第17話 アフリカ・南スーダン
強烈な陽射しを背にした黒人の大男の影は、対峙しているハギギ・ホルモズ・ドヤールをすっぽりと覆い隠していた。
その大男は、先端が尖った細いパイプのようなものを束にした冠を被っている。端から見ると大きな剣山を被っているようでもあった。その冠は外れてしまわないようにしっかりと顎紐で固定されていて、他のどの男たちの冠よりも立派な作りをしているのは、この大男がこの部族の長であることを象徴していた。
黒光りした岩石のような肉体は大人5、6人がまとまってタックルを敢行しても微動だにしないだろう。
不意にその大男が獣のような雄叫びをあげた。
これが部族の誇りと尊厳を掛けた戦いの火蓋を切る狼煙でもあった。
部族の戦闘衣装に身を包み銃火器やサーベルのような刀剣を天にかざした他の男たちも一斉に咆哮をあげる、それでも大男とハギギの一対一の決闘に加わろうする者はいない。丸腰の2人に武器を渡そうとする者もいない。
ハギギの後方から、アルセン・グラミリアンやケル・ブルックらが、対峙する戦闘部族に負けじと雄叫びをあげると、向かい合う2人の頭上で交錯した。
大男の長い雄叫びは、大気を震わせて、痛くなるほどハギギの耳孔を刺激する。
その呆れるほどの肺活量に、ハギギは挑発的に口の端を歪めると片手の人差し指で耳の穴をほじくった。
大男はハギギのそれに激昂した。ピタリと雄叫びを止めると同時に、わき目もふらず両手を前に突き出して襲い掛かってくる。
周囲の雄叫び合戦は歓声や怒号に変り、それまで以上に騒がしくなった。
ハギギは大男の突進を素早くサイドステップで躱したかと思うと間髪入れずに懐に潜りこんで、拳を返した左のボディーアッパーを大男の右わき腹に叩き込んだ。蹴り足から連動した腰の回転によって上体を下からひねり上げるように繰り出した渾身のブローは角度といいタイミングといい自分でも惚れ惚れとするほどの一撃だった。
これで終わりだ。
そう確信した次の瞬間、ハギギの拳は悲鳴をあげた。たまらずバックステップを踏んで距離を取った。
まるでトレーラのタイヤを叩いたような感触だった。さすがに折れてはいないがジンジンと熱くなっている拳は、しばらく使いものになりそうもなかった。
大男は、後ろに躱して行ったハギギを追って悠然と振り返ると、ハギギが拳を叩きつけた脇腹をポンポンと叩いた。その口の端は挑発的に歪んでいる。
「ただのデブってわけじゃなさそうだな」
「ボスッ」ケルが一際大きな声を張り上げる。
「顔だ、顔を狙うか、膝を狙え」
確かにフィジカルの脅威には、鍛えようのない頭部を狙うか、ゆうに150キロはありそうな巨体を支えている膝を狙うのが最善と言える。
ハギギは片手を軽く上げてケルのアドバイスに了解のポーズを返すと、両肘を上げてファイティングポーズを取ったまま大男に突進していった。
まさか相手の大男がその巨体でハギギの肩口に届くハイキックを放ってくるとは予想もしなったが、首尾よくそれに反応したハギギは、そのハイキックの軸足となっている大男の左膝を狙ってカーフキック放つ。
が大男はそれを予期していたかのように、ハギギの蹴りを避けると、丸太のような右腕のラリアットをハギギの上半身にぶつけた。咄嗟に左腕を折り畳んでラリアットから身を守るも、大男のラリアットは、信じられないような衝撃をもたらしてハギギの身体を吹っ飛ばした。
「ボスッ」
人垣から踏み出してハギギに駆け寄ろうとしたアルセンの肩をケルが掴んだ。
「離せ、ボスを見殺しにするつもりか」
「馬鹿野郎、今出て行ったら両軍入り乱れて、真っ先に殺されるのは奴らの足元に転がっているハギギだぞ」
ケルが言った通りハギギが今倒れているいるのは武装した相手部族が人垣を作っている目と鼻の先だった。
ハギギの身体は、まだ衝撃が抜けきらないのか、わななている。
奥歯が砕けるほど顎に力がはいるアルセンは踏み止まるしかなかった。
「アルセン、うちのボスがあれくらいで終わると思なよ」
大男はわなないているハギギの無様な姿に気を良くしたのか、振り返ってアルセンやケルを見据えると、握った拳から突き出した親指を下に向け、そのままゆっくりと頭を回しながら首を掻き切るポーズを見せつけて、ベロリと舌を出した。
「あの野郎っ」
「まてっ」
いきり立つアルセンをケルが制止したときだった。
ハギギの右のハイキックが、大男の背後から右耳の辺りに炸裂した。
復活したハギギの姿に、アルセンが拳を突き上げて咆哮をあげる。
三半規管を揺らされた大男は足元をふらつかせてよろめいたが、それでも背後からの追撃に対して反射的に裏拳を振り回した。しかしそれは空を切った。その反動で大男は振り返る。
アルセンやケルには大男の半回転に合わせて背後を取り続けるハギギの動きがハッキリと見えたが、大男は完全にハギギの姿を見失っていた。
ハギギは飛び上がって大男の頭部に膝をぶつけた。今度は左耳の後ろを狙った。
ハギギのこの攻撃で大男の聴覚は鋭い耳鳴りに支配されていた。前後左右の方向感覚も沼に足元を取られているかのようにぐにゃぐにゃとしている。そのせいでとにかく顔面をガードしたのはほとんど無意識だったに違いない。
「ボスッ、次は奴の膝だ、膝」ケルが叫んだ。
しかし、ハギギが仕掛けたのはボディー攻撃だった。
顔面をガッチリとガードしたまま腰を据えて平衡感覚の回復を待つ大男にハギギは左ボディーを何度も叩きつけた。
執拗にボディーを打ち続けるハギギ。顔面をガードしたまま動こうとしない大男。まるで大男の腹が壊れるのが先か、ハギギの拳が壊れるのが先か、意地の張り合いでもしているかのようだった。
やがて両軍の怒号は、それ以上の進展を見ないシーンにやり場を失い静かになっていく。聞こえてくるのはハギギの拳が肉を打ち続ける音と2人の荒い息遣いだけになった。
「ケル、ボスのパンチは効いてるのか」
アルセンがそう呟いて、ケルがゴクリと固唾を飲んだ時だった。
大男の膝がガクガクと小刻みに震え出した。それを合図に一気に崩壊が始まる。
ガードを解いて露わになった大男の顔は、黒人であっても顔面蒼白だと言うことが見て取れる。今にも何か吐き出しそうだ。やがて右の脇腹を両手で押さえながら大男は身体を九の字に折り曲げて口からゴボゴボと胃液を漏らしながら跪いて地面にうずくまった。
ハギギが両拳を天に突き上げる。
勝負が着いたのは明らかだった。
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