゃんと話をしようぜ?俺に悪いところがあったなら謝るし、ちゃんと直すから…だから、また前みたいに一緒に…」
「しつこい。それももう何度目?私は君と仲良くなんてしたくないの。もう話しかけないで欲しいって、私はちゃんと伝えたよ?なんでそれを理解してくれないのかなぁ……本当に疲れるんだけど」
呆れたようにため息をつく祥子。
この姿を見るのも、もう何度目になるだろう。
学校では露骨に俺と話すことを避け始め、昨日だって放課後ひとりさっさと帰ってしまったのだ。
付き合いは長かったが、こんな祥子を見たことはない。いや、見たくなかったと言ったほうが正しいのか。
まるで赤の他人―それどころか、むしろ嫌っている相手に対するような態度で嫌悪感をむき出しにしてくる祥子を前に、思わず萎縮してしまう。
ここ数日で、俺の心は既に擦り切れかけていた。
「…悪い」
「そう思ってるなら、これ捨てといて。私にはもういらないものだから」
そう言うと、祥子はドサリと手に持っていた二つの袋を地面に置いた。
焦っていたせいか気付かなかったが、祥子はどうやらゴミを出すつもりようだ。
かなり大きな袋にまとめられたそれは置かれた音からして、結構な重さを伴っているはずだ。
女の子である祥子では運ぶのも一苦労だろう。
「わ、わかった」
俺はすぐに手を伸ばし、両手で袋を持つことにした。
途端、ズシリとした重みが指先にかかる。予想通り、かなり重い。
「っと。重いなこれ…なにが入ってるんだ?」
別に中身を知りたいわけじゃなかった。
ただ、久しぶりに祥子に頼られたことが嬉しかったのと、話のとっかかりが欲しかっただけだ。
「ああ、それはね。ゴミが入ってるの」
「あぁ。そりゃそうなんだろうけど…」
本当に、ただそれだけだった。
だから心構えなんて、あるはずもなくて。
「うん。ただのゴミだよ。君との最悪な思い出の詰まった、最低最悪のゴミ袋」
嬉しそうに話す祥子の言葉が、ただ真っ直ぐに突き刺さった。
「――――え?」
「あははは!いいね、その顔!話したくもなかったけど、これで少し気分が良くなったよ。これまでずっと君のこと嫌いだったけど、その顔を見れて良かったよ」
呆然とする俺を見て、楽しそうに笑う祥子。
それは俺を馬鹿にしきった、心の底から侮蔑している笑みだった。
「ゴミって…え…」
「ねぇ、覚えてる?小さい頃は君と私で、よくお祭りに行ったりしたよね。あの頃は私も友達があまりいなかったから、君といつも一緒にいたけど……」
戸惑う俺に、祥子は続ける。
「―――本当は、それがすっごく苦痛だったの。昔から、君のことが大嫌いだったから」
今度こそ本当に、なにを言われたのか分からなかった。
「きら…い…?」
「うん、大っきらい。私は本当に心の底から、君が憎くて憎くて仕方ないの。でも、これまではずっと我慢してた。やっと言うことができて、とっても嬉しいよ。こんな簡単なこと、なんでこれまで口にすることが出来なかったのかなぁ。自分で自分が、よく分からないよ」
本当に、さっぱりしたと、祥子は言った。
未練も後悔も、欠片もないように、俺には見えた。
