第31話 素性
目を剥いて大きな声を出しそうになった三野は、人差し指を口の前に立てた柏木に静止を促されて押し黙った。機内の興奮はすっかり収まって、大臣の言うことを聞き入れたのか眠り始めている者も散見される。
「それを早く言ってくれよ柏木さん。あなたが一番、逃げ出してる場合じゃねえじゃねえか、こうなったらどうやって助け出すか真剣に考えないとな」
「何を言っているんですか、私個人のことに三野さんたちを巻き込みたくはありません。現地に着いたら、三野さんはGPSを外してこのプログラムから無事に離脱することを考えてください」
「あんた1人で何ができるって言うんだ。それにいくら俺だって300人のやる気になってるヤクザ者の気を変えることなんて出来るわけがねぇよ。それにもう十分に巻き込まれてるよ柏木さん」
「申し訳ない。私が黙っていたのが間違いだったのかも知れません。とにかく今は身体を休めることに専念しましょう」
懲役受刑者を乗せた2機の米軍航空機は途中の経由地で燃料や食料の補給をしながらアフリカ大陸の中央部に位置する南スーダンを目指して飛行を続けた。
食事時になるとコクピットに続く通路の途中に立ちはだかっている扉の向こうから武装した米兵が3人組で食料を運んでくる。そのうちの1人は常に小銃を構えていて、まるで刑務所の看守のように睨みを利かせていた。食事で出たゴミや残飯は、次に食事時に入れ替えて回収される。食事以外のときは機内は暗くされていた。大半の者は寝ているが飽きもせず隣の者と喋っている者もチラホラといるが、概ね落ち着いている様子だった。
三野は何度目かのトイレに立って戻ってくると、それまで目を閉じていた柏木が窓の外を見るともなく眺めているのを見付けた。窓の外は快晴だった。機体はどんよりとした雲の上を飛んでいて太陽の光を浴びた雲の照り返しに目を細めた。機内が明るいのはそのためだった。
「柏木さん」シートに腰を落ち着けた三野は話し掛けた。柏木は小首を向ける。
「これから行く南スーダンってどんな国だか知っていますか」
柏木は頭の中に埋もれいている南スーダンのレジュメを探すような視線をやや上方に放つと、すぐに探し当てた様子で、そこで始めて上体を三野の側に向けて小声で話し始めた。
「南スーダンは2011年にスーダンから独立した国で、簡単に言ってしまうとイスラム教徒主導の国から南部に多かったキリスト教徒が分裂したんです」
「へぇ宗教が違うだけで国が分裂しちまうなんて、日本人の感覚じゃちょっと理解できないな」
「発展途上国の人たちにとって、宗教は貧しい日常生活の拠り所ですからね、我々日本人が考える宗教とは認識がかけ離れていんですよ」
「じゃあ南スーダンはキリスト教の国なんだ。まぁイスラム教よりは馴染みがあるな」
柏木は、少し笑みを浮かべながら首を振って見せた。
「イスラム教よりキリスト教のほうがイメージとしては温厚に感じるかも知れませんが、南スーダンに限っては、必ずしもそうとは言えません」
「キリスト教過激派なんて聞いたことねえけど」
三野は足を組み替えて飲みかけのミネラルウォーターのボトルを開けた。
「キリスト教が過激なのではなくて、南スーダンは小さな部族が多いんです。独立直後から大統領と副大統領が石油利権を巡って対立が起こったんですが、2年後の2013年には武力衝突に発展し最終的には、双方の出身部族の民族紛争になってしまいました。それによって200万人以上が住む場所を追われて、今もその最中にあるはずです。首都のジュバでは再建のために、日本も含めた60か国以上のPKO部隊が現地で活動しています」
「おいおい、そんな中で人質事件が起きたのかよ」
やはり三野でさえもことの成り行きを把握しきれていないらしい。
「三野さん、我々が今向かっているのは南スーダンですが、犯行グループはスーダンのイスラム教過激派です」
「えってことは、俺たちが人質を奪還しに行くのはスーダンってことか」
柏木は微笑しながら頷いた。
「へぇなるほどな、まぁどっちの国に行くのかなんてあまり問題じゃねえけど、それにしても柏木さん、あんたとても昨日まで一緒に刑務所暮らしをしていたとは思えねぇな、さすが元官僚様だ」
三野は元官僚という部分だけをより一層の小声で言った。同じ懲役の中に、元官僚がいると知ったら大騒ぎになることは目に見えている。
「三野さん、私は勅使河原大臣にこのバカげたプログラムを具体化するように指示を下されたとき即座に断固反対の立場を取ったんです。こんなことが公にならずに秘密裏に事が進むと思っていることからしてイカれている。しかも大臣は自分の政治生命さえも顧みることなく、これを断行することが最善だと信じているんです。だから私は大臣の肉声を録音した音声データをマスコミにリークすることを企てたんです」
