桜蕊

平山芙蓉

 つい先日まで満開だった桜は、もうほとんど葉を茂らせていた。根強く引っ付いている花弁も、そよ風に吹かれただけで抗えずに散っていく。道を行く人々は、真っ直ぐと前を見ながら歩いていて、頭上を気にする人は誰もいない。どこかの木に止まった鳥が、妙なリズムで鳴いた。そんな小さな桜の並木通りは、短命な美しさに嘆きを囁いているようにも、新しい季節の訪れに歓喜しているにも思えた。

「詩音、ちょっと」

 川沿いに立ち並ぶ木々のトンネルの下。一緒に歩いている響子さんが、急に立ち止まった。少し後ろに立つ彼女の方へと振り返る。陽光に照らされる彼女の瞳は、目を細めそうになるくらい、眩しかった。

 どうしたんですか?

 そう聞くより早く、春の装いから露になった白い腕が、こちらへと伸びてくる。いきなりのことだったので、反射的に目を瞑ってしまった。瞼の裏で、見えないはずの彼女の笑みが浮かんだ。頭を擽ったい感触が撫でて、鼻腔に甘い匂いが広がる。桜とか、春の香りとかじゃない。それは、私のよく知る響子さんの匂い。

「そんなに驚かなくても、いいじゃない」

 彼女の笑う声が聞こえて、恐る恐る目を開く。木漏れ日の中の響子さんの笑顔。それは、瞼の裏に浮かんだものよりも、もっと鮮やかだった。

「ほら、これ」

 視線を落とすと、彼女の手の平には小さな何かが乗っていた。濃い赤紫で、一見すると虫のようにも見えて、思わずぎょっとしてしまう。でも、動いていないから、植物の何かだろう。そんな見当しかつかなくて、つい疑問が表情に現れてしまった。

「危ないものじゃないわよ」

 笑みの中に彼女は揶揄いを浮かべる。何だか、子ども扱いされたみたいだ。実際、私は響子さんと比べたら、まだまだ子どもみたいなものだろう。その事実がちょっと恥ずかしくて、顔が赤くなるのを感じた。

「何ですか、これ?」

 自分の態度を誤魔化しつつ、そう聞いた。響子さんは案外、人を揶揄うことが好きだから、きっと赤面している私に気付いたら、しばらくの間は冷やかしてくるだろう。響子さんといるのは好きだけど、正直それは面倒だ。

「ほら、桜の」

 そう言って、彼女は頭上を指さす。葉っぱ同士の隙間には、花弁の散った後に残るモノがちらほらと見えた。ああ、なるほど。響子さんの手の平にあるものは、桜の蕊だったのか。言われてみれば、見慣れたものだったのに。さっきの出来事による動揺は、思った以上に大きかったらしい。

「こういうの、花弁と一緒に落ちていかないんですね」

 私が聞くと、そうね、と響子さんは呟いた。緑の葉に囲まれた桜の跡が、音もなく落ちていく。地面へと向かうその一つに目を凝らしてみたけれど、あまりにも小さくて、途中で見失ってしまった。それでも、地面には沢山の蕊が落ちていて、タイル張りの道の上をその色で染めている。

「これだって、桜なのにね」

 響子さんが、静かにそう呟いた。鳥の鳴き声にも負けそうなくらい、静かに。だけど私が聞き漏らすわけがなかった。隣を見遣ると、響子さんは頭上の葉桜を仰ぐでもなく、地面の桜蕊を見下ろすでもなく、ただ手の平に乗ったままの一本の蕊を見つめていた。宛ら、死に瀕した虫を見守るかのように。

「そう、ですね……」

 何か声をかけたくて、それでも何も言葉が浮かんでこなくて。自分でも嫌になるくらいに生温い相槌を打ってしまった。どうしてこういう時、いつも言葉に詰まるのだろう。そんな自虐めいた問いが生まれて、つい目を伏せる。響子さんも、隣で深と黙っている。

 吐息も、髪の擦れる音も、聞こえてこない。ちょっと手を伸ばせば届く距離。その間に横たわる昼下がりの静寂しじまが、耳を劈く。空は蒼く晴れているのに、曇天のような重苦しさを覚えてしまう。

 そんな私たちの横を、自転車が通り過ぎた。風に吹かれた地面の花弁が、追いかけるように舞う。けれどそれはすぐに、諦めたみたく進むことをやめた。

「もう、何を気にしてるの?」

 響子さんが肩を叩いて、微笑みかけてくる。そこで私は、心配される程に暗い顔をしていたのだと、気付かされてしまう。

「ごめんなさい……」

「何で謝るのよ」

「だって……」

 だって、私は響子さんの欲しい言葉を言えなかったから。響子さんの心に生まれた悲しみを、掬えなかったから。

 傍にいたいのに……。

 ずっと傍にいたいのに、私を置いて、季節のようにいつの間にか消えてしまいそうで。

 追いかけても追いつけないくらい遠い場所へと、一瞬で行ってしまいそうで。

 怖い。

 怖くて、たまらない。

「だって?」

 そう問い返されても、答えられない。今の想いをそのまま伝えることは、彼女を否定しているようだから。そんな思考を別のものに換えようとする度、意味のない単語が、脳の中で空回る。私はそんな情けない態度なのに、響子さんは何も言わず、優しい表情を崩すこともなく私の返事を待っている。

 不意に、彼女の頬をなぞるように、一片ひとひらの花弁が落ちていった。

 ――雨。

 どこからか湧いてきたそんなモノが、脳裏を掠める。

 思い出す。

 いつか、響子さんが雨に打たれていた日のことを。

 私たちの共有する出来事の中で、最も暗い日々。いや、出来事なんて言葉は似つかわしくない。記憶というのも、また少し違う。もっと冷たい……、氷のような印象。記録、とでも呼ぶのが一番だろうか。

 あれは、全てが今日とは真逆の、陰鬱な日だった。

 響子さんの両親が亡くなって、それを追うように彼女の姉が自殺した日。二つのことに、関連性は全くない。ご両親は避けようのない自動車事故だった。運転席のお父さんは即死で、助手席に乗っていたお母さんは、その二日後に亡くなったという。お姉さんの方は、後から遺書を読んで知ったことだけど、大学生活についていけず、この世を去ったらしい。ただ、その二つの重なりは、まだ高校生だった響子さんの心の形を、変えてしまう程に強く締め付け、侵し、軋ませたのだ。

 立て続けに執り行われた家族の葬儀の後。そんなことがあったからだろう。響子さんは雨で氾濫する川の中へと、身を投げようとしていた。

 私は憶えている。

 欄干の向こうに立ち、背中越しにこちらを見る青白い顔を。

 どうしようもない絶望に打ち拉がれた、死者に近しい顔を。

 そして、雨の最中。

 この世に遺そうとしていた言葉を。

『人はみんな、バラバラに死ぬのね』

 それが、響子さんの得た答えだった。みんな死ぬ時はきても、死ぬ時間は一緒じゃない。同時に息を引き取るなんてことは、奇跡にも等しいこと。死はどこまでも孤独な概念なのだと、彼女は知ったのだろう。

 そう。

 あの時の私も、言葉を紡げなかった。闇雲に、目の前で響子さんが死ぬなんて事実を受け入れたくなくて、必死だった。ただそれだけの気持ちで、身体を動かして、響子さんが死を選ぶことを否定した。

 だけど、いつかまた、悲しみが彼女の心を掠めたら。きっとその時、彼女はまた死を選ぼうとするのだろう。そんな確信というには不確かで、予見というには曖昧過ぎる不安が、こうして時々、私の胸中に湧いてくる。

 ほら、今だって。

 響子さんが死ぬところを想像しただけで、瞼を押し上げようとしてくるものがある。

「ちょっと、本当にどうしたのよ」

 慌てて私の頬を響子さんが拭う。触れた親指と頬の間には、濡れた感触が挟まれていた。涙。いや、やっぱり雨だろうか。あの日の記憶に降る雨が、この目の下から溢れ出してきたのかもしれない。

「ごめんなさい……、ごめんなさい……」

 喘ぎながら、私はただただ謝罪の言葉を口にした。それだって、上手く伝えられなくて、震えが止まらない。滲んだ視界には、困った表情を浮かべる響子さんの顔がある。どうして、こうなんだろう。いつだって本当に泣きたいのは、響子さんの方なのに。彼女には、私の不安を隠さなきゃいけないのに。

「詩音」

 優しく声をかけてから、彼女は私の頭を胸に抱いた。柔らかな胸の感触。その奥には生の証。そして、彼女の香りが一層、強く匂う。それは、もう散ってなくなってしまった、桜の香りに似ていた。

「あなたは、何も気にしなくていいのよ」

「でも……、でも!」

 感情が抑えきれなくて、胸の中で私は大きな声を出してしまう。

 きっと、察しの良い響子さんのことだから、私の気持ちを汲み取ってくれたのだろう。私が何を想い、何を思い出していたのかも、全部。それじゃあ駄目だ。それじゃあ、響子さんはまた、あの日の破滅へとまた、手を伸ばそうとしてしまう。

「詩音は、優しいね」彼女の声が、頭の上から聞こえてくる。そして、そっと赤子を宥めるように、私の髪を撫でた。

「あの日のこと、あなたは覚えてるかしら……」

「えっ……?」

 頭を上げると、響子さんの顔が、ずっと近くにあった。優しい瞳も、春の色を帯びた唇も、ずっと近くに。

「あなた、欄干の向こうにいたわたしのことを、思いっきり引っ張ったのよ」

 それはもう、強い力で。

 くすくすと、感慨深そうに彼女は笑う。綺麗な三日月のように細められた目には、より優しさが滲んでいた。

「きっとあの時、ああやって引っ張ってくれなかったら、本当に飛び込んでいたと思う。今、こうして詩音を、抱きしめることだって、できていなかったでしょうね」

 つまりね、と続けながら、響子さんは私の瞼を再び拭う。濡れた親指の先が、陽光を反射させて煌めいている。

「あなたが生きるってことを教えてくれたの。あなたが生かしてくれたから、わたしは命を捨てようなんて思わなくなったの。それに、もう悲しくなんてないわ。だって、あなたはわたしの分まで、こうして泣いてくれているもの。わたしの悲しみを十分に、背負ってくれているもの。だから、謝るのはわたしのほうなのよ」

 響子さんは私をもう一度抱きしめて、耳元でごめんね、と囁いた。

 ううん、違う。私は頭を振って、彼女の言葉を否定する。だって、響子さんの悲しみをちっとも背負えてなんかいない。響子さんの流した涙の一滴ほども、理解できているのかなんて怪しい。きっと、そんな風に言ってくれるのは、響子さんが底抜けに優しいからだ。

「じゃあ詩音、わたしからお願いしてもいいかしら?」

 抱きしめていた腕を解き、私と視線を合わせた。笑った顔。私の大好きな響子さんの、大好きな表情。

「わたしは死ぬまで生きるって約束する。だから、ずっと一緒にいて、詩音。ずっと……、わたしが消えても、その先まで」

 美しく響いた彼女の言葉が、耳の奥でこだまする。それは、祈りにも呪いにも似ていて、果てしなく儚い願い。

「響子さん」

「何?」

 私は彼女の頭へと手を伸ばす。いつの間にか、響子さんの頭の上に、花ごと落ちた桜が乗っかっていることに気付いたから。さっきとは逆だった。目を瞑った彼女が目を開くと、気付かなかった、と少し耳を赤らめながら呟いた。そんな響子さんを見る機会はなかったから、ちょっと私は嬉しい。嬉しくて、今度は私がつい、笑みを浮かべてしまう。

「やっと、落ち着いたみたいね」そう指摘されて、私はもう涙が止まっていることに気付いた。

「ご迷惑をおかけしました」響子さんから離れて、頭を下げる。

「いいのよ、誰だってそんなことあるんだから」

 さあ、行きましょう。そう言いながら、彼女は私の手を取りながら、先を歩く。やっぱり響子さんの手の平からは、春の温度が感じられた。

 それは、繋がれた手の平にさっきの桜の花が挟まっているからかもしれない。

 いつか彼女にも、私にも、死は訪れる。それでも、響子さんは生きてくれると言ってくれた。そして、その先にある時間までも、一緒にいようと願ってくれた。

 響子さん。

 きっと、散っていた桜も、落ちていった蕊も、悲しいものじゃないんだと思います。

 だって、あなたがその先を信じてくれているから。あの桜の花たちも、響子さんの信じる終わりの先で、一緒にいるんだと思います。

 多分それが、答えなんでしょうね。

 手を繋いだまま、私は響子さんの隣へと寄る。

 風が吹き、

 鳥は鳴き、

 またいくつも花弁と蕊が落ちて、

 風景も季節も、移ろっていく。

 それでも、春の気配はずっとここにあってほしい、と。

 静かに響子さんの手を握り返して、そう願った。

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桜蕊 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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