「そん、な…」
視界がぐにゃりと歪む。
足元がおぼつかず、崩れ落ちそうになる。
これまで信じていたものがガラガラと崩れていく音を、俺は確かに聞いた。
それでも―――
「うそ、だろ…なぁ、嘘だって言ってくれよ祥子。この前さ、お前言ってたじゃないか。ずっと一緒にいようって…笑顔でそう言ってくれたじゃないか。あれも、嘘だったっていうのかよ。俺は、俺は、お前のこと、ずっと好きだったんだよ……」
俺は言わずにはいられなかった。
だって、そうだろ?ずっと一緒だったやつに、それも好きだった幼馴染にこんなこと言われて、そうだったのかなんて素直に受け入れるやつが、いったいどこにいるっていうんだよ。
たとえ可能性がほとんどゼロだったとしても、希望に縋りたかったんだ。
俺たちは本当は両想いで、これからもずっと一緒なんだって。
祥子が言ってることは嘘だって。本当は、俺を驚かせるためにそんなことを言ってるんだって、そんな希望を、俺は…
「はぁ?なに言ってるの。気持ち悪い。最悪」
だけど、そんな淡い希望すらも。
「嘘だよ。全部嘘。私が死ぬほど大嫌いな君と一緒にいたいだなんて、思うはずがないじゃない」
祥子は呆気なく砕いた。祥子は俺を拒絶した。
「そういえば、この髪もいい加減うっとおしくなってきてたんだよね。せっかくだし、今日の帰りにでも切ってくるよ。そうしたら、君ももう話しかけてこないよね。短い髪の女の子とか、好みじゃないんだものね」
もう祥子がなにを言っているのか、分からない。
嫌悪に満ちた言葉と冷たい眼差しに、俺の心は折れていた。
「分かったら、もう二度と私に話しかけないでね。元幼馴染さん」
ただぼんやりと、もう俺たちの関係は二度と戻ることはないんだと、そう思った。
私には好きな人がいた。
小さい頃からずっと一緒だった、幼馴染の男の子。
彼はドジだった私をいつも助けてくれた。
いつも一緒にいていくれた。
彼といると、胸が暖かくなっていく。
この気持ちが恋だって知るのに、そう時間はかからなかった。
いつまでも彼と一緒にいたいって、そう思ったんだ。
いつまでも、いつまでも―――私は、彼といたかった。
「ん…」
ふと、目が覚めた。懐かしい夢を見ていた気がする。
でもそれも、すぐ窓から差し込む朝の日差しによって掻き消えてしまう。
いっそ眩しいくらいで、私は反射的に日差しを避けようと顔を横にし、手で覆う。
「…………?」
そこで、何故か違和感を覚える。
細めた瞳を少し見開き、それがなんなのかを探ろうとした。
目に映るのは、ピンクの枕と白いシーツ。それだけだった。いつもなら視界に広がるはずのものが見当たらない。
(あれ…?変だなぁ…いつもなら、私の髪が見えるはずなのに)
長い黒髪は、私の自慢だった。
昔あの人にどれくらいの髪の長さが好きか聞いた時、長い方が好きだと言われ、それ以来ずっと伸ばし続けてきた髪は、もう少しで腰にまで届こうとしている。
さすがにそこまで伸びる前に少しだけ切ろうとは思っていたけど、毎日起きたときはまず広がる黒髪を見て、満足するのが日課だった。
(私の髪、どこ…?)
