第32話 影男

「日本に戻ったらあの大臣、ぎゃふんと言わせてやりましょうや」

「証拠もないのに、一体どうしようと言うんですか」

「そんなもんは、その時次第ですよ。最悪2人で覆面でも被ってぶん殴りに行けばいいんですよ」

 柏木はしばらく呆気に取られていたが、やがて声を押し殺して笑い出した。これまで出所したらどうするかなんて考えたこともなかった。いやどう考えていいのかすら解らなかったのだ。それに対して出所後のことに、てんで頓着しない三野を見ていると無性に可笑しくなったのだ。ヤクザにとっては塀の隔たりなど関係ないのかもしれないが。

 

 大臣は事件をでっち上げてまで邪魔者の自分を排除しにかかったことは間違いない。そればかりか刑務所での動きさえも何かあれば即座に連絡がくる体制ができていたのだ。それがプロジェクトの強制参加からも透けて見える。

 今となりで笑いを押し殺している三野と、日本に戻ってからもこうして笑い合える日が来るのだろうかと柏木はふと思う。恐らくその可能性は低いはずだ。きっと私の強制参加は、口封じのためで、今後何らかの形で私は命を狙われるに違いない。


 同じ目線で物事を捉え、同じ価値観で笑い合えることが、やけに久し振りのことに感じていた三野は、柏木が用足しに立ち上がった後、そこに覗いた小窓の外に広がる真っ白な雲海に目を細めながら、記憶を遡って行く。


 ……そう言えば、影男はどこで何をしているのだろうか……


「うちの吉田が、あの影男とタイマン張って引き分けたの知ってるか」

 噂に聞いていた影男という名が、初めて三野の身近に現れたのは中学を卒業してからすぐのことだった。

 吉田は、三野のグループの中でただ一人、喧嘩で36戦無敗を誇る間切れもない自分たちの最強兵器だった。一方の影男は、隣町の中学の3年に転校して来た男で、転校初日から学校を締めていた番格をフルボッコにしてから、たちまち周辺の中学、高校を従えて、地元の暴走族にも一歩も引かないで暴れているという噂の男だった。

 三野や吉田たちは春に中学を卒業していたから学年で言えば影男は一つ下になるのだが、幼少の頃の事情で入学が遅れたため本人は18歳だと自称していることから、強くて当たり前だという風潮が漂っていた。それだけに、仲間の吉田が引き分けたと聞いたときは、三野も含めて周囲は快哉を上げたものだった。

 ところがだ、それから3年が経ち三野は18歳で5度目の傷害事件を起こしてとうとう少年院送りになったのだが、新入時教育を担当する教育官の口から創立以来の模範生として、影男の名前が引き合いに出てきたのだ。影男の名前を聞くのは吉田との一件以来だった。

「影男なんてふざけた名前をしているが、今うちの少年院で一番の模範生は間違いなく影男という男だ。これから寮に下りれば顔を合わすこともあるかも知れん、その時は、彼の生活を手本にするといい」

 三野は影男の名前を聞いて変だと思った。三野が知っているはずの影男は3年前に既に18歳だったから現在は21歳になっているはずなのだ。20歳までしか収容しない少年院にいるのはおかしい。きっと同じ名前の別人に違いない。年齢的なことを考えるとその可能性が高いが、教育官にどこから来ているのか聞いてみると、東京からだと返事が返ってきた。同じである。三野はこれまで実際に影男の顔を見たことはなかった。それでも会って話をすればわかる。

 実は三野がそこまで気に掛けたのは、初めての少年院生活に対して少なからず身構えている部分があるからだった。きっとこれから毎日ケンカやイジメに明け暮れるのだという覚悟はしていた。決してビビっていたわけじゃないが、そんな殺伐とした環境で地元が一緒の人間がいるのは何より心強い。昔、仲間の吉田が引き分けたケンカの決着を付けてやろうとは露ほども思っていなかった。

「ツトムって呼んでいいか」

 新入りの三野が東京出身と知って、同郷の者が集まってきた中の1人がそう言った。どこか日本人離れした堀の深い顔に、アヒルのように湾曲した唇の張りは、挑んできそうな覇気が漲っていた。模範生というからには自意識過剰で新入初日の人間にこんなに馴れ馴れしく話しかけてくるとは思わなかったので少々面食らったが、これが三野と影男のファーストコンタクトだった。

