第22話 日本・道東刑務所⑨

 私がこの刑務所に入所した数年前は、1日の作業が終了して受刑者が戻る舎房は、6名ほどが一緒に寝起きを共にする雑居房が主流だったが全室の独居化が進んだ昨今において受刑者同士が自由な会話を楽しめる時間は、昼食後の休憩時間や運動の時間に限られるようになっていた。

 全室独居化は、受刑者同士の仲を親密にするのを防ぐ効果を狙ったもので2000年代になって、大企業の創業者宅に押し入り、爆破殺人に及んだ犯行グループが、実は刑務所で知り合った者同士で結成されていたことが切っ掛けとされている。

 受刑中に他の受刑者と連絡先を交換するのは禁止されていて発覚すればもちろん懲罰の対象になる。


 三野は前日の運動時間終了間際に柏木から聞かされた衝撃の告白の続きを聞きたくてしょうがなかった。夜もほとんど寝むれなかったくらいだ。それでも過密状態の食堂での休憩時間は黙っていた。わざわざ離席の許可を取って柏木の席まで行って話を聞きに行ったら、それこそ周囲の者にも話が聞こえてしまう。そんなことになったら大変なことになる。だから話の続きはこの後の運動時間に決めていた。

 三野は何度も柱時計を確認した。普段はあっと言う間に終わる休憩時間が長く感じられて仕方がない。そうこうしているうちに午後の作業が始まった。

 作業が始まっても時間が気になってしょうがない。そして刑務官の目を盗んで柱時計を盗み見た時だった。

「三野、三富、柏木の3名は、担当前まで来い」

 工場担当に名前を呼ばれた3人は、それぞれ作業の手を止めて役席を立つと、担当台の前まで歩いて行き、揃って肩を並べてから1人づつ称呼番号と氏名を発声した。

「よし、これからお前たち3名を処遇部に連行する。詳しい話は向こうに行ってから聞いてくれ。以上」

「オヤジ、どうして俺たちは処遇に行かにゃならんのですか」

 と三富が食い下がったのは尤もなことだった。処遇に連行すると言うのは通常は規則違反が発覚した者が最初に連れて行かれる場所だからだ。懲役にとっては悪いイメージしか浮かばないところである。

「行けば解る。まぁ頑張ってこい」

 担当のオヤジは声を低くしてそう言うと、連行しにやって来た若い刑務官に3名の身柄を預けたのである。そしてそれ以上は何も受け付けないとばかりにオヤジは、クルリと回れ右をして背を向けてしまった。それは他の者を刺激しない配慮だったに違いないのだが、その一言でこの意味不明な呼び出しが何を意味するのか呼び出された3名は、既に理解していた。

 想像外の確率とその恩恵がもたらす喜びは、これまでの人生にはない高揚感を演出したが、それが塀の中にいるときに訪れてしまったことに対する一抹のもったいなさとない交ぜになっている複雑な心境が、三富の表情に見て取れた三野は、昨日の柏木が言った、「興味本位だけなら、このプログラムに参加するのは辞めておいた方がいい」という忠告を改めて思い出していた。

 3名は社会貢献プログラムに選ばれたのである。

 連行中、先頭を歩く三富の両手はガッチリと握られていて、大袈裟に顎を引いて歩くその様は、今にも爆発する喜びを我慢しているのが手に取るように伝わってくる。向かいの通路からも何人か連行されてくる懲役の姿が見えた。その連中も興奮を隠しきれないのがありありとしている。

 処遇部の前に着くと、三富は他の工場から連行されてきた懲役と頷き合った。同じ幸運を手に入れた者たちの間にはもう連帯意識が生まれているようだ。また別の通路からも懲役が連行されて来て、10名ほどになったところで処遇部の中に通された。

 中に入ると人工的に作られた密度の濃い冷気が肌に触れ、鼻筋から煙草の臭いが抜けて行く。奥に続く廊下の風景は決して特別な物ではないはずなのに、床や壁面そして天井に至るまで意匠が凝らされていることに妙に目が行って仕方がなかった。それだけで刑務所の中がどれぼど質素な造りであったか思い知らされる。更にどこからともなく聞こえてくるエアコンなどの機械音がうるさいほど耳に引っ掛かって来る。あらゆるノイズが五感を刺激して眩暈がしそうだが、それらは全て懐かしい娑婆の空気感に違いなかった。

 10名は、すぐ手前にある会議室のような部屋に通された。

 警察官のそれによく似た濃紺の制服。胸に輝く三ツ星が金ベタの階級章に乗っていた。三野は所長が制服を着ているのを初めて目撃した。従ってその階級章を目の当たりにするのも初めてだったが、そんな塀の中のレアケースなど最早どうでもよく、これから胸に刻まれようとしている数時間、いやプログラム終了後に約束された釈放後には、きっと夢の島で落としたメモリーカードを探し当てるくらい、思い出すのが難しいことになっているに違いない。

 所長の横にはナンバーツーの処遇主席やそれに続く上級幹部職員のほとんどが揃っていた。実際の現場を知らないエリート然とした彼らは日夜、思弁を尽くし机上の空論のみで新たな規則を構築し、現場担当に押し付けるのが仕事だと思っている節を懲役はいつも感じている。そして最終的にそのシワ寄せを食うのはいつだって懲役なのだ。そんな上級幹部らの付き人のように取り巻いているまだ若い刑務官たちは、世の中の害悪に甘い顔を見せるな、こいつらは所詮人間の屑だ。いずれ社会に戻ればまた同じことを繰り返すのは目に見えている。ならばせめて塀の中にいるうちは、被害者の無念を晴らすべくいじめ抜け、と言う精神を叩き込まれているに違いないのだが、今日ばかりはどいつもこいつも様子が違うように感じられた。いつもの威勢はどこに行ったのか、落着きのなさを感じるのは気のせいか。

 三富は以前、別の刑務所から出所した折に近くの繁華街で刑務官とバッタリ出くわしたことがあった。その時の刑務官と同じ顔をしていると思った。刑務官にとっては、動物園から逃げ出した猛獣に出食わしたも同然なのだ。まさか急な出所に肝を冷して、本気でお礼参りに来るとでも思っているのかも知れない。些か痛快な気分にもなる。

 刑務官らを挟んで並んでいる長テーブルの上には、数年ぶりに対面する、自分たちの私物が置かれていた。脈がドキリと踊る。指示を受けてそれぞれが自分の私物の前に立ったところで、処遇主席が大柄で突き出た胴回りを迫り出すようにして一歩前に踏み出すと特大の咳払いをひとつした。この処遇主席の特大の咳払いは、何か話し出す際の準備みたいなもので、喉の奥に沼でもこしらえているのかと思えるくらいの痰が絡んだ咳払いをするところから密かに石炭というあだ名がついていた。その咳払いは聞くものには、瞬間的に嫌悪感を増幅させるのだが、これも今日ばかりは気にならなかった。

「あぁ、諸君が今日ここに集められたのは他でもない、先日募集をかけた社会貢献プログラムへの参加が、君たちに決まったからだ」

 改めて告げられたこの事実に、足の先から登ってくるザワツキを悟られまいとするために、深く静かに息を吸ったのは、自分だけじゃなく、ここにいる全員がそうであろうと三野は思った。

 喉の奥に隠している沼の響きを利用した野太い声は殊更に、石炭の物言いを仰々しさで縁どって、ひと回りもふた回りも価値が重く聞こえてくるから不思議だった。

 ふと確信犯で自分の声質を利用しているのか無性に気になった。それが自分にもできる芸当だったら、自分の人生は今ここにあったかどうか検証したい衝動を抑えながら三野は"石炭”の言葉に耳を傾けた。

「君たちの責務は各地に災害救助などで派遣されている我が国の自衛隊の補助、ということになっているが実際の現場では、彼らと同じように最前線で活躍してもらうことになる。つまり災害救助に補助もくそもないと言うことだが、よもやこのプログラムに参加したくないと言う者はいるか、決して無理強いはしない。いるなら正直に手を挙げてくれ」

 このとき初めて社会貢献プログラムが、どんなものか、重い扉が開き始めた気がした。三野は街中のゴミ拾いや、老人介護を想像していたが、その想像が一変する。三野の思考は、最近テレビで見かけるようになった災害救助に当たる自衛隊員の姿が浮かんでくる。そこに自分の姿を追加してみるが、ヤクザと自衛隊員の災害救助がどうしてもミスマッチしてしまい、ともすれば吹き出してしまいそうになった。