それが、見当たらない。
視界のどこにも映ってない。
どうしてという疑問が湧く中、手が自然と背中に伸びる。
半ば無意識の行動だったけど、結果的にそれで私の意識は覚醒することになる。
サラッ……
「え……」
指先に、髪が触れた。
それはいい。あるのが当たり前だから。
問題は、
「なん、で……」
その髪が、短くなっていること。
背中まで伸びていたはずの髪が、肩口くらいで止まってる。
いつもはベッドにまで広がるはずなのに、今は毛先が頬をくすぐる程度の長さだった。
「どういうこと!?」
ガバリとベッドから起き上がる。
もう寝てなんていられなかった。
今の自分の姿を確かめるべく、姿鏡に向かって足を踏み出そうとしたところで―――私は、さらに愕然とすることになる。
「あ、れ……?」
ない。ない。ない。
机の上にあったはずの、あの人と一緒に撮ったいくつかの写真立て。
あの人と一緒に観に行った時に買った、映画のポスター。
あの人と遊びに行った時に買った、お気に入りの小物。
他にも部屋に飾っていたはずの、あの人との思い出の品の数々が、部屋にあったはずの多くのものが、なくなっている。
「どうして…?」
意味が分からなかった。
部屋の片付けなんてした覚えがない。
したとしても、私があの人―慎太郎くんとの思い出の詰まったものを、どこかに動かすなんてありえない。まして、捨てるなんて―――
「っつ!」
そこまで考えが巡った時、不意に頭が痛んだ。
ズキンという鋭い痛みが走り、私は思わず頭を抱える。
同時に、何故かある言葉が浮かんでくる。
―――ほんと最悪。こんなのが私の幼馴染なんて
「なに、これ……」
こんなこと、私は言った覚えがない。
いや、言うはずがない。
なにを言ってるのか、分からない。
ズキン
―――君、邪魔なの。ほんと、一言だって話したくもない。今すぐ私の目の前から消えて
また、痛み。
同時に浮かんでくる言葉。
これも、私が言うはずのない、言葉。
ズキン
―――消えて。私の視界に、もう二度と入らないで
「あ、あ……」
なに、言ってるの。本当に、私、こんなこと言ってない。
だって、言うはずがないじゃない。だって、だって……
必死に否定しようとしてるのに、言った覚えがないはずの言葉が、次から次と浮かんでくる。
ズキン
―――私にはもういらないものだから
ズキン
―――うん。ただのゴミだよ。君との最悪な思い出の詰まった、最低最悪のゴミ袋
「やめて。もうやめてよぉっ!私、こんなこと言ってない!思ったこともない!言うはずがないじゃない!!!」
ううん、違う。もう分かっていた。
分かっていたけど、分かりたくなかっただけだ。
これは、思い出しているだけなんだって。
私があの人に向けて言ったことを、ただ思い出しているだけなんだって。
ズキンズキンズキン
―――本当は、それがすっごく苦痛だったの。昔から、君のことが大嫌いだったから
「違う!!!!!!!」
それでも私は否定した。
そうしないと、どうにかなりそうだったから。
浮かんでくるのは言葉だけじゃないから。
私の心ない言葉を聞いた慎太郎くんの顔も、ハッキリ思い出せてしまうから。
呆然とする慎太郎くんの顔が、そこにあった。
―――私が死ぬほど大嫌いな君と一緒にいたいだなんて、思うはずがないじゃない
「違うの、慎太郎くん!違うのぉ!」
そんなはずない。
私は、慎太郎くんとずっと一緒にいたかった。
そのつもりで、これからもそうだって、信じてた。
信じてたのに……!
―――もう二度と私に話しかけないでね。元幼馴染さん
なんでこんな言葉を吐き出したのかわからないまま、私は彼の横を通り過ぎていた。
「あ、あ、ああああああああああああああああ!!!!!!」
その時の気分はこれまでにないほど晴れやかで。
今の私の気分は、これまでにないほど最悪だった。
どれくらいそうしていただろうか。
気付けば部屋の中は荒れていた。彼との思い出の品がなくなっているのもあってか、一切の容赦もなく色んなものが散乱していて、足の踏み場も怪しいくらいくらいにぶちまけられていた。
頬は涙が伝ってて、短くなった髪も掻き毟ったせいでぐちゃぐちゃだ。
この髪が元の長さに戻るまで、いったいどれくらいかかるだろう。
それを考えると、また目から涙が溢れてきてしまう。
「し、慎太郎くんが、好きだって、言ってくれたのにぃ…」
髪が長いほうが好きだって、彼は言った。
それ以来ずっと伸ばしてきた、自慢の髪。
それを私は、自分で……本当になにをやっているのか、自分でもまるで分からなかった。