 影男の胸の名札には「萩木」と記されていた。

「俺、中野の影男って奴の名前を知ってるんだけど、お前と何か関係があるのかな」

 それまで、戦場で巡り合った同郷の者を歓迎するような、それでいて腹の底では新入りの根性を値踏みするような感じ、あるいは他の連中にどこか気を遣っているような雰囲気が見え隠れする妙な空気が一転した。

 影男の目が大きく見開いた。

「それ俺のことだよ、俺が中野の影男だよ」

 三野は両肩を掴まれて何度も揺さぶられた。

「お前さあ、昔うちの吉田とタイマン張って引き分けなかった?」

「吉田……、ああ、あいつのことかよく覚えてるよ。ツトムは吉田とマブなのか」

 影男の言葉は、イントネーションが少しずれているような気がした。しかも「マブ」という死語を臆面もなく使うところに、堪え切れず顔がニヤケてしまう。

 しかしそれが影男の言葉を肯定したと受け止められた。

 そうかこいつが影男だったのか。

「俺が知っている中野の影男って男は、吉田とタイマン張ったときは、確か18歳のはずだったんだけど」

 影男はペロリと舌を出して無邪気な笑みを浮かべた。

「中学の時は、転校生ってことで舐められるのが嫌だったから18歳って嘘をついていたのさ、敬語なんて使いたくないしな」

 呆れた奴だ。

 よくよく考えてみれば、どんな理由があろうとも中学に年齢の合わない者が入学できるはずもない。さすがに少年院では年齢をごまかすことは出来ない。

 影男の生年月日を訊くと学年は三野の一つ下だと言うことが判明する。

 つまるところ3年前、吉田は一つ下の野郎を相手に引き分けを期してしまったのだ。

「吉田は本当に強かったよ。俺さぁケンカで鼻血を出したのなんて、あの時の一回だけなんだぜ」

 それでいてこの言い草だ。それでもこんな所で間接的にでも知り合いに出会えたことは心強い。

 本来、少年院と言えば新入りは寄ってたかって虐めのターゲットになるのが常だが、既に上級生になっている影男のお陰で三野はずいぶんと楽な少年院生活をスタートさせることができたのだ。

 出る杭は打たれる、というが出ていなくても打たれるのが少年院だ。誰もが点を稼ごうと教官の目が届かないところでも、互いを見張り合っている。寝ているときでさえも気を抜くことは出来ない。そしてこの世界で生きていくには自分自身も心を捨てて、周囲の者を出し抜かなければならないのだ。

「先生、○○君が洗面所で隠れて水を飲んでいました」

「先生、○○君と○○君が図書室で関係ない話をして、周りに迷惑を掛けていました」

 気を許して友達になったと思ったらこれである。新入生への洗礼は、かつて自分たちが同じことをされて失った点数の取り返し行為でもある。

 しかし出すぎた杭は打たれようがない。それが影男という存在だった。教官の評判もさるとこながら、他の院生からも慕われる稀有な人間性。世話になっておいて言えることじゃないが三野は我慢できずに口にしてしまう。

「お前、ただの猫かぶりだろ」

 一瞬、ケンカになるかも知れないと身構えたが、影男のフリーズはその意味が理解できていなかっただけなのだ。それでも勘のいい影男は瞬時にその意味を察してこう返してくる。

「ここでは、それが出来ないとやって行けないのさ。俺は猫かぶりの王様だ」

「お前、日本人じゃねぇだろ」

 本気で言った言葉ではなかった。時折り日本語特有の表現に対して違和感を覚える返しをする影男に対して咄嗟に出た冗談だった。

「お前、それを二度と言うなよ。俺は日本人だ」

 影男の顔色が変わった。初めて見せた感情的な態度だった。しかし少年院ではほんの些細な揉め事でさえも、他の院生にしてみれば、点数稼ぎの種でしかない。その一瞬後には、影男の態度はいつもと同じように穏やかなものに変っていた。それ以降、影男が顔色を変えることは二度となかったし、昔からの友人のような影男の振舞によって三野の少年院生活は富士山を五合目から登るような楽なものになった。

 だがその陰で三野と同期の連中は、少年院の洗礼の的になって巧妙な嫌がらせや虐めが絶えないことが心苦しくもあった。

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