22 生きていく
四季の移り変わりは、小川のせせらぎのように遅くて早い。
荒れ果てた庭の片隅に、今年も色とりどりの花を咲かせていた。
敬一郎が亡くなって以来、雨戸は閉ざされ住む人もなく、訪れる人さえなかった。
敬一郎を知る人々は完全に忘れ去ってしまったのであろうか?
もう、敬一郎が生きていた痕跡は跡形もなく消えてなくなったのか?
赤、白、黄の美しい花は、今年も忘れる事なく
咲いたのである。
我が主人、敬一郎を待ってる如く。
律子は結婚して二児の母親になった。
主人は銀行員である。
律子は幸せな日々を送っていた。
結婚してすぐ店を人に譲り、主婦業に専念して、
今は可愛い子供の育児に追われ、楽しい悲鳴をあげている毎日だった。
ある朝、主人を明るく仕事に送り出し、朝の片付けを終えて、やれやれと言った気持ちで朝刊に目を通した。
すると、思いもよらない記事が律子の目に飛び込んできたのである。
食い入るように、律子は、その記事を読んだ。
読み終えると身体中から懐かしさが広がり、敬一郎の姿がまぶたの裏に思い浮かんでくるのであった。
それが、昨日の事のように・・・。
食い入るように読んだ記事には、大きな活字で
[美人の若き尼僧、亡き兄に替わって個展を開く]
大々的な見出しで報道されていたのである。
見出しの下には、若くて美しい尼僧、亡き敬一郎の写真を胸まで掲げている写真が載っていた。
写真の尼僧には、見覚えがあった。
一度目は夏の暑い盛りに、店に来たことがあった、
敬一郎と共に・・・。二度目は葬儀の時に・・・。
若い尼僧は、妹の京子に間違いなかった。
結婚、出産、育児、律子は過ぎ去ってしまった過去の事を思い出す余裕など、忙しさに追われてなかったのである。
亡くなってしまえは、好きもキライも無くなってしまうものである。
薄情かもしれないが、亡くなった人の事をいつまでも思っていても、仕方のない事なのではないだろか。
残された者は、これから数年、数十年と生きていかなればならない。
だから、残された者は、悪い思いでなどは全部捨て去り、残された人生を力強く生きる為、楽しい思い出だけを心に残していれば良いのではないだろうか。
それが、亡くなった者への本当の供養と思うのであるある。
敬一郎は、妹の京子に個展を開いてもらい、草葉の陰で喜んでいる事だろうと思うと、律子は身体中が熱くなり、自然と嬉しさが増してくるのであった。
敬一郎に替わって京子に感謝したい気持ちで、一刻も早く個展が開かれている会場に、馳せ参じたい衝動にかられるのであった。
残した絵画は五〇点余り、その五〇点余りの内、三〇点までの絵画の中に、小鳥や小動物が顔を出していた。
例えば、一枚の絵は、二人の農夫が稲を刈っている背後に、今刈り取った土の中から一匹のカエルが不思議そうに顔をして、土の中から前脚だけ出して、
稲を刈る二人を眺めている絵である。
また、もう一枚は、大きな池で魚釣りをしている人間を、池の隅の水草の間から、二羽の水鳥の親子が首を斜めに傾けて眺めている絵などである。
敬一郎の絵画には、生命の息吹きを強力に感じ、また可憐さを漂わせていた。
個展は、新聞、ラジオ、週刊誌の好意的報道によって、予想以上に評判も良く、連日客入りも大盛況であった。
個展の時期は一週間。
四日目の午後には三〇点余りの絵が売約済みになっていた。
驚き、てんてこ舞いで、尼僧姿の京子は大わらわなのである。
五日目から、父母と敬ニの三人も、大阪から手助けに駆けつけた。
五日目、六日目も客足は一向に衰えるどころか、
客足は増すばかりであった。
そして、七日目を迎えた。個展の最終日である。
母と京子は、暗いうちに寝床を抜け出し、身支度をすると二人仲良く外に出た。
外はまだ真っ暗で、無限の大空には無数の星が光り輝いていた。
二人は会場までの道のりを歩調豊かに歩いた。
宿屋から個展会場まで三〇〇メートルぐらいであった。
物音ひとつしない会場を、母と娘は丁寧に丁寧に隅から隅まで清掃するのだった。
二人の顔から汗が流れ、身体がほてり出した。
二人は二度目の洗顔を爽やかな水で流し、窓の外を見ると真向かいの山々が明るくなりかけているところだった。
母と娘は目と目を見合わせ、玄関を一歩外に出ると
暖かい、さわやかな風が一瞬二人の体を包み込み、あっという間に通り過ぎて行った。
「今の風は、敬一郎だわ」
と、母は思った。
<敬一郎がお礼を言いに来たのだわ。
きっと、そうだわ。
今の風は敬一郎に間違いないわ。
あの子だわ!あの子が私の心の中に帰ってきたのだわ。
あの子が、私の所に・・・・>
京子が母の瞳を静かに見つめると、キラ、キラと
涙が光り、一雫コンクリートの上に落ちた。
母と娘は顔を見合わせ、ニッコリ笑った。
ちょうど、その頃、朝靄の国道を一台のマイクロバスが敬一郎の個展会場を目指して突っ走っていた。
バスを運転しているのは、親友の浜村である。
細君も乗っていた。三人の子供も乗っていた。
敬一郎を息子のように可愛がっていた、あの年老いた尼僧も晴れやかな表情で。
律子も、そして父も、親類の人々も、近所の老夫婦も、若夫婦も・・・・バスは走る。
朝霧を吹き飛ばすように走る。
脇目もふらず、ただ一目散に会場目指して走る。
幸福者を乗せたマイクロバスは、走りに走っている。
長い長い国道を一台の車は走り、いつしか長い長い国道と朝霧の中へ、小さく小さくなって消えて行った。
完 S50.5.10
しあわせ人 ノブユキ @nobuyuki-onioni
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