第21話 日本・道東刑務所⑧

 この日は、午後の運動の時間になっても社会貢献プログラムがもたらした興奮は醒めなかった。普段ならすぐさまトラックを走り出す連中も、今日ばかりは走っている場合ではないらしい。

 私は一人でトラックに向かうと軽く一周だけジョギングをした後に、徐々にペースアップして行き身体がほぐれるのを待ってから一周毎に全速力で走ることを繰り返した。

 時おり視界に入る藤棚のベンチでは、担当職員を交えて話が盛り上がっている様子が窺えた。私とて別の意味で社会貢献プログラムが気にならないわけではないが、走っているうちに、酸素の供給量が追いつかなくなり、それどこではなくなって行った。

 それでもペースを保って走り続けていると、ある時から急に疲れを感じなくなるから不思議なものだ。すっかり疲労を感じなくなった身体は軽くなり、発汗によってうっすらと潤っている全身は、流動する大気によって体温を下げていく。無尽蔵に漲るスタミナを限界スピードの維持に費やして、疲れ知らずのまま私は走り続けた。

 無心の境地。これがランナーズハイというものだろう。

 私が長い刑務所生活で手に入れた唯一の新しい扉だった。

 しかし、限られた運動時間は、いつもこの辺りで終了を迎えてしまう。私はそれに備えて扉を閉めるようにクールダウンをはじめる。徐々にまた周辺の世界が戻ってくる。担当職員が腕時計を確認しているのが見えた。

 不意に聴覚が背後の人の気配を捉えた。些か驚きを持って振り返ると、そこには三野が私の数メートル後ろを走っているではないか。いくら無心だったとはいえ、同じトラックを走っていれば気づかないはずがない。三野は酸欠ぎみの青い顔で、喘ぐような呼吸を繰り返している。今さっき走り出したのではないようだった。

 私が走るのをやめて歩きだすと、追い付いてきた三野は私と肩を並べた。

「ずっと後ろについて走っていたんですか」

 私の問いかけに三野は一度頷きかけたが、それを打ち消すように首を左右に振った。そして両手を腰にあてがい、呼吸が整うのを待ってからようやく口を開いた。

「まさか途中からですよ」

 私と三野は、それからトラック歩きながら話しをした

「俺はね、ヤクザをやってても最終的に自分の身を守るのは自分自身だと思っているんで、娑婆でも毎朝走ってたし、ジムにも通ってたから体力にはちょっと自身があるんですけどね。柏木さんはチョット突き抜けているな次元が違うわ。なにか本格的にスポーツでもやってたんですか」

「本格的にというか、学生の頃は陸上をやってましてね、箱根を何度か走ったことはありますが、今は全然です」

「箱根って駅伝ですか」

「えぇ、まぁ」

「いやぁ、そうだったんですか。どうりで速いわけだ」

 この日から三野は、運動時間になると私の後について走るようになった。

 

 社会貢献プログラムへの参加が開始される日が1週間後に迫っていた。通常なら職訓の募集でも開始は2ヶ月先である。募集人員が10名といえど全国の刑務所から参加を募るのだから、何百という応募があるのは当然で、人員の選定にそれくらいの時間は楽に掛かる。それに比べ今回の募集から開始までの短さは異例と言えた。募集人員300名に対し応募総数は10倍の規模になることは予想に難しくなく、それでも追加説明も何もないまま、1週間後にプログラムが強行されるのには、何か裏があるとしか思えないのだが、ぶら下げられた人参があまりにも魅力的なために、社会貢献プログラムとは一体何なのか、誰一人声に出すものはいなかった。

 発表から3日たっても工場内はこの話題で持ち切りだった。約80名の工場で実に半分以上の人間がプログラムへの参加を申し込んでいた。

「例の社会貢献プログラムとやらに、俺も申し込んでみましたよ」

 ひと走り終えた後にトラックを歩きながら三野と言葉を交わすのが恒例になっていた。私は今朝の朝礼後に三野が社会貢献プログラムへの参加を申し込んでいるのを役席から確認していた。

 若い頃、どこの大学に決めるのか友人と相談し合った時のことを思い出した。あの時は互いの希望する大学の短所をここぞとばかりに冗談半分で罵り合っているうちに、いつの間にか意見が最高学府に収斂して行ったのだ。

「格好つけて申し込みしない連中もいますけどね、早く娑婆に戻れるなら申し込みしない手はないでしょ」

 三野は普段と変わらない溌溂とした口調で私に言った。先週までは呼吸を乱しながら間違えて呑み込んだ異物を吐き出すように喋っていたのが噓のようだ。体力に自信があると言ったのは、どうやら主観による思い込みではなさそうだ。話の内容よりはこの男の体力の方がよっぽど私の興味を引いた。

「興味本位や報酬優先でこのプログラムに参加するのはやめておいた方がいいかも知れませんよ」

 なんとも意味深で無責任なことを言ったものだが、トラックを私と同じだけ周回したことによって、その他大勢には到底たどり着けないだろう境地を分かち合ったよしみが、つい口を滑らせてしまったのかも知れなかった。

 三野は私の話を常識的な観点から捉えようとしていたのか、直ぐには呑み込むことができず、思わぬところで拾った物が価値のある物かどうなのか判別に苦しんでいるような顔をしていた。

「柏木さん、あんたこのプログラムが何なのか予想が付いているのか」

「予想もなにも、このプログラムは何年も前から構想されてきたことなんですよ。私はこの構想の渦中にいたことがある人間です」

 私のこの発言にさすがの三野もフリーズして二の句が出てこなかった。少しの後悔がジワリと私の中でしみ出した時に、運動時間は終了した。

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