「うっ、ぐす…うええええ……」
考えても、考えても分からない。いくら考えても分からない。
ここ数日の私は、私じゃなかった。
まるで誰かに乗っ取られていたみたいに、自分がするはずのない行動を取っていたのだ。
だって、私は彼のことが昔から大好きで、彼以外の人なんて考えられないもの。
嫌いだなんて絶対に言うはずないんだ。
「あやまら、ないと…」
だから、謝らないといけなかった。
誠心誠意謝って、許してもらわないといけない。
このまま、あんな別れ方をしてそれっきりだなんて、耐えられない。
もしあのまま慎太郎くんと話すことも出来なくなってしまったら…それを考えると、体の震えが止まらなかった。
「行かなきゃ…慎太郎くんの家に…」
チラリと時計を見ると、針は8時半を指していた。
もう学校が始まっている時間だ。頭の冷静な部分がそう言ってくるけど、構わず私は立ち上がった。
この部屋には居たくなかったし、ずっとひとりでいたら本当にどうにかなってしまいそうだ。
「そうだ。ゴミ捨て場にも行かないと…」
昨日捨てちゃったゴミ袋も、今すぐ取りに行かないと。
あれは私にとってはゴミなんかじゃない。全部思い出の詰まった大切なものばかりだ。
決意を新たに、新たに私は家を飛び出した。
「そうだよ。まだ間に合う。間に合うんだから…!」
間に合う、絶対に間に合うと自分に言い聞かせて、私は走った。
走って走って、すぐに目的の場所に着いて、そして…
「う、そ…」
そこにはもう、なにもなかった。
ゴミ捨て場だというのに、ゴミ袋もなにも置かれてなかった。
「あ、あ……」
ああ、そうだ。なんで昨日袋に詰めて家を出たのか、思い出した。
昨日が燃えるゴミの日だったからだ。だからもうとっくに回収されてて、私の宝物は、今頃、もう………
「そんな……そんなぁ………」
気付けば私は地面に膝をついていた。
目から涙が溢れて止まらない。
なんでこうなってしまったのかわからなくて、私はただ泣くことしか出来なかった。
ピンポンと、音が鳴る。
チャイムのボタンを何度も押して、その度に少し待つ。
平日の、それもお昼に差し掛かった彼の家の玄関で、これをさっきから、私はずっと繰り返している。
「…………」
迷惑なことをしているのはわかってる。
近所の人が見たら、私のしていることを咎めるだろうことも、理解している。
今はたまたま誰も彼の家を通りかかってないから何も言われないけど、今の私はきっと不審者そのものだろう。
もしかしたら、頭のおかしい人だと思われてしまうかもしれない。
ピンポン
でも、どうでもよかった。
私の頭がおかしくなっていたのは事実で、周りの人が正常なのは当たり前。
今の私にとって、自分こそが一番信用できない存在だ。
ピンポン
なら、今更外見を取り繕ったって意味なんてない。
周りの人なんてどうでもいい。私は彼に、慎太郎に謝らないといけないんだ。
ピンポン
おかしいことをしていたんだから、私はそれを謝らないといけない。
ピンポン
ひどいことを言ってしまってごめんなさいって、謝らないといけない。
ピンポン
慎太郎くんとの思い出を捨てちゃってごめんなさいって、謝らないとといけない。
ピンポン
大嫌いだなんて嘘だって、謝らないといけない。
ピンポン
本当は、あなたのことが昔からずっと大好きですって、そう言わないと…
「うっ、ぐすっ…」
思い返すと、また涙が溢れてきてしまう。
もうさっきからずっと泣きっぱなしで、まぶたも腫れぼったいのに、まだ涙が出てきて止まらない。
「駄目、なのにぃ…。止まってよぅ…!」
彼の顔を思い出せ。
私より慎太郎くんのほうがずっとずっと傷ついてて、傷つけてしまったのに、私が泣いてどうする。
謝るって決めたんだ。だから謝って謝って…それでも、許してもらえないかもしれないけど、とにかく謝らないといけないんだ。
そうじゃないと、本当に私達の関係は壊れてしまう。
もう手遅れかもしれないけど、まだ間に合うかもしれない。
その可能性がある限り、私は絶対に諦めるわけにはいかなかった。
ピンポン
涙を拭ってもう一度チャイムを鳴らす。
ここまで何度も何度も鳴らしているのに反応がないんだから、慎太郎くんは家にいない可能性のほうがずっと高いことは、とっくに気付いてた。
それでもこれを続けているのは、そうしないと心が折れてしまいそうになるからだ。
学校に向かうにしても、歩いてる最中に、彼にしたことを思い出して進めなくなってしまうかもしれない。
だからといって自分の部屋にひとりでいたら、気が狂ってしまうかもしれない。
彼に関するものが全てなくなってしまった部屋なんて、戻りたくもなかったし、捨ててしまった後悔でまた頭を掻き毟ってしまうことだろう。
なにも考えず、無心で彼の家のチャイムを鳴らすことが、今の私にとって叫びたくなる心を静めるための、唯一の手段だったのだ。
……たとえ、それが現実逃避の一種であったとしても、これを繰り返すことでしか、私は正気を保つことができなかった。
「出てきて、慎太郎くん。お願いします…!」
願いながら、祈りながら。何度目か分からないくらいのチャイムのボタンをまた押そうとした、その時。
ガチャリ
「!!」
不意に玄関のドアが開かれる。
慌てて伸ばした指を引っ込めて、出てきた人が誰かを確認しようとして――
「……すみません、寝てました。どちら様で…」
「慎太郎くん!!」
待てなかった。
だって、ずっと待っていた人の声が聞こえてきたんだもの。
反射的に、私は彼の名前を呼んでいた。
「っつ…しょう、こ…」
「ごめんなさい慎太郎くん!本当にごめんなさい!」
そしてすぐに謝った。
誠心誠意、できるだけ大きな声で、私は彼に謝罪の言葉を口にする。
「あんなひどいこと言ってしまってごめんなさい!でも、違うの!あれは私の本心なんかじゃない!慎太郎くんのことを嫌いだなんて、一度だって思ったことなんかない!あれは全部間違いだったの!」
自分でも滅茶苦茶なことを言ってる自覚はあった。
謝ってるのにあれは違った、間違いだったなんて言い訳を混ぜて、それを信じてもらおうだなんて、あまりに虫が良すぎる話だ。
「慎太郎くんにひどいことを言ってしまったこと、全部覚えてる!覚えてるけど、あれは違うの!だって私、慎太郎くんのこと好きなんだもの!好きな人にあんなこと言うはずないもん!なのに、あんなことを言っちゃった理由は自分でも本当に分からないの!だから謝ることしかできなくて、本当にごめんなさい!許してください!お願い!お願いします!」
でも、こう言うしかなかった。
無茶苦茶な言い分であっても、私にとっては嘘じゃない。全部本当のことだから。
とにかく必死に謝って、本心からの言葉であることを理解してもらわないといけなかった。
彼から言葉をかけてもらうまで、頭を下げることしか、私にはもう出来ることがない。
「…………」
それから数十秒は経っただろうか。
無限の時間が流れたと錯覚さえ覚えるほど長い沈黙の後、慎太郎くんはゆっくりと口を開いた。
「…………本当、なのか?」
「!うん、本当だよ!嘘なんかじゃないよ!」
それを耳にした瞬間、すぐに顔を上げて返事を返す。
彼は私に問いかけてくれた。それはつまり、話をする気があるということだ。
「もう一度聞くけど、さっき言ったことは全部本当、なのか?」
「うん、うん!私、慎太郎くんのことが好きなの!昔から、ずっと好きだったの!なのに、あんなことを言ってしまって本当にごめんなさい!」
「あ、ああ。そうか、うん。そう、だったのか…なら、やっぱり…」
なにか納得したように深く頷く慎太郎くん。
私はそんな彼の顔をじっと見つめた。
(やっぱり慎太郎くん、格好良いな…でも、ちょっとやつれてる感じがする…私のせい、だよね…)
さっきまで寝ていたと言ったし、昨日はあまり眠れていないのかもしれない。
その原因が自分であることを自覚して落ち込んでいると、
「……なぁ、祥子は、好感度反転症候群って、聞いたことあるか?」
「え?」
不意にそんなことを尋ねられた。
「好感度反転症候群…?」
「…その様子だと、聞いたことないか。まぁネットで最近広がってる、ちょっとした都市伝説みたいなもんだよ」
俺もついこないだまで、そう思っていたんだがな。そう呟くと、彼は好感度反転症候群について、私に説明してくれた。
曰く、両想いの相手がいて強い感情を抱いていればいるほどその感情が反転して攻撃になってしまう病気らしく、彼の話を聞けば聞くほど、その症状には心当たりしかなかった。
「それ、それだと思う。私、絶対その病気にかかってた…そうじゃないとおかしいもの、私が慎太郎くんにあんなこと言うはずないんだから!全部その病気のせいだよ!ひどいよ、こんなのって……!」
「……だよ、な。さすがに俺も、祥子があんなに変わるなんておかしいと思ってさ…昨日家に帰ってから、この前テレビで見たこの病気のことを思い出したんだ」
その言葉を聞いて、胸の奥が暖かくなっていくのを感じる。
(慎太郎くんは、私のことを見捨てないでいてくれたんだ…!)
あんなにもひどいことをたくさん言ったのに、彼は私のことを信じてくれていた。
その事実が、ただ嬉しかった。この人を好きになって良かったと、心から思う。
「ありがとう、慎太郎くん!大好き!」
喜びから、今まで言えなかった言葉もスラリと口にすることができた。
これまでは恥ずかしさと怖さから言えなかったけど、今は違う。
だって、彼は言ってた。好感度反転症候群は両想いの相手がいてかかる病気だって。
それはつまり、私達は両想いってことなんだ!
誤解が解けた喜びと、好きな人が私を好きでいてくれた嬉しさから、思わず慎太郎くんに抱きつこうと彼の胸に飛び込んで―――
「っつ!!!」
ドンッと。
強い力で押されて、気付けば私は尻餅をついていた。
「…………え?」
なにが起こったのか、分からなかった。
「慎太郎、くん…?」
「え、あ……」
視線を上げると、そこには慎太郎くんの姿があって―何故か彼は、手を突き出していた。
まるで、なにかを押しのけるみたいに。
「あ、わ、悪い!大丈夫か?」
数瞬固まった後、慎太郎くんは謝ってくる。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ!本当に悪い!」
本当に申し訳なさそうな顔で。
心から悪いと思ってくるのが伝わってくる。
だけど。
(なんで、手を差し出してくれないの?)
私は倒れているのに、なんで彼は手を差し伸ばしてくれないんだろう。
小さい頃みたいに、転んだ私をなんで起き上がらせてくれないんだろう。
私はまだ、あの悪夢の中にいるんだろうか。
変な病気にかかって、慎太郎くんにひどいことしちゃって、でもそれを彼は許してくれて。
それがとても嬉しくて、思わず慎太郎くんに抱きつこうとして、それで―――
(あ、そっか…)
目の前に映る光景が、次第に暗く濁っていく。
謝り続けているのに、未だ私に手を差し伸べてくれない彼の姿も、消えていく。
明滅する意識の中、私は理解してしまった。
(私、全部壊しちゃったんだ)
これまでの関係。
これまでの思い出。
ふたりで積み上げてきたすべて。
私が全部、壊したんだ。
それが好感度反転症候群という病気によるものだったとしても、実際にやったのはほかでもない私自身。
彼の中に昨日までの私の遺した爪痕が、深く刻まれてしまった。
それが分かっちゃった。
分かっちゃったら、もう目をそらすなんて無理だ。
限界だった心が張り裂けて、プッツリと音をたててちぎれてく。
「…………あは」
失ったものは、戻らないんだ。
もう、終わっちゃったんだ。
何もかも、もう手遅れなんだ。
「あははは」
あは。
あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
私の全てが崩れていく。
夢なら、覚めて欲しかった。
はんてんっ!~幼馴染への好感度が反転する病にかかり、全てが壊れてしまった女の子のお話~ くろねこどらごん @dragon1250
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