柏木はここまでの話が三野に伝わっているか確かめるようにその目を覗き込んだ。ついでにペットボトルの水をひと口飲む。
三野は空になったペットボトルを掴んだままジッと柏木を見返している。
「官僚をやっていると、政治専門の記者とは自然に顔馴染みになります。省にはマスコミの対応マニュアルもあるので普段は無視をするのですが、リークする先をそんな記者の中から選んだのがいけなかったのかも知れません」
「逆にそのことが記者を通じて大臣に漏れたということですか」
三野は思わず口を挟んだ。柏木はかぶりを振って「わかりません」と答えた。
「当たりを付けた記者と二度目のアポを取っていた日の朝のことです。いつものように世田谷の自宅から車で家を出たんですが、その途中で車同士の諍いに遭遇し立ち往生している時に、暴漢に襲われたんです」
「妙な話ですね。良かったらその事件のことを詳しく教えてもらえないですか」
三野は決して柏木の話を疑っているのでも、面白おかしい話のネタとして聞いている風でもなく、あくまで親身になって柏木の言葉から真実を詳らかにするようなスタンスで訊ねた。
「襲われて気を失い、気が付いたときは警察官が私の車の窓ガラスを叩いていました。車は路肩に停止していてエアバッグが作動していました」
三野の喉仏がゴクリと上下に動いた。
「私はその場から200メートルほど手前で起きたひき逃げ事件の犯人にされてしまったんです」
事件は早朝に起きた。伊藤雅之という男が運転する車が国道246号を走行中に赤信号を無視して交差点に侵入し横断歩道を歩行中の老人を跳ねたというものだった。跳ねられた老人は近くの都立公園を根城にしている浮浪者で全身打撲を負い、病院に搬送中に息を引き取っていた。伊藤は何かの間違いだと無実を訴えた。しかし当時はそれをすぐに証明できるドラレコなどという都合のいい代物はまだ普及期でもなく伊藤の車にも取り付けられていなかった。現場を目撃した人間も皆無だったことから、伊藤はその場で身柄を確保される。連行中のパトカーの中で半狂乱状態で無実を訴え続ける伊藤を不審に思った警察官は、アルコール検査を実施すると伊藤の呼気から基準値を大幅に上回る数値が計測された。
登庁しようとする国家公務員が飲酒運転などするはずがないと訴えたが、書類送検後の家宅捜査で自宅に踏み込んだ捜査官がダイニングテーブルに置き去りにされていたチューハイの空き缶を発見した。それは呼吸検査で計測された分に相当するものだった。妻と子供は一週間前から帰省していた。
伊藤の、酒は一滴も飲まないという供述は、自宅で発見されたチューハイの空き缶から検出された指紋とDNAから全くの信用性を欠き、事件から23日後に危険運転致死罪で起訴されることになった。
伊藤は裁判中も一貫して無罪を訴え続けたが、状況は好転するどころか新たな証拠が次々と浮上し悪くなっていく一方だった。中でも一番の痛手は事故現場を視界に捕えている防犯カメラ映像が被害者を跳ねる瞬間の伊藤の車を映していたことだった。加えて近隣のNシステムにも伊藤がその車を運転している姿が映っていたのだ。その車が伊藤の車で運転しているのも本人だと証明するには充分な証拠だと判断された。更に複数の元同僚が伊藤は酒飲みだったという証言が追い打ちをかけた。そして唯一の味方であるはずっだ妻は疲れ果て、伊藤が収監されている東京拘置所に離婚届を送り付けた。
伊藤は妻の意思を受け入れ、懲役7年という判決を旧姓である柏木雅之として受ける。妻と子供を守るために伊藤ができることはそれしか残されていなかった。
「えげつない話だな、俺たちの世界でもそうあることじゃねぇ……」
柏木は珍しいものでも発見したような顔を三野に向けた。
「私の話が信じられるんですか」
「もちろんですよ、嘘が必要な間柄でもねえでしょ。俺たちは全く違う業界の人間なんですから」
三野は白い歯を見せてニヤリとした。そして付け加えた。
「それで日本に帰ったら、どうするつもりなんです」
「どうするって」と柏木は言った。
「何言ってんですか、これは立派な陰謀じゃないですか、しかも一度ならずこうして希望もしていないのにプログラムに参加させられている。まさかこのままあの大臣を放っておくんですか」
「だけど証拠は何一つないんですよ」
三野は小さく笑った。
「柏木さん、あんた法務省の役人だったんだからわかるだろ、この世で証拠が必要なのは裁判官だけなんだから、それに俺も頭に来てるんですよ、なにが暴力団解散法だ、ふざけやがってそれともう一つ」
「もう一つとは」
柏木は、改めて三野に顔を向けた。
「顔ですよ。あの大臣の顔が気に食わないんです。あの野郎、一発殴ってやらないと気がすまねえ」
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