 三野のすぐ横にいる柏木が短く溜め息を吐いた。人を小馬鹿にしたようなそれは、法廷の被告人の証言が嘘だと証明できる証拠を手にしている時の検事が見せる嫌味な溜め息に似ていた。

「興味本位なら止めておいた方がいい」と言った柏木の言葉が三野の想像に修正を加えようとする。

「ひとついいですか。災害派遣と言いましたが、例えば福島原発の汚染処理なんかも含まれているんですか」

 東北の震災から2年以上も経過しているが、もしや福島原発は報道されているよりもはるかに危険な状態に陥っているのではあるまいか、そして俺たちは福島で人身御供にされようとしているのでなかろうか。

 懲役とは言葉を交わすのも汚らしいと腹の中で思っているのを少しも隠しきれていない、あるいは隠そうともしていない”石炭”の態度は慇懃無礼だった。

「福島に派遣されるとかそう言った具体的な派遣先は、ここでは解らない。ただ自衛隊員を差し置いて君たちがより危険な場所に送り込まれることはないから安心して行ってくれ」

 何が安心なものか、裏を返せば自衛隊員と同じだけの危険は承知しなければならないと言うことじゃないのか。

 柏木さんはともかく、他の連中は何も疑問に思わないのか。

 三野はチラリと他の者の様子を窺った。

 三富は相変わらず興奮が冷めやらず、と言った風で鼻の穴を膨らませている。他の連中もどいつもこいつも似たようなもので、こっちが恥ずかしくなるくらいに単細胞なアホ面を並べているではないか、その中にどこか見覚えのある顔もあった。阿久井である。目が合うと含みのある口角を吊り上げた、他は初めて見る顔ばかりだがシャツのそでから入れ墨がはみ出している者ばかりだ。少なくとも、この期に及んで尻込みをして手を挙げるような人間はひとりもいなかった。

「辞退する者はいないようだな」

 石炭がまた一つ大きな咳ばらいをした。

「それでは、本日をもって本所では君たち全員を釈放扱いとするが、実際にはあと半年間の刑期が残っている。それまでは精一杯、社会貢献に尽力して頑張ってもらいたい。今までのお勤めご苦労さんだった」

 所長以下この場にいる刑務官が一斉に敬礼をした。

 そのあとは所長が、ありきたりな訓示を言ったような気がするが、もう上の空で誰も真剣に聞いている者はいなかったに違いない。そしてそれが終わると幹部職員のほとんどはゾロゾロとこの場から退出して行った。

 10名は残った職員の指示で、数年ぶりの自分の洋服に着替えを行った。まるでどこかのカルト教団のようなグリーンの上下の作業服を脱ぎ捨てた三野は、自分の組から出所時に着る用に届けさせておいたスーツのズボンを履く。真冬の満期日に備えた冬物の背広は着る気にならなかった。三富の服装は若者らしくダメージジーンズにビンテージ物のオープンシャツを羽織っていた。およそヤクザらしからぬ恰好だが、少し羨ましくもあった。それでも久々に身に付けた自分の洋服は増々、娑婆に近付いた実感を湧かせる。それはこの場にいる全員が感じているはずだ。

「まさかよ、あと4年も残ってたのによ、それがたったの半年になったんだぜ。まだ信じられねえよ。あんたはあとどれ位あったんだい」

「俺か、俺はあと2年だよ」

 普段なら休憩や運動時間以外の勝手な私語には目くじらを立てて、取り締まる刑務官も私服に着替えた者たちにまで注意をすることはしなかった。

「4年ってのはエライ得をしましたね」

 人見知りや物怖じというものを知らない三富が、初対面の2人の会話に混ざって行った。

「俺なんか1年ですよ。ところで、どちらの組織の方ですか」

 自分たちが、どれほど得をしたのか、ひとしきり自慢し合う姿は、病院の入院患者が自分の病状がどれほど稀か語り合う光景と似ていて、三野は少し笑えてしまった。そして終始穏やかな雰囲気のまま各々着替えを終えて、いよいよ塀の外へ移動を開始するために両手に手錠を回された頃には、柏木を除くこの場の全員が、現役のヤクザだと言うことが判明していた。

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