第20話 日本・道東刑務所⑦
カーテンのない窓に違和感を覚えなくなってから、決して短くない年数が経っていた。その間、自分の魂が宿っているこの身体は日々否応なく代謝を繰り返している。私はこの塀の中で一体どれほどに相当する亡骸を脱ぎ捨てて来たのであろう。
こんな日が来るとは微塵も思っていない過去の自分は、降り積もって肥大した自分の亡骸によって覆い隠されて行く。いやそれを口実に目を背け、無理に忘れようとしているだけかもしれない。
かつては代謝していく自分の身体など意識もせずに『食うために仕事をしてる』と宣ったものだが今は違う。
私は身に覚えのない罪を償うために日々、工場に出役して働いている。
刑務所というところは、それはそれは地獄も地獄、大事な人を殺した犯人が長い懲役に処せられることによって、被害者の親族がそれで留飲を下げてしまうほど、ぐらぐらと煮えたぎった釜に放り込まれるようなところだと、何とも抽象的なイメージを抱いていたものだから、最高裁で上告が棄却された日の晩は、これから始まることが確定した長い受刑生活に心底恐れ慄いていた。自分の中に、まだそんな弱い部分があったのかと驚いてもいた。
私はそれに対する失望と怒りを、絶えず代謝していく己の亡骸に練り込んで処分している。そうすることで私は今も尚、犯罪者ではないと言う自分を守っている。
工場に出役する私に誰も近寄ってこないのは、罪を認めていない者だけが放つものを、彼らは敵意に似たものに感じるからではないだろうか。
「1392番の柏木、担当前までこい」
刑務官はいつだって高圧的に受刑者を呼びつける。私は作業の手を止めて「お願いします」と声を張り上げると席から立ち上がり、指先までキッチリと伸ばした腕を肩の高さまで振り上げながら、担当職員の前まで歩いて行った。
「1392番、柏木です」
担当職員と対面する時は、まず気を付けの姿勢で自分の称呼番号と姓だけを名乗るのが規則だった。
するとそれまで厳しい顔つきで私を睨み付けていた担当職員は、まるで胸襟を開いたかのように相好を崩し、手にしていた書類を私に見せながら言った。
「今日この書類を舎房に入れるから、記入して明日の朝に提出しろ」
その書類は幾つかの課題に答える作文のように見えた。
”今回起こした事件の原因について”
”どのように反省し受刑生活に生かしたか”
などと書かれている項目が見えた。
「これは何でしょうか」
真顔でそう答えた私に刑務官は、そんなことも知らないのかと言いたげな顔をした。基本的に再犯受刑者を受け入れている刑務所にあって、このような私の反応は珍しいのだろう。
それでも刑務官は、種を明かさずに、
「とにかく明日提出すること、解ったな」と言った。
「柏木さん、パロールが入ったんですね。おめでとうございます」
その日の昼食後の休憩時間に、声を掛けて来たのは三野というヤクザ者だった。年の頃は30代半ばというところだが、この男は日本最大の暴力団組織の二次団体の若頭という肩書き持っているだけあって、他の受刑者には感じない人間的な底の深さを所作や言葉の節々から感じさせるものがあった。恐らくこの男は、全く別の世界で生きていたとしても、今のそれに匹敵する地位に昇りつめていたのではないか。
一般的に受刑者は、事故なく半年を経過する度に無事故章というワッペンをもらい肩に身に付けることになっている。半年ごとに型の違うワッペンを身に付けることによって、どれだけ無事故で生活をしているかひと目でわかるようになっているのだ。
三野の肩には、2年半の無事故章が付いていた。それでも私の半分にも満たない年数だ。それなのにこの男は私の知らない刑務所用語をさらりと述べた。
”パロール”
英単語にして仮釈放という意味から、この時私はだいたいのことを察していたが、私の身体は、意味が解らないという体の小芝居を打った感じになった。それはこれだけの大物に初めて話し掛けられたと言う緊張感が伴っていたせいもあった。
「あれっ、さっきオヤジに言われてなかったですか」
三野の口振りは、まるで旧知の知り合いに喋り掛けているかのようでもある。そのせいか開いた自動扉をスムーズにくぐるように私は自然な自分を取り戻し、三野の言いたいことが、まるで構えたところにボールが入って来るかのように、すんなりと理解ができた。今日渡された書類がパロールだと言うことを。
「あぁ、あれがパロールだったんですか、長く務めていますが、あれが噂に聞くパロールだったとは思いもしませんでした。どうもありがとうございます」
「柏木さん、そんなかしこまった口を利かないでください」
三野はそう言うと私の傍らに腰を下ろした。年齢を確認し合うと互いに38歳だということが判明し、暫し同世代の話題で盛り上がる。
パロールが入ると言うことは、その数週間後には地方更生委員会という機関から面接官がやってきて仮釈放にむけた準備前面接が行われることが約束される。これを通称で仮り面と呼ぶ。そしてこの仮り面から数カ月後に今度は準備面接という本面接が行われ、その後約3か月後に仮釈放という運びになることから逆算するとパロールが入ってから約半年後に社会復帰できると考えることができる。
但しその途中で事故を起こして懲罰などということになれば、この流れは無論立ち消えになってしまうので、より一層の自重を強いられることにもなる。
このようにして仮釈放を決定をするのは、あくまで地方更生委員会であって、刑務所側は身柄引受人がいて生活態度が真面目な者等、条件が整っている者を委員会に推薦しているに過ぎないのだが、私の場合それらの条件とは全く違う観点から仮釈放の対象にはならない瑕疵がひとつあった。
それは私が今回の事件において最高裁まで上告し無実を主張し続けたからだ。その主張は今も変わらない。そもそも仮釈放は何かというと、自分が犯した罪を悔い改め、更生に向けた真摯な態度が認めれた証でもあるのだ。法廷において罪が確定したにも拘らず、それを根本から認めないという姿勢は、仮釈放の理念にそぐわないとされるのは道理と言うものだ。
私がパロールというものに対して無頓着でいたのは端から仮釈放をあてにしていなかったからだ。因みに暴力団に加入している者にはパロールは入らない。それなのに私にパロールが入ったことを祝ってくれる三野という男の気遣いが、実はこのような理由で無用だということを私は話して聞かせた。
すると三野はこんなことを言った。
「だけどね柏木さん。どんな事件か知りませんけど、もう服役しちゃったわけなんだから面接のときは方便だと思って、今では反省してるって言ってしまえばいいんですよ。待ってる人だっているんでしょ、こんなとこ一日でも早く出た方が勝ちなんだからさ」
三野の言うことは尤もである。しかし私の身に振りかかった事件を知ったら、きっとそんな事は言えなくなるはすだ。しかしここでそれを話すには、私の経歴から話さなければならないし、この場では時間が短すぎる。加えていつになく多くを喋る私の言葉に聞き耳を立てている者もいる。もし私の経歴が知られたら、それこそ私はこの工場から出て行くことになるだろう。だから私は、三野の助言に当り障りのない返答をした。
「休憩時間終了」
食堂内は潮が引いて行くように静かになった。
毎日、判を押したように同じことが繰り返される日常にあって、懲役は毎日顔を付き合わせる工場担当の機嫌は声を聞いただけで解ってしまうものなのだが、今の号令の具合はこれまでにあまり例のない響きを纏っていた。
工場担当はしばらく手に持った書類に目を落としている。その眉間に寄る皺は一向にリリースされる気配がない。
「どうしたんですか、オヤッさん」
一番近くにいた懲役がシビレを切らせて訊ねた。それでも工場担当は歯切れが悪く、あぁとか、ちょっと待てとか言ったかと思うと仕舞いには首をひねりだした。それから暫くしてようやく口を開き始める。
「まぁいいわ、ちょっと読むからみんな聞いておくように、恐らく職訓みたいなものだ」
職訓という言葉を聞いて対象外である暴力団の連中は揃って、なんだとばかりに肩の力を抜いた。食堂内の緊張感が一気に半減したが、それを察した工場担当は付け加える。
「いや今回は、ヤクザ者も関係があるぞ。いいかよく聞いておけよ」
と言いつつ工場担当は尚も暫く書面を眺めてから読み始めた。
「社会貢献プログラムの参加募集について。昨今の日本の社会事情に鑑み、懲役受刑者にも社会貢献に参加できる機会を与えることになった。募集人員は300名、期間は6ヶ月。実施場所は府中刑務所において3日間のオリエンテーションを行った後に実施場所に派遣。派遣先は、その都度発表するものとする。資格は実施期間中に刑の満了を迎えない者。派閥関係者可。尚プログラム終了後は行った社会貢献に対して特別恩赦が適用されることになり釈放となる、以上」
工場担当は抑揚を付けないで一気に読み上げた。そして何ごともなかったように振舞おうとしたが、それどころではなくなった。
耳を疑うとはこのことだ。食堂内の懲役は総立ちになって担当職員にもう一度説明してくれと殺到した。
「てめえら無断離席するなっ、上げちまうぞ、席にもどれ」
「釈放って本当かよオヤジっ」
懲役が興奮するのも無理はなかった。参加できれば半年後の釈放が約束されるのである。しかも通常の職訓のように全国からたったの10名などという僅かな募集人員ではないのだ。くわえて派閥関係可ということは暴力団員でもいいということである。
食堂内は更に詳しい説明を求める者や、もうその気になり切って大声を上げる者たちでほとんど収集が着かない状態になった。きっと他の工場でも似たような現象が起きているに違いない。
だが私だけはこの興奮から一人取り残されていた。
私はこの社会貢献が意味するところを知